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日本の政治経済的課題 (その8)

2007-08-16 12:47:22 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その8- - -1980年代(その3))
この本(JAPAN,THE COMING COLLAPSE)は1991年2月6日に序文が書かれていますので、1990年末までの日本を精細に研究したものです。しかし発刊されたのは1992年なので、1991年度も一部言及されています。従って精細な分析の部分は今回で終わりになります。しかしながら更に日本の問題点を厳しく追及するのに、300ページの中の180ページを割いていますので、この関連Blogは、更に10回位は続ける積りです。
著者は続けます。
”政府借入金は(前回の末尾参照)、それに基づいて銀行が信用枠(借り手の限度額)を膨張させることの出来るベースを提供する。1887年のドルを支えるべく行ったG5の中央銀行の公的な為替市場への介入がヨーロッパと日本の通貨供給量を大幅にに増やしたのである(日本では、1987年2月から1990年初めまで従来よりも、年率2%アップのmonetary supply growthを維持した(即ち従来の年率8%増加から年率10%増加を、この約3年間の期間、キープした))。それはアメリカ人に彼らの問題を是正するよりも無視する余裕を与えた。もしドルの下落が、それ以上に続いていたら、彼等は 利子率を上げるか、その予算赤字にもっと早く取り組まざるを得なかったであろう。その結果は悲劇的であった。株式市場の株価と資産価格は1980年代初めから上がり続けていた。1986年の終わりには、市場は適正な価格であった。しかし1987年の通貨過剰が投機に火をつけたのである。株式市場はブームに乗り、資産価格は高騰した。1886年12月から1987年8月の間にウオール・ストリートの株価は、1991年まで上がることのないピークである、43%上がった。東京市場は、1987年10月までに42%上った。1986年の底値からの反動で値上がりした石油価格に弾みをつけられ、インフレは加速し始めた。1987年初秋までには、各国の中央銀行は心配し始めていた。ドイツ連邦銀行に先導され、彼らは投機過剰を抑えるために利子率を上げた。アメリカ連邦準備制度理事会も余儀なく後を追った。国債市場は暴落し、国債の売り上げは上った。アメリカの長期国債の利益と過大評価された株価での利益とのギャップは広がった。投資家は恐れ1987年10月19日、バブルは弾けた。ウオール・ストリートは暴落し、その影響下で、世界の残りの市場を下方へ引きずって行った。東京市場は1日で15%下落した。この1987年の株価暴落に日本の果たした役割には、大いに興味がある。それは、現在、世界の資本市場の間に存在する密接な相互関連を実証している。1986年のサミットで、日本は巨大な貿易黒字を出し国際経済を混乱させているとして各国から非難された。1987年ベニスでのサミットで更なる非難を受けないように、日本政府は、GDPの2%アップに相当する、6兆円の公共投資と減税のパッケージを発表した。日本はなお予算赤字の削減と戦っていた。幸運にも、公共投資を削減し予算を均衡させる対策の婉曲語であった、所謂、 ’行政改革’ の一部として、日本はNTTの民営化に乗り出していた。その故に、このリフレーションのパッケージのコストはNTT株の第2回目の販売で取り戻されることが出来たであろう。第1回目の1,950,000株は1987年2月に販売された。提示価格は1株1,200,000円(8,000ドル強)であり、それは会社のP/E Ratioで計算した株価の130倍であった。東京市場の株価の平均のP/E Ratioは34であったので、NTT株は、極めて過大に値付けされていると見られた。しかしながら、8百万人の日本人が、2兆3,400億円を支払う約束をすることになる、応募をしたのである。この株を買うべく奔走した、日本の主婦達、と大抵の大会社の投資家達は、そうするのが愛国的だと感じたのである。彼らはまたその株価は値上がりすると見込んでいた。もしNTT株が直ちに割増金を生むまでに上らなかったら、大蔵省と大手のブローカは大いに面目を失墜したであろう。株値は急騰した。1987年4月には株価は1株3,200,000円で取引された。一階で、それらを入手出来た人たち、即ち株のブローカの人たちの常連客にとっては、2ヶ月で160%の儲けであった。この価格では、NTT全体で3400億ドルになった。それは、ドイツの会社の何れの株よりも、ブラジル、メキシコ、とアルゼンチンの合計対外債務よりも、オーストラリア、ニュージーランド、ポルトガルとギリシアの合計のGNPの年額よりも、多額であった。第2回目のNTT株の販売は、1987年11月9日に予定されていた。その発行価格は1株2,550,000円(18,000ドル)であった。その購入の為に準備すべき現金の額は、5兆7000億円、350億ドル、であり、日本政府の全ての7月の会計予算の殆どをカバーするに十分な額であった。10月日本の投資家達は、現金を引き出して箪笥に入れるべく奔走した。ドルは不安定に見えた。そこで現金を作る最良の方法は、アメリカからお金を日本に持ち帰ることであった。かくしてこの株価暴落が起こったのである。現在の(1990年当時)財務長官のNicholas Brady氏、は当時、ニューヨーク投資銀行、Dillion、Reed & Co.の会長であった。彼はレーガン大統領に、調査団を率い、この株式市場の崩壊を調べ、何がその原因であるかを調べるように依頼された。1988年4月、年金のファンド・マネージャの会議で彼は次の様に語った。

’人々は、”一体10月19日に株式市場を崩壊させたのは何か- -アメリカの双子の赤字か、ロステンコフスキーの税金の立法か、そのどちらか。”と私に尋ねる。引き金は、それらのうちの何れでもない。実際の引き金は、日本人が、彼ら自身の理由から入ってきて、莫大な額のアメリカ国債を売り、その結果、30年満期の国債の金利が上がった。それが10%になったとき、人々は”株で得られるリターンの4倍だ。またインフレになる。”と感じた。私には、10月19日を起こさせたのはこれだと思う。即ち 日本人がドルに対して持った心配 が その原因である’と。

確かに日本人が引き金を引いたけれども、彼等は銃に弾丸を込めていなかった。1987年10月の株式市場の崩落は、ドルを支えるべく、5カ国の中央銀行が、市場に介入した直接の帰結である。その厳しさが人々の1929年の記憶を呼び起こした。人々はそれが1930年台の様な不況の前兆であると心配し、エコノミストはそうした心配を憂鬱な予想で大きくした。政府はリセッションの恐れが大きくなるにつれて、インフレの心配を忘れた。”
”世界中で市場が値崩れをする中で、するべきことはただ1つであった。すなわち、全ての国が、通貨供給の増加を抑制する努力を緩めたのである。憂鬱な予言は根拠がないことが判明した。1980~1982年のリセッションからの緩慢燃焼の回復がその第2次に入ろうとしていた。これまでは、景気回復は、低下する貯蓄と増加する消費によって、支えられて来た。投資の回復は、弱かった。1980~1982年のリセッションは、その後遺症として過剰な遊休プラントと設備を残し、失業率は高く、労働力は豊富であった。これらのプラントと設備の使用率が、更なる投資がペイするまでの高さになったのは、この緩慢燃焼の回復の5年目になってからであった。遅ればせながら、投資はブームになり、丁度エコノミスト達が回復が停止するだろうと予測した丁度その時に、回復を支え補強したのであった。1988年は素晴らしい年になった。日本のGNPは6%増加した。イギリスとアメリカは4.5%上った。遅い動きのフランスとドイツはそれぞれ4%増加を達成した。この年度は1980年代では、1984年度に次いで、2番目に成長率が高い年となった。”
”アメリカとヨーロッパは誤りを認識した。彼等は 1988年初めに 通貨政策を引き締め、利子率を上げた。日本は例外であった。その経常収支の黒字は1987年には870億ドルに達した。貿易の報復への圧力が強くなった。11月に大統領選挙を控え、アメリカ議会はいやなムードであった。議会は、1988年4月に、悪名高い’スーパー301条’を含む 総合貿易法案(Omnibus Trade Bill)を通した。この条項は、不公正な貿易慣行の故にアメリカとの二国間で大きな貿易黒字を記録している国に対して大統領が制裁を課することを要求している。(アメリカに対して大きな貿易黒字を出しているということは大抵の議員によって不公正な貿易の確かな証拠とみなされた)大統領はこの法案にサインし、1988年8月に法律となった。悪化する貿易摩擦の為に、日本は、他の国よりも1年長く安価で容易な通貨政策を維持する気になった。成長と貿易収支への結果は満足のいくものとなった。アメリカ経済が減速するにつれて、日本の経済はブームとなった。アメリカの実質GNPは1989年は2.5%に落ち、1990年には1%以下となった。日本の成長は4.9%から5.4%に加速した。なお良いことに、1990年には、アメリカの経常赤字が900億ドルに減る一方で、日本の経常黒字は1990年には360億ドル、GNPの1%に縮小した。日本のブームは日本の問題を解決する様に見えた。すなわち、貯蓄は落ち込み、投資は増えた。アウトプットは急速に上がり、貿易収支の黒字は縮小した。日本は急速成長路線に戻った。1987年と1990年の間に、日本は貨物列車経済から機関車経済に変わったのである。国内需要はこの3年間に亘って、平均6%上った。しかしこのうち1%は高い輸入に回され、他国の成長を助けたのである。したがって日本のアウトプットは平均5%上った。しかし不運にも、この成長は不健全なベースに基づいていた。それは、資産価格インフレによってもたらされたのである。東京株式市場の株価は、1987年10月の崩落に続く2年間の間に、120%上った。日経指数は、崩落後の底値の17,387から1989年の12月の終わりには38,915に上ったのである。資産の価格は殆ど同じ位急速に値上がりし、住宅と商業資産価格は1986年~1989年の間に2倍になっている。値上がりする株価と資産価格は全てを持つ1/3の日本人を努力なしで更に裕福にしたのである。彼等は収入から貯蓄することに意義を見出さなかった。少ししか持たない2/3の日本人もまた、貯蓄することに意義を見出さなかった。彼等は自身の家を買うのに十分な貯蓄を持たなかった。全ての日本の消費者は買い物競争をしたのである。個人の富が増加する一方で個人の貯蓄は減少した。家庭の純貯蓄は1986年の可処分所得の16.1%から、1990年の13.8%に低下した。会社もまた我を忘れて、消費に走ったのである。全体の投資は1987年と1990年の間で、約40%上った。プラントと設備への投資は3年間に約50%上った。GDPに占める全投資の割合は、18%から23%に上った。通貨は借りるのに殆どコストがかからなかったので、資本消費は急に増加した。会社もまた、株式市場と土地への投機で、多くの利益を出した。投資計画はどの様に融資を受けるかを考慮することなしにその望ましさに基づいて決定された。お金は、製造部門の管理者と人事部門に関する限りは拘束とはならなかった。円は強くなったので、日本の製造者達は上級マーケットを狙うこと、すなわち、殆ど価格に関係なく、入手できる工学的に最も進んだものだから売れるというものを製造することが絶対条件となった。そしてブームが運動量を持ってくるにつれて、労働力が不足になってきた。安い資本が労働力に替わって使われた。最後には、全ての新しい資本投資の1/4は、賃金アップにに等しいものであった。すなわち、新しい寮設備、Swimming pool、スポーツ・アリーナが若い労働者の為に作られた。一連の新しい社用車が上級取締役の為に購入された。資本の生産性は落ちた。そうとしても、日本の投資ブームは、国内市場に供給するために使用されないとしても、きっと、再び輸出を増やすことに切り替えられるであろう能力を追加したのである。投機のバブルは1990年の初めに破裂した。東京株式市場は、年初の40%株価ダウンの状態で、1990年を終えた。最も悪かったのは、日経指数が、1990年10月1日、20,221、1989年12月のピーク値(38,915)の殆ど半分になった時であった。資産価格は安くなったが、少しばかり下がっただけで、1989年5月に利子率が上り始めた後でさえ、そして特に株式市場が崩壊した1990年を通して、安易な投資の支出は続いたのである。お金は利子が高く、借りにくくなったというメッセージが浸透するのに長い時間がかかった。国内需要が十分に下がったのは1991年になってからであった。そうなったときには、過剰貯蓄の昔からの問題が再び出現した。日本の貿易収支の黒字はまた急速に膨張を始めた。90億ドルの湾岸戦争支援の支払いにもかかわらず、日本の経常収支の黒字は1991年度は1,200億ドル,GNPの3%となった。”



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