ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ベラルーシの年金支給開始年齢が引き上げられました

2016-04-14 | ベラルーシ生活
 ベラルーシでは何歳で定年退職するのか? その答えは男性60歳、女性55歳でした。
 これが3歳引き上げられることに決定しました。
 つまり男性63歳、女性58歳です。

 性別によって差があることに驚かれる日本人も多いかもしれませんね。
 私はベラルーシ人男性の平均年齢を考えると、男の人は定年後のセカンドライフがまた短くなるなあ・・・と思いました。
 
 どうして女性のほうが5年早く年金をもらえるのかと言うと、
「男性より女性のほうが苦労が多いから。」
というのがベラルーシ人の考えだそうです。
 日本では性別で差はないです、とベラルーシ人に言うと、「日本は女性差別している!」と思う人が多いです。(^^;)
 
 ちなみにベラルーシでは子どもを5人以上産んだ女性は、50歳で年金をもらえます。
 (今はこれが53歳になったのかな? 今度SOS子ども村へ行ったとききいてみます。)
 どうしてこんなに早いのかというと
「子どもを5人以上産んで、少子化対策に貢献している。ずっと子育てしてきて疲れているだろうから、早めに定年退職して、国から年金をあげて苦労をねぎらう。」
からなのだそうです。

 こういう政策があれば、日本でも出生率が上がるでしょうか? どうでしょうか?

 ちなみにベラルーシでは2005年から出生率が上昇に転じました。飛躍的に子どもの数が増えているわけではありませんが、2005年のレベル以下にはなっていません。この傾向が続いています。
 さまざまな少子化対策を打ち出した結果です。 

ベルギー同時テロの容疑者はベラルーシ出身?正しくは・・・

2016-03-24 | ベラルーシ生活
 3月22日ベルギー・ブリュッセルで発生した同時テロの容疑者が3人います。
 そのうち2人は兄弟で、すでに自爆して死亡し、残り1人は逃亡中です。

 この兄弟がベラルーシ出身らしいことを今日ベラルーシのKGBが発表しました。(←これは間違いであることが後で分かりました。*)
 こちらの報道によると、兄弟の名前はアレクセイ・ドブバシとイワン・ドブバシ。
 日本(ベルギー発)の報道とは氏名がちがいます。イスラム教に改宗してから氏名が変わったようです。

 この兄弟はゴメリ州出身で、16年前の2000年母親に連れられ、ベルギーに移住しました。12歳と7歳だったそうです。
 父方の親戚はベラルーシに住んでおり、ベルギー移住後もときどき父の家や祖母の家に遊びに来ていたようです。
 母親はベルギー人と再婚。

 移住してから6年後、18歳になった兄は学校卒業後、ボクシングを始め、そこでイスラム教に傾倒するきっかけがあったらしく、兄弟でイスラム教に改宗しました。それまでは正教徒だったようです。

 名前もスレイマンとハリドに改名したようですが、一般に報道されているのはブラヒム・バクラウィとハリド・バクラウィです。(これも同一人物という報道が一部あったのですが間違いです。)
 2014年兄は仕事を求めてトルコに滞在。1年半そこにいたようですが、犯罪を犯してトルコから退去させられています。
 
 で、すごく変なのは、この兄弟は空港で自爆しすでに死亡したことになってますが、KGBはテロが発生したとき、兄のほうは、ベラルーシのゴメリにいた。つまり実行犯ではない、と発表していることです。
 これが本当なら、死亡した兄は別人? スレイマンは生きていて、死んだのはブラヒム?

 私の頭の中は「?」になっています。(←これも後で意味が分かりました。*)

 また逃亡中とされるナジム・ラーシュラウィ容疑者ですが、こちらの報道ではマラト・ユヌソフとなっています。(←これも別人です。*)
 そして、マラトはロシア出身。1990年から1998年までベラルーシのグロドノ州で暮らしていましたが、その後ベルギーへ移住。しかし少なくとも5回ベラルーシに入国したことがあり、最後にベラルーシへ来たのは2010年だそうです。

 ちょっとはっきりしない点が多いので、この件についてはまた後ほど内容を追加します。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 *追記です。上記の記事の中の*マークがついているのも追記です。
 私がちょっと間違っていることが分かりました。
 ベルギー同時テロの犯人である兄弟とベラルーシ出身の兄弟は別人です。
 ただこの2組の兄弟同士がテロ組織に関わっていた・・・ということなのです。

 アレクセイとイワンの兄弟は両親の離婚後母親に引き取られ、母親はベルギー人と再婚。ベルギーに移住しました。
 その後、ベルギーでイスラム教に改宗し、改名もしました。さらにロシア筋の情報によると、2人はシリアに渡り、テロリストになる訓練を受けたらしいのですが、はっきりしません。
 2016年2月にベルギーに帰国した記録があるのですが、どこから帰国したのかは分かりません。シリアからベルギーには直行できませんし・・・

 ともかくこのベラルーシ人兄弟とロシア人マラトの3人はベルギーで知り合い、マラトは爆発物を製造するのが担当だったようです。
 この3人は昨年末からベラルーシの国家安全委員会のチェックリストに入っていて、将来テロを起こす可能性があるとしてマークされていました。
 ベルギーで同時テロが起きた後、この3人が何らかの形で関わっている可能性があったため、調査されたのですが、その結果ドブバシ兄弟の兄のほうはテロが起きたとき、ベラルーシのゴメリにいたことが判明。つまり無関係であるとベラルーシ側が発表したのです。

 一方弟のハリドとマラトのほうは今回のテロに無関係であるという確たる証拠がない(あるいはまだ調査中で結果を発表できない)状態です。

 ああ、いやだなあ、ベラルーシ人がテロリストに関与してたら・・・と思いましたが、私がもっとびっくりしたのは、ベラルーシ内務省が約10人のベラルーシ人がイスラム国の戦闘員になるためシリアに入国していると発表していることです。

 何がよくてイスラム教徒になってまで(もともとイスラム教徒だった、という人もいるでしょうけど。)危険な戦いの中に身を投じるのでしょう?
 世捨て人みたいな心理状態なんでしょうか???


夫婦別姓 ベラルーシでは

2015-12-17 | ベラルーシ生活
 日本では夫婦同姓は合憲、という判断が示されました。
 ベラルーシの場合はもちろん夫婦別姓が認められています。
 ちなみに私たち夫婦も別姓です。
 日本人でも外国人と結婚すると、別姓が認められます。つまり日本人の苗字のままにしてもよいわけです。
 だから結婚しても夫婦別姓のままでいたい! と言う方は国際結婚しましょう・・・というのは冗談です。(^^;)別姓にしたいから無理やり外国人と結婚するわけにもいきませんからねえ。
 
 私としては選べるようにしたらいいのにと思います。個人の権利や苗字選択の自由があるほうが21世紀社会だと思います。
 ただ一つ気になる点があります。
 それは後回しにして、ベラルーシではこんな状況だとまずご紹介します。

 そもそもベラルーシは日本と同じ父系社会です。
 昔は結婚すると、妻が夫の姓に変えるのが当然でした。
(例外。貴族は二重姓、つまり夫の苗字と妻の苗字を合体させた苗字を使うことがあった。ベラルーシに住んでいてもユダヤ系は母系社会であるため、妻の苗字が優先されることが多かった。)

 しかしソ連社会になり男女平等が謳われるようになり、姓を選択できるようになりました。
 同性にしてもいいし、別姓にしてもいいわけですが、実際妻が別姓を選ぶのがこういう場合です。
 独身の頃から著名なスポーツ選手などでその苗字が広く知られている場合。
 妻の家系が元貴族、妻の実家が有名人一家など、その苗字が有名でステータスを持っている場合。
 夫のほうの苗字の意味が変だったりかっこ悪い場合。(「馬鹿」とか「犬」とか「ごきぶり」とかそういう苗字がたまにあります。)

 こういうケースは少数派です。
 そんなわけで、選べるといっても結局夫のほうの苗字に変えるというケースがほとんど。
 子どもももちろんお父さんの苗字をもらいます。

 次にもし夫婦別姓となった場合、子どもの苗字はどうなるの?という問題が起きます。
 その場合、子どもの苗字を父と同じにするのか、あるいは母と同じにするのか選べます。
 しかしベラルーシの場合、もともと父系社会なので、父親と同じ苗字にすることが多いです。
 でも赤ちゃんのときに親が決めるものであって、本人が決められません。そこで、もし子どもが成人したときに、
「父親からもらった今の苗字を母親の苗字に変えたい。」(あるいは母親の苗字を父親の苗字に変える)ことは手続きさえすればできます。

 ついでにいうと、兄弟で違う苗字をつけることもできます。例えば長男の苗字は父親の苗字。次男の苗字は母親の苗字、ということもできます。

 次にもし離婚となった場合、日本では妻は旧姓に戻すのが普通だと思います。
 しかしベラルーシでは同性にしていた夫婦が離婚後、旧姓に戻るのか、それとも夫の姓を名乗り続けるのか選べます。
 日本人の感覚からすると、感情的に
「夫が大嫌い → 離婚 → 嫌いな元夫の苗字を名乗り続けるなんて絶対イヤ!」
と思いますが、ベラルーシ人の場合、
「パスポートも夫の苗字になっているし、変更するの面倒くさい。」
などの理由により、離婚後も元夫の苗字を名乗り続ける人がいます。

 離婚して母親が子どもを引き取っても、子どもの姓は元夫のまま・・・というパターンがほとんどです。

 さて、ここで日本の夫婦別姓についてです。
 私が子どもの頃、こういう知り合いがいました。仮名ですが、山田さんと鈴木さんが結婚して、妻の鈴木さんが山田さんになりました。その後男の子が2人生まれました。山田お父さんは一人っ子。山田お母さんはお兄さんがいて鈴木家を継いでいました。しかしお兄さんには子どもが生まれませんでした。
 長男のほうは山田家を継ぎますが、鈴木家を継ぐ人がいないので、次男のほうを鈴木家へ養子に出しました。
 次男の苗字は鈴木になりました。しかしまだ未成年なので山田家で生みの両親に育てられています。
 つまり家族の中で1人だけ苗字がちがうのです。
 そして法律上の両親はおじさん夫婦です。

 今日本では一人っ子が増えています。しかも「苗字を残してほしい。家名を絶えさせてしまってはご先祖様に申し訳が立たぬ。」という慣習にとらわれている家庭が多い場合、日本で夫婦別姓を認めたとしても、子ども、つまり兄弟の苗字は統一しろ、という決まりのままだと、結局は別姓選択の価値が減ってしまうと思います。

 (日本社会が変わって「うちの苗字? 別になくなってしまってもかまわんよ。」という人が大部分になれば、こういう条件は抜きで考えればいいと思いますが。)

 夫婦別姓反対派の意見の中に「一つの家族の中で苗字がばらばらだと家族の絆が弱まる。一体感がなくなる。」と言う意見がありますが、上記のケースのように家族の中で苗字が違う場合はすでに存在しており、そのせいで家族の仲が悪いとは限らないのではないでしょうか。
 
 江戸時代なんて家族の中で苗字がばらばら、というケースはしょっちゅうあっただろうと思いますが、かといって親子の情が少なかったとか、そういうことはなかったと思います。

 大体世の中を見渡せば、同じ苗字を名乗っている夫婦の間が冷め切っていたり、同じ苗字を名乗っている親子の間で家庭内暴力とか殺人とかいっぱいありますよ。
 苗字が同じだから家族の絆が強くて仲がいいとは限りません。

 ですから家族の中で苗字が違っていてもいいと思うし、偏見の目で見ないほうがいいと思います。

 日本社会にあった夫婦別姓を認めるのであれば、子どもの苗字も個々に、どちらの姓を名乗らせるのかこれも選択できるようにする・・・この二つをセットにしなければ、夫婦別姓の権利が持つ価値が減ってしまうと思います。

 余談になりますが、国際結婚すると二重姓も認められます。
 「スミス・山田」という感じの苗字になります。
 私はベラルーシで結婚したので、婚姻関係の書類を日本大使館経由で提出しなければなりませんでした。
 大使館へ行くと担当の大使館員が「結婚後の苗字は二重姓にしなさい。」としつこく勧めてきました。
 そのほうがメリットあるのに、というアドバイスだったのかもしれませんが、あまりのしつこさにかえって怪しく思った私は「いえ、二重姓にはしません。旧姓のままにします!」と記入して書類を提出しました。
 大使館員は残念そうにしていました。
 あれは何だったのでしょう?
 いまだに謎ですが、外国人と結婚した日本人の差別化を図っているように感じ、不愉快でした。

 このようなわけで、私は苗字を変えていないのですが、それで満足しています。
 日本のケースですが「結婚して苗字が変わり、本人確認できないので、年金がもらえない。」などというニュースを聞くと、ベラルーシにも似たようなケースがあるので、名前を一切変えず、本当によかったと思います。

 子どもにも私の姓を名乗らせたので、ご先祖様への責務も果たしましたよ、私は。
 今後どうなるか分かりませんが、うちの子も結婚後、苗字は変えたくないと言っています。(日本人男性と結婚する場合、日本の法律に沿った選択をしないといけませんけどね。)

 家族の中で1人苗字が違う夫ですが、別に疎外感なんて感じていません。
 そもそもベラルーシではよっぽど著名な家系でもない限り、先祖代々子々孫々家名を残さねば、というような意識がありません。だから気楽な社会です。(^^;)

 
 
   

バイリンガル教育・T家のケース

2015-11-21 | ベラルーシ生活
以前の投稿にも書きましたが、混血の子どもだからと言って二ヶ国語ができるようになるとは限りません。

 どちらかというとバイリンガル教育を親はしてきたけれど、思っていたほどうまくいかなかったというケースのほうが多いようです。
 以前日本のラジオ局からベラルーシがテーマで取材を受けたときに
「そう言えば、Tさんは国際結婚されていて、お子さんもいますよね? 海外在住ですけれどお子さんは日本語ができますか?」
ときかれて「はい。」と答えると驚かれたようすで
「そうですかー。実は企画でバイリンガル教育をテーマにした番組を作る予定があって、今いろいろな海外在住日本人にこのような御質問をしてデータを集めているところなんです。でもTさんのように『はい。』と即答された方はほとんどいなくて・・・。この番組をつくることが決定しましたら、また改めて取材してもいいですか?」
と言われて、了承したのですが、その後このラジオ局から連絡はありませんでした。

 バイリンガル教育と言っても、実にいろいろなパターンがあります。

 両親は日本人同士なのか、人種がちがうのか、外国人同士か。
 住んでいるところは日本なのか、外国なのか。両親とは無縁の第三国なのか。
 ふだん通学する教育機関は? 日本の公立の学校なのか、外国の公立学校なのか、インターナショナルスクールなのか? 日本人学校に行くのか? 日本語補習校なのか・・・などなど
 両親以外にも外国語でコミュニケーションする相手はいるのか? 兄弟は? 親戚は? 友達は?
 同時に二ヶ国語を教えるのか、それとも一つの言語を母国語として習得させた後、もう一つの言語を教えるのか?
 バイリンガル教育にかけられる予算はどのぐらい?

 バイリンガル教育に成功した、という場合でも、どういうレベルを成功としているのか、基準はいろいろあります。
 二ヶ国語とも、4技能(読む、書く、聞く、話す)が完璧なのかどうか。
 それとも論文がすらすら読めるレベルにまで到達すれば完璧と見なすのか。
 それとも日常生活レベルに支障がないレベルであればよしとするのか。
 会話はできるけど、漢字は苦手という場合も成功例に入れるのかどうか。

 バイリンガル、と言ってもさらに「二重バイリンガル」「平衡バイリンガル」「偏重バイリンガル」・・・などいくつかの種類に分かれます。
 セミリンガル(ダブルリミテッド)という言葉もあって、要するに二ヶ国語を子供のときから勉強していたけど、結局どちらも中途半端になってしまい、「これならちゃんとできる!」という母国語が一つも確立しないケースもあります。(滝沢カレンさんはこのケースに当てはまるのかもしれません。)
 
 さらには子どもを取り巻く、環境や社会もちがってきます。また子どもの心理状態も人それぞれだし、成長するにしたがって変化します。
 反抗期に入って、1ヶ国語しかしゃべらなくなったというケースや、「自分は日本人じゃない。」と言い出して、日本語を拒否するケース。自分が住んでいる国の状況によっては「日本語ができたって就職などに有利にならない。」と勉強を放棄するケースなどが多々あります。

 このような条件を挙げていると本当にさまざまで、しかもその組み合わせの数まで考えると、大変な数のパターンに分かれます。
 バイリンガル教育、と一口に言っても、文字通り千差万別で自分の子どもとぴったり同じ条件の他のお子さん(前例)には出会えないと思ったほうがいいかもしれません。

 つまり他の人のバイリンガル教育の成功例も失敗例もそのまま自分の子どもに当てはまるとは限らないということです。

 ・・・ということを踏まえたうえで、T家のケースをお読みください。

 うちの子を取り巻く環境や条件はこうなっています。
 親の希望は「日本語とロシア語のバイリンガルになってほしい」です。あわよくば「ベラルーシ語もできるトリリンガル」。

 両親の人種はちがう。ウクライナ人の父親と日本人の母親。
 両親の母語は父親がロシア語で、母親が日本語。
 父親はロシア語以外にもウクライナ語とベラルーシ語ができます。(ただし書くのは苦手。)日本語は全くできません。
 母親はロシア語ができます。(完璧ではないですが、日常生活が送れて、職場でも問題なく使えるレベル。)

 子どもは父親とは常にロシア語だけで話しています。
 母親とは日本語です。
 しかし親子3人で会話をするときは全員ロシア語です。
 我が家では日本語とロシア語を同時に教え始めました。(生まれてからすぐということです。)

 生まれ育ったところはベラルーシ。ベラルーシの公用語はベラルーシ語とロシア語で、現地の義務教育でこの二ヶ国語は必須科目。

 ベラルーシに日本人学校はありません。日本語補修校もありません。アメリカンスクールはあり、外国人を受け入れていますが、日本語の授業は当然ありません。なのでベラルーシの公立の学校に通学しています。
 私立の小学校で外国語選択科目として日本語を教えている学校が1ヵ所ありますが、この学校が日本語を選択科目に入れたころはうちの子は中学生になっていたので、日本語を勉強する場として選択範囲の中に入っていませんでした。

 ベラルーシに住んでいる日本人の数ははっきり分かりませんが、今50人ぐらい。そのうち小中学校の学齢の子どもはたぶん5人ぐらい。(純血の日本人児童はいません。)
 日本人の同年齢ぐらいの友達もいません。
 兄弟もおらず一人っ子なので、うちの子が日本語を話す相手は、普段母親1人だけ。
 夏になると母方の日本人祖父母(もちろんロシア語はできない)がベラルーシへ遊びに来るので、そのときは日本語での会話が増えます。

 日本語の勉強になるからと子どもを連れて毎年日本に里帰りするということもしていません。
 本人が日本へ行ったのは生まれてこのかた1回だけです。6歳だったので、あまり記憶もありません。
 将来一家で日本に住む予定もありません。父親が日本語ができないのと、生活の基盤がベラルーシにあるためです。

 バイリンガル教育にかけられる予算は・・・あまりないです。というより、あわよくばあまりお金をかけずにバイリンガルになればいいなあ、と甘いことを考えています。(^^;)

 ベラルーシは人種差別が少ない国なので、「日本語なんかできなくていい! それより公用語であるベラルーシ語を習得せよ!」といったことはありません。
 父親も協力的で、二ヶ国語を教えることを肯定しています。
 一方でベラルーシは日本との関係が少ないので、日本語ができてもそれを生かせる就職先がベラルーシ国内にほとんどありません。

 じゃあ、進学や就職に役立たないし、ふだんコミュニケーションをとる相手もほとんどいないのに、なんでまた自分の子どもを苦労してバイリンガルにしょうとするのか? ときかれそうですね。
 その答えはいろいろあるのですが、何といっても「21世紀を生きるこれからの世代の人は2ヶ国語以上できるのが当たり前になってきており、そのためには子どものときから勉強を始めておいたほうがいい。」と思うからです。

 ・・・とまあ親のほうは立派な目標を掲げていますが、子どもが小さいときには「おじいちゃんとおばあちゃんと日本語でお話しできるほうがいいでしょ」レベルのことを言っていました。(^^;)

 反抗期に突入した娘ですが今のところ、日本語の勉強を続けています。
 12歳で日本語能力試験N2レベル(2級)も受かったし、(追記。その後14歳でN1レベル合格しました。)バイリンガル教育はうまくいっているほうだと思います。
 でもやはり漢字を書くのは同じ年齢の日本人の中学生と比べて苦手なほうだと思います。そしてやはり母語(一番とくいな言語)は何?と聞かれたら、ロシア語と答えています。
 寝言もロシア語が多い(^^;)ので、たぶん母語はロシア語で、日本語は母語ではないと思います。
 
 T家のバイリンガル教育ですが、ロシア語のほうは学校で勉強するので、特別なことは家庭ではしていません。
 問題なのは日本語のほうです。

 バイリンガル教育がうまくいかなった例として、父親とは○○語だけをしゃべり、母親とは△△語だけをしゃべるようにしていた場合、父親と母親の間は○○語だと、△△語で会話する2人の人間を見たことがない、ということになるので、△△語は習得しにくくなる、というのがあります。

 我が家の場合だと、○○語がロシア語で、△△語が日本語です。
 おじいちゃんとおばあちゃんが来たときは母親が祖父母と日本語会話しているところを子どもに見せられるのですが、短期間です。
 
 こういう失敗例を聞いていた私は、子どもに「日本人同士が日本語で会話しているようす」を見せるために、日本のテレビを見せることにしました。
 ベラルーシでは日本語衛星放送を見ることができます。詳しくはこちらのHPをご覧ください。
 子供向けの番組もあるので、それを見ると日本の子どもが日本語でおしゃべりしている様子が見られます。
 また日本語の歌も覚えることができました。
 テレビの見すぎは教育上よろしくない、という意見が多いですが、我が家のバイリンガル教育には日本語のテレビは大変役立ちました。
 
 次に日本語教育に役立ったことは、やはり日本文化情報センターの存在です。
 ここでは2007年から無料の日本語教室を週に1回開いています。うちの子も7歳から大人にまじって授業に参加させました。
 自分以外に日本語を勉強しているベラルーシ人の姿を見ていたことが刺激になったと思います。

 また日本文化情報センターには、外国人向け日本語教科書のほか、日本の絵本や児童文学書、日本の音楽CDも所蔵しているのでそれらを利用できたのも勉強になりました。
 センターで行っている活動、茶道や書道、墨絵などにも参加させました。

 (家庭の中でもできる限り日本の年中行事を再現しました。お正月にはおせち料理、節分のときは豆まきに恵方巻き、雛人形も飾って、七夕では短冊を書いて・・・というぐあいです。) 

 言葉だけではなく日本の伝統文化も理解してくれたら、ということです。 
 
 何となく家庭内でおしゃべりして会話ができたらよし、というのでは、自分がどのレベルに達したのか、客観的に見ることができないと思い、日本語の習得度を知るために10歳から日本語能力試験を受験させています。
 勉強するのに目標や基準ができて、やる気の持続のためにはとても効果があると思います。
 ただベラルーシは試験会場に選ばれていませんので、毎回越境して受験しなくてはいけないので、大変です。
 チロ基金が交通費支援しているので、その点は助かっていますけどね。
 交通費を支援してもらうためには絵本を翻訳しなくてはいけませんが、その作業も小学校1年生から毎年始めました。

 次に日本の教科書を在ベラルーシ日本大使館経由で受け取っているのも日本語の勉強に役立っています。
 海外に住んでいる日本人の子ども(義務教育年齢で、日本国籍を持っている場合)は日本国内に住んでいる子どもと同様無償で、教科書をうけとることができます。
 詳しくは文部科学省のサイトあるいは海外子女教育振興財団のサイトをご覧ください。

 日本国民は教育を受ける権利があると憲法にも定められているわけですから、居住している国に関係なく教科書をもらえる、という考えです。
 このことを私は知っていたのですが、なぜか「将来日本に帰国する予定の日本人子女でないと教科書はもらえないんだ。」と勘違いしており、娘が小学校1年生になったときに、申し込みをしなかったのです。
 ところが1年後大使館員から
「そう言えばTさんのお子さんは何年生になるんでしたっけ?」
ときかれ
「来春2年生になります。」
と答えると、
「あ、そうだったんですか。じゃあ、2年生から教科書をもらってください。」
と言われ、手続きもしてくれたらしく、翌年から毎年ちゃんとほぼ全教科の教科書を大使館経由でいただいています。
 (これも義務教育期間だけなので来春中学3年生の教科書をいただくのが最後になります。ちなみに無償であっても教科書が不要と判断した場合、もらうのを断ることもできます。)

 このようなわけで、1年生の教科書だけがなかったのですが、実は日本文化情報センターには小学校や中学校の教科書を若干数所蔵しており、娘が1年生のときは、その教科書を使って国語と社会は勉強していました。
 しかし弊センターの教科書は古いものです。
 2年生からは自分の教科書をもらえて、直接書き込みもできるようになり、とても日本語の勉強になったと思います。それに最近の教科書は印刷もきれいで、写真や図表もカラーで分かりやすいですね。
 こういうものに税金をかけるのは、国の将来のためにも役立つことだと思いますよ。

 一方で教科書があっても、それを開いて勉強しないと意味がありません。
 日本人学校に通っている場合は、教室で先生や同級生といっしょに教科書を使って学んでいるわけですが、ベラルーシには日本人学校がありません。

 仕方ないので、「親子2人だけ日本人学校」状態で勉強していました。
 私が大学で教育社会学を専攻していたので、教えるのはそんなに大変ではありませんでした。
(私は文系頭なので、中学数学を教えるのは、少々心もとなくなっていますが。問題の答え合わせに時間がかかる・・・)(^^;)
 せっかくいただいた教科書なので全教科を勉強しています。
 しかしベラルーシの学校のほうも高学年になると宿題が増えてきて、日本の教科書を勉強する時間がなかなか取れなくなってきます。
 幸いベラルーシの学校は夏休みが3ヶ月あるので、そのときにまとめて日本の教科書を開いて勉強し、何とか学年度末までには日本の学校で勉強している日本人の子どもの学習に追いつくようにページ配分をしてこなしました。

 こうして書くと大変そうに思えますが、数学の公式などは世界共通なので、「これはベラルーシの学校で習った。」という内容は、日本の教科書でもさっと進むことができました。
 理科や社会の教科書は写真などがきれいなので、日本語で読んでいてもよく理解できたようです。

 せっかくなので、いただいた教科書以外にも、日本文化情報センター所蔵の教科書も学年に合わせて全て読み進めました。
 また漢字ドリルも小学校1年生から6年生の分はあったので1ページずつ活用しました。

 もちろん日本文化情報センターには、外国人向けの日本語教科書も多数あります。ロシア語で説明のあるもの、英語で説明のあるもの、日本語で説明のあるものの3種類の教科書を習熟度に合わせて読み進めました。
 
 他にも「手紙の書き方用例集」「ビジネス文書用例集」といった本もセンターにあるので、日本語能力試験対策に活用しました。
 機会があれば、日本語で手紙を書いたり、「未来の」履歴書や「架空の」会議資料を作成しました。

 書籍以外にもインターネットの子ども向け学習サイトなども活用して、クイズ形式で漢字を勉強したりしました。
 今はこのようなサイトがたくさんあるので、自分に合ったものを見つけて活用できますね。

 長くなったのでまとめるとT家のバイリンガル教育(日本語教育)は 
「親が日本語で話しかける」から始まり、
幼児期からは「日本語のテレビ番組を視聴する」
小学生になってからは「日本語教室に参加する」「日本人の小中学生が学校で使っている教科書や教材」「外国人向け日本語教科書」で勉強。
「役立ちそうな本は日本文化情報センター(図書館)で無料で借りる」ことで節約。「インターネットの子供向け学習サイト」もメインの教材ではありませんが、活用しました。

 目標を設定するため「日本語能力試験を受験する」
 そのために「日本の絵本の翻訳作業に参加する」ことをしました。

「日本語を勉強しているベラルーシ人の友達」を年齢に関係なく作ったり、日本文化情報センターのイベントや年中行事などを通じて「日本文化に触れさせる」のもバイリンガル教育に役立っていると思います。

 親としては日本語を教えるためにできるだけ日本に住んでいるような環境を子どもの周りに作ろうと努力していますが、当然完璧にはできません。
 また親が本や学習サイトを見つけてきても、子ども自身が学ぶ気持ちがないと語学ができるようにはなりません。
 正直言って、バイリンガル教育は本当に大変です。この記事を書くだけでも疲れました。(^^;)
 大変なのですが、親子二人三脚のバイリンガル教育はもうしばらく続けようと思っています。


ウクライナ人ハーフモデル滝沢カレンの日本語

2015-11-18 | ベラルーシ生活
 私の娘は日本人とウクライナ人のハーフです。
(このハーフという言葉あまり好きではないので、別の言い方ありませんかね? 「あいのこ」とかいう言葉よりはましかと思うけど。
 最近は「ミックス」「ダブル」という表現もありますが、定着していませんね。「ミックス」というと料理関連の言葉に聞こえるし、「ダブル」も別の用法が多すぎて、人を表す言葉に聞こえないからだと思います。
 ダブルのうちの子がベラルーシ人と結婚したら、間に生まれた子どもはトリプルになるのか? といつも思います。
 ついでに言うと障害者という言葉も別な表現が広まってほしい。)

 そのつながりではないのですが、ウクライナ人ハーフモデル滝沢カレンさん(23歳)の日本語がすごくおかしいことについてです。
 詳細はこちら。名だたる司会者もお手上げ!滝沢カレンの不思議な日本語で困惑者続出!


 本当におかしな日本語ですよねえ。カレンさんのお父さんはウクライナ人、お母さんは日本人。生まれは日本で、小中高と日本の学校を卒業しています。
 なのに、どうしてこんなに日本語が不自然なのか・・・
 この人の母国語は何語? 頭の中で思考するとき使っている言葉は何語? と思いました。

 私は最初、ロシア語から直訳したような日本語になっているんじゃないかと思って読み返してみましたが、そうではないですね。

 娘の日本語がおかしい理由を母親は「しつけがなっていなかった」と後悔しているらしいのです。えええー、しつけの問題なの?! 思わず焦る私・・・
 でも日本の学校に通っていたのに? 学校の友達と日本語の会話はしてなかったの?

 国際結婚して子どもが生まれましたって言うと、その子どもは「自然とバイリンガルになるだろうね。うらやましい。」と言う人が(日本人に限らずベラルーシ人にも)たくさんいます。

 でも実際にはそんなに簡単にはバイリンガルになりません。
 ということは自分の経験からしてそう思います。

 自分の子どもをバイリンガルに育てたいと苦労している日本人の方々の意見や体験談などネットで検索するといろいろ出てくるのですが、やはりハーフの人がみんなバイリンガルになるとは限らないことが何度も出てきます。
 
 カレンさんなんて日本生まれの日本育ちなのに、日本語が下手だと母国語もないような状態ですよ。ハーフだから二ヶ国語できるでしょ、ではなはく、ゼロヶ国語できる、ですよ。

 そんなのありえるのかなあ? 「滝沢カレンは言語障害だ。」と言う人もいますが、本当の言語障害だったら、コマーシャルや映画には出演できないです。

 私の考えでは本当は日本語が上手なのに、わざと下手な日本語をしゃべって、そういうキャラを作っているのだと思います。
 ハーフタレントはいっぱいいるし、こういう方法を使って差別化を自ら図っている・・・あるいは事務所からこういうしゃべり方をしろと命令されているのではないでしょうか。
 そして「新おばかクイーン」とか枕詞をつけられるのですね・・・

 みなさん、ウクライナ人と日本人のハーフは、みんなおばかで日本語が下手なんだと思わないでくださいね。
 
 ちなみにうちの子はカレンさんと同じで父親がウクライナ人で母親が日本人だけれど、生まれはベラルーシで、ベラルーシのごく普通の学校に通っています。ふだん日本語で会話するのはほぼ母親とだけです。
 
 うちの子との会話
「ちょっと見てよ、この滝沢カレンさんの日本語! Yちゃんと同じでお父さんがウクライナ人なんだって。」
「この人の日本語・・・全然意味が分からない。何が言いたいの?」
「日本生まれの日本育ちなのに、どうしてこうなっちゃったのかなあ? お母さんはしつけの仕方が間違ったと思っているらしいけど。私の、私のしつけは・・・ああああーーー。カレンさん23歳だけど、Yちゃんがこんな大人になったらどうしようーー。」
「私、大人になっても日本語忘れないって。もうどうでもいいじゃん、こんな馬鹿な日本人のこと。早く寝ようよ。電気消して。」

 ・・・。
 やっぱり私は、滝沢カレンさんが、わざとああいうしゃべり方をしているのだと思いたいです。(信じたいです。本当は馬鹿なのではない!)

 

 

ベラルーシ大統領選挙 2015

2015-10-11 | ベラルーシ生活
 現在ベラルーシは10月11日午後8時15分です。
 ベラルーシ大統領選挙の結果速報です。
 現職のルカシェンコ大統領が87.3%の得票率を得て、続投することになりました。
 予想通りですね。 
 今回は全部で4人の立候補がいましたが、大差で圧勝です。
 この高い数字(支持率)はベラルーシ国民の真意にとても近いと思います。
 
 

12歳で大学に入学

2015-09-04 | ベラルーシ生活
 ベラルーシは9月から新学期が始まるのですが、今年12歳の男の子がベラルーシ医大に合格しました。
 たまーにいますよね。こういう天才児が・・・!
 ご両親はどういう教育をなさっていたのですか? という点が私としては気になるところなのですが・・・

 チムール・ソシコ君はジョージノ市生まれ。
 生後9ヶ月でしゃべり始め、2歳で本を読み始め、5歳で小学校に入学後(←これは誕生日の関係で入学時の年齢が5歳だったというベラルーシ人はけっこういます。)いきなり2年生に編入。
 その後5年生に飛び級。その後7年生(日本で言うと中学1年生)に飛び級。
 さらに10歳のときに9年生(日本で言うと中学3年生)に飛び級。
 そして11年生(日本で言うと高校2年生。ただし、ベラルーシは高校3年生はありません。)に飛び級。
 高校生のときは学校へは期末試験を受けるときだけ通学し、普段は自宅で勉強したそうです。
 そして高校卒業。日本で言うところのセンター試験を受験。
 そして国立ベラルーシ医大に12歳で入学。この9月から通学しています。

 すごい。ベラルーシにもこういう子どもがいたとは・・・!
 こうして見ると、ご両親は特別な英才教育をして、その結果賢くなったというより、生まれつき特別な脳の持ち主としてうまれてきようですね。

 マスコミのインタビューには「将来は人の役に立つ仕事がしたい。」などなど完璧な答え。
 これだけでもすごいのに、水泳の成績もすばらしく、大会に出ては優勝。
 5年先の東京五輪出場を目指して特訓しているそうです。

 完璧・・・
 思わず「実はめちゃくちゃ音痴」とか「絵がどうしようもなく下手」とかいった欠点はないの? と思いながらニュースサイトを読んでしまいましたよ。(そういったことはどこにも書いていませんでしたが。)

 このすばらしい人材をぜひベラルーシで役立ててほしいなあと思いました。そして将来はノーベル賞をベラルーシにもたらしてほしい。
(ベラルーシは独立して時間が経っていないこともあり、ベラルーシ人で、ベラルーシ共和国在住でノーベル賞を受賞した人はいません。
 ただし、生まれたのは現在のベラルーシだけれど、ノーベル賞を授与されたときはアメリカ国籍だったりロシア国籍だったりだったというベラルーシ人はいます。またベラルーシの生まれのユダヤ人でイスラエルに移住しノーベル賞受賞者になった人もいます。現在のところ14人。
 ちなみにノーベル賞候補になっているベラルーシ人は数名いますが、ほぼ全員文学賞候補です。)

 というのもベラルーシは優秀な人材が国外(特にロシア)に流出してしまうことがとても多いのです。
 以前にもゴメリ出身の16歳の高校生がロシアの大学に入学したことがあったのです。

 でもチムール君はベラルーシの大学に入学したので、一安心。
 もっとも大学卒業後、外国の大学院に行ってしまう可能性もありますね。

 とにかく5年後17歳になった彼がベラルーシの水泳チーム代表に選ばれて、東京オリンピックに出場するかどうか楽しみですね。


デジタル放送へ完全移行

2015-05-15 | ベラルーシ生活
 2015年5月15日ベラルーシのテレビ放送はデジタル放送に完全移行しました。
 特に大きな混乱もなく・・・
 ベラルーシもどんどん変わりつつありますねえ。

戦勝70年 3

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 「戦勝70年 1」でも少し触れましたが、ベラルーシの農村地域では、ナチスによる「住民皆殺し」という作戦が展開されていました。
 そのような村が国内で628箇所あったのですが、これらの村で亡くなった人の慰霊の場を国で1ヵ所つくろうということになり、被害の状況や首都からのアクセスがよいかどうかなどを考慮して、ハティニ村が選ばれました。

 住民が全員殺害され、地図から消えた村もあるので、同じ被害にあった村をまとめてハティニで慰霊するという形です。

(もちろん生き残った人たちがその後、自分たちの村の中に独自の慰霊碑を建てているケースもあります。
 ちなみにハティニ村襲撃を指令したのはウクライナ人で、実際に実行したのはナチス軍。兄弟民族であるベラルーシ人の殺戮を指令したのがウクライナ人であることは戦後長い間ひみつにされてきました。)

 そのハティニでどんなことが起きたのか、取材したベラルーシの作家アレーシ・アダモビッチが「ハティニの物語」という作品を書きました。
 それを元にして、映画が1985年に製作されました。ベラルーシとロシアの合作映画で、原作、ロケ地、エキストラはベラルーシが担当で、監督、主要役者はロシアが担当、というソ連映画です。

 映画のタイトルは聖書に出てくるフレーズ「来たりて見よ」なのですが、なぜか邦題が「炎628」なんですよー。  

 ナチスによって焼き払われたベラルーシの村が628だから、このタイトルなんですが、私の中での「がっかり映画邦題第1位」ですよ。

 とにかく内容は悲惨です。最初見たとき、最後まで見られずビデオのストップを押してしまった・・・。
 
 この映画は日本でもたびたび上映されていますし、DVDも発売されていますので、戦時下におけるベラルーシの農村でナチスがどんなことをしていたのか、知りたい方はぜひご覧ください。
 ただし気の弱い方、妊娠中の方で胎教など気にされる方にはお勧めしません・・・。

 この映画、去年イギリスで第二次世界大戦を扱った映画ベスト50のうち、堂々の1位に選ばれています。
 選考した1人は、クエンティン・タランティーノ監督。この人が1位に選んだ戦争映画が、ベラルーシが舞台の映画ですよ。

 ニュースサイトはこちらです。

英誌&タランティーノ監督が選んだ「第2次世界大戦映画ベスト50」

(記事から一部抜粋)

第1位に選ばれたのは、1985年のロシア映画「炎628」(エレム・クリモフ監督)。ドイツ占領下のベラルーシ(旧白ロシア)の村におけるナチス親衛隊の凶行を、“感動的なヒューマンドラマ”や“派手なアクション”などの要素を一切排してリアルに描いた戦争映画。本作に比べたら、ハリウッド映画としては凄惨な描写で知られる「プライベート・ライアン」(20位にランクイン)の冒頭のオマハ・ビーチのシーンなど、「日曜の午後の浜辺の散歩のようなものだ」と同サイトは評している。


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 もう1つご紹介したい映画があります。それは「ブレスト要塞大攻防戦」という映画です。
 ベラルーシフィルムが2010年に制作した映画です。これもロシアとの合作でロシア人俳優が多く出演しています。(アレクサンドル・コット監督)

 ベラルーシフィルムはですねえ、戦後作った映画の70%が第二次世界大戦を扱った物と言われていて、私もいろいろ見たことがあるのですが、どうしても技術的にリアルさが欠けていて、感情移入できなかったりすることがありました。

 しかし2011年にこの「ブレスト要塞大攻防戦」を見て、
「ついにベラルーシの映画もリアルなのが作られるようになったか・・・!」
と驚いたものです。
 専門家が見たら、「これ違うよ。」と言う細かい部分もあるかもしれませんが、とにかく「戦争中、ブレスト要塞は本当にこんな感じだったんだろうなあ。」と見ている側を納得させるだけの臨場感があるのです。
 
 ブレスト要塞って何?と言う方はこちらをご覧ください。
 また私がブレスト要塞を訪れたときの記事はこちらで読めます。

 何と言っても抵抗の象徴でもあるブレスト要塞なのだから、国の威信をかけて、絶対すばらしい映画を作るぞ!というベラルーシフィルムの気合が感じられます。
 
 この映画をぜひ日本人にも見てもらいたいけど、ベラルーシの映画ということで、相手にされないんじゃないかと思っていたら、今年の冬に日本で上映されていました。
 日本語版もDVD化されているみたいですね。
 (YouTubeで英語字幕付きのが見られますが。)(^^;)

 ベラルーシの映画をご紹介しましたが、戦争中ベラルーシでこんなことが、いや実際にはもっとひどいことが起きていたのだろうと思いながら見てほしいです。

 ベラルーシ(ソ連)は70年前に戦争に勝ちました。周囲のベラルーシ人と話していると、やっぱり戦争は負けるより勝つほうがまだまし、と日本人である私は思うのですが、実際には戦争は勝った負けたの二つに単純に分けられるものではなく、もっと状況は複雑で一言では言い表されないものだと思います。
 今までの常識が非常識になり、信じていたモラルも引っくり返ってしまう、仲のよかった隣人が敵になるかもしれないし、逆に一面識もなかったもの同士が助け合ったり、来るはずの明日が突然来なくなるかもしれない日々。

 ああ、やっぱり戦争には反対だ、と改めて思います。一方でベラルーシの隣国ウクライナで内戦のような状態になり、すでに多くの人がこの1年ほどの間に死んでしまったかと思うと本当に悲しいし、戦争がすぐ近くにあることを感じずにいられません。


 

戦勝70年 2

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 ナチスが戦時中に建設した強制収容所といえば、アウシュビッツが有名ですよね。
 しかしこのような収容所はヨーロッパ各地にあり、ベラルーシにもありました。

 ミンスク郊外のマールィ・トロステネツがそれです。1941年に作られ、規模はヨーロッパで3番目に大きかったそうです。
 ここにはユダヤ系以外にも、ベラルーシ人やロシア人、ポーランド人、チェコ人などが収容されていました。
 
 マールィ・トロステネツのすぐそばにある二つの村でも、住民の大量虐殺があり、この三つの場所で犠牲になったのは2万1500人になります。

 収容所は1944年に解放されましたが、ドイツ軍が逃走するときに施設を全て破壊していったため、アウシュビッツのように建物などが残っていません。
 更地のようになっており、慰霊碑が建っているだけなので、私も行ったことがないのです。
(だからアウシュビッツのように世界的に有名な場所にはならないんですね。)

 ミンスクからすぐ近くなので、行こうと思えばいつでも行けるのですが、更地の収容所跡を見てもねえ、というのが本音です。

 それよりも貴重なのは収容されていた人の中には運よく生き延びた人もあり、その話を聞くことです。

 ベラルーシには強制収容所に入れられていた人たちが会を作っており、さらに合唱団もあります。

 その合唱団(メンバーのほとんどが女性)が70代後半の年齢とは思えない声で合唱をしています。
 歌の合間に自分の体験談を何人かのメンバーが話してくれますが、聞くだけでつらくなります。

 母親と5人兄弟全員が収容され、生き残ったのは私と姉だけ。
 母は生き延びたが、発狂した。
 幼かった弟は負傷したドイツ兵の献血のために血液を注射器で吸い取られ、死亡。
 
 ・・・などなど。話している途中で泣き出して、「これ以上話せません。」と言い出す人もいます。

 子ども時代を収容所で生きたとは想像を絶する体験だと思います。

 ドイツは戦後、謝罪をし収容されていたベラルーシ人で、生存した人全員に賠償金を払うことにしました。
 毎月(ベラルーシの水準から言うと)かなりいい金額の賠償金を受け取っています。

 毎日、いや今死ぬか生きるかという生活を強いられた代償なのだから、当然と言えば当然です。

 ところでこの合唱団は戦後70年を記念して、今年の4月ポーランド、チェコ、ドイツへ公演へ行くことになりました。  
 
 各地のやはりナチス軍による大量虐殺があった場所で歌ったり、収容されていた生存者たちと交流したりしたそうです。
 
 各地で歌声は絶賛されたそうです。

 ところが・・・ドイツでは
「悪いが公演はしないでほしい。」
と言われたそうです。
 ちゃんとした理由はなく、挙句には
「歌ったことにしてほしい。ギャラはあげる。」
とまで言われ、公演を中止したそうです。

 ドイツからしたら、過去の汚点を現在見たくないのか、それを知らない世代に知ってほしくないのか・・・

 合唱団のメンバーはがっかりしたそうですが、双方の協力あっての海外公演ですから、あきらめたそうです。

 この話を聞いて私は、お金さえ出せば補償したことになるからいいだろうと、とドイツ側が思っているのでは、と感じました。

 確かに強制収容所にベラルーシ人を入れましたよ。でも賠償金を払っているんだから、そして謝罪もしているんだから、もう過去のことは蒸し返さないでほしい。
 合唱なんか今更しに来なくていい。ギャラ(賠償金)をあげるから、黙っておいてほしい。

 ・・・こういう考えをドイツ側が持っているのかなあ。と私は思いました。

 謝罪した、賠償金も払った、戦争責任は取った、だからもう「なし」にしよう。
 という考えは合理的で論理的である意味将来を前向きに捉えているのかもしれません。

 でも、過去から学ぶことを避けている感じがするし、せっかく平和になったのだから、かつての敵同士の民族が今は仲良くしましょうよ・・・という考えを否定しているようにも思えます。

 日本の場合、韓国や中国が日本政府に謝罪せよとか、賠償もちゃんとせよと求めており、日本政府はもう謝罪はしたし、賠償についても決着済みなのに・・・とこういう状況が戦後70年経っても、ずっと変わっていません。

 日本政府の対応を批判するときにドイツ政府がよく引き合いに出されます。ドイツは賠償金を払ってるのに日本政府はねえ、という批判です。

 しかしですよ、もし日本がドイツと同じようにすでに謝罪もして賠償金も払って、さらに賠償金を払ってるからもういいでしょ、もう文句言わないで、戦中の汚点を思い出させないで、という態度を取ったら、どうなんでしょうか。

 金は出す、だからもう何も言わないでと言われて、納得するでしょうか。

 戦争被害に対する賠償金を払え払えと言う人たちの気持ちも分かりますが、賠償金を受け取った時点で、もう文句や批判は言えなくなってしまう可能性も実はあることを分かって請求しているでしょうか。

 謝罪もした、賠償もした。そしてその後に生まれる国同士の関係が、もっと友好的で建設的になるとは限らないことを、この合唱団の一件から感じました。

 合唱団の後援がドイツの特に戦後世代に、収容所を生き伸びた人たちの存在を教え、さらには歌声を聞きながら、戦争とは平和とは何か考えるよいきっかけになればよかったのに、と私は思います。
 
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 画像は写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)1982年3月号の表紙を飾った写真です。
 撮影者はモスクワのカメラマン、Pavel Krivtsovで作品名は「女の子同士」。
 戦争中従軍していた女性3人が戦後、再び集まって戦中撮ったときのように記念撮影したんですね。
 
 表紙に選ばれるだけあって、とてもいい写真だと思います。戦後の時間、戦中の彼女らはどうだったのだろうと想像がめぐります。

 そして戦争を生き延びた人は本当に運がよかったと思います。


 


戦勝70年 1

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 5月9日ベラルーシ(だけではなく旧ソ連の国)は第二次世界大戦の戦勝から70年目を迎えます。
 節目の年ということで、テレビは特番を流し、街中はどこを向いても「70」の数字が目に入り、先月から関連する記念イベントが続いています。
 今月に入ってからは毎日どこかで何かやっているという状態です。

 日本人にとって戦後というのは1945年8月15日を境にして考えるのですが、ベラルーシ人にとってはドイツとの戦争に勝った5月9日が境です。

 ベラルーシは旧ソ連の国の中でも犠牲者が多く出た地域で、当時の国民の4人1人、あるいは3人に1人が死亡したと言われています。

 どうしてベラルーシ(当時は白ロシア・ソビエト社会主義共和国)は被害が大きかったのか・・・

 理由1 地理的にドイツからの距離が近く、モスクワを目指すナチス軍からするとまず陥落しないといけない場所にあった。

 理由2 もともとユダヤ系住民が多く、真っ先に殺害されたり収容所送りになったりした人が多かった。

 理由3 ソ連中枢部はソ連の首都モスクワを守るためにベラルーシを防衛拠点を考えていたが、その結果分かりやすく言えば、ドイツ軍の銃先にベラルーシ人を出して、ロシア人のほうをできるだけ守ろうとした。

 理由4 ソ連はベラルーシ人を分かりやすく言えば差別しており、ロシアに比べれば少数民族だし、ロシアに取り込んでしまえというる同化政策を水面下で行っていた。そのためベラルーシ人が今まで作ってきたベラルーシ文化らしいもの(教会などの文化遺産)を破壊したが、戦争中は「ナチスドイツの仕業である。」とした。
 そんな状況だったので、戦争中ベラルーシ人に対する大量殺戮が起き、これもナチスドイツが全て実行犯とされているが、中にはソ連政府(ソ連軍)が行ったものもある。
 
 さらにあまり知られていませんが、かつてベラルーシと同じく旧ソ連を構成していたウクライナはユダヤ人をそもそも差別していました。
 そこへユダヤ人嫌いのヒットラーが登場したとき、喜んだウクライナ人もいたのです。
 ドイツと戦争をしているソ連の中で、密かにドイツを応援したウクライナ人・・・
 ドイツの戦闘の手伝いをし、ベラルーシの農村地帯での掃討作戦(民間人を皆殺し)を提案したケースもありました。

 つまり戦争中は目の前には敵が迫り来る状態、背後からからは味方からも殺されるかもしれない、という板ばさみの状態だったベラルーシ。
 さらに(場所にもよりますが)ベラルーシはドイツ軍に占領されてしまい、占領下における市民生活も悲惨で、反占領軍活動をした人を逮捕して拷問したり、見せしめの公開処刑などが行われていた。

 当然戦争被害は甚大です。
 70年前の5月9日、戦争に勝ったときベラルーシ人は歓喜の涙を流し、今でも盛大にお祝いするのはよく分かりますね。

 1980年代に発行された写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)が今私の手元にあるのですが、その中にも戦勝記念日にミンスクで撮影した写真がありましたので、ご紹介します。
 1982年3月号掲載なので、戦後36年目に当たる前年1981年5月9日にミンスク中心部で撮影されたものです。
 撮影者はベラルーシ人のカメラマン、A.Kushnerで作品名は「彼らがベラルーシを解放した」です。ここでの解放はナチスの占領からの解放となります。
 後ろに写っているのはミンスクのメインストリート沿いにある紳士服店なのですが、看板は変わったものの今でもこの店はあります。

 

半年間無職の国民に罰金

2015-04-18 | ベラルーシ生活
 ベラルーシ発のニュースです。

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半年間「無職」の国民に罰金、奉仕活動の強制 ベラルーシ

CNN.co.jp 4月18日(土)16時11分配信

 ロンドン(CNNMoney) 東欧ベラルーシのルカシェンコ大統領が18日までに、少なくとも半年間職に就かず、納税していない国民に罰金を科す新たな法令に署名したことがわかった。
罰金は少なくとも252米ドル(約3万円)で、支払わない場合は拘束され、地域社会での奉仕活動が命じられる。(後略)

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 このニュースは以前にも聞いていたのですが、そのときは「罰金」ではなく、「納税」でした。
 つまり無職で収入がなくても税金は払わないといけない、ということです。
「収入もないのに、納税するって、できるかなあ。」
「いや、これは国が税収を増やしたいのではなく、無職の人数を減らしたいからだろう。」
などと巷では話していたのですが、ここへきて「罰金」あるいは「奉仕活動」ですよ。

 どうなるのでしょうねえ。

 私が言いたいことは二つ。
 一つ目はベラルーシではアルコール中毒が社会的な問題第1位で、予備軍も含めると国民の10人に1人がアルコール中毒あるいは依存症です。
 国民の約10%がアル中のため、就労できないと想像してみてください。
 国にとっては大変な損失です。
 さらに患者を治すための専用の施設がありますが、それを運営する費用を税金から出していることも考えてみてください。
 ベラルーシで無職の人はどうして無職なのか。その理由は人それぞれですが、一番多い理由はアル中です。
 罰金あるいは奉仕活動でもさせたくなる国の考えはよく理解できますよ。

 それと罰金の代わりに奉仕活動、というと日本人はそこに個人の献身的な要望を感じ取れず、「国が強制労働をやらせている。」というイメージを抱きがちですが、ベラルーシでは奉仕活動はよくあることで、献身的な気持ちがあるとかないとかでするしないを決めるものではありません。

 例えばちょうど今日も「スボートニク」と呼ばれる4月の奉仕活動の日で、何をするかと言えば、「春の大掃除(ベラルーシでは年末の大掃除はしない習慣)」「職場あるいは地域社会の大掃除と植樹」をする日です。
 私も朝から職場で大掃除をしたし、近くの公園では中学生が枯れ枝を片付けていたし、自宅マンションの敷地内では近所の人が花壇の手入れをしていました。
 もちろんお金はもらえませんが、やらされている感はありません。

 罰金の代わりに奉仕活動をするのは、「奴隷的」「強制労働」ではないです。
 それが不服なら、就職すればいいだけの話です。
 ・・・と書くと「就職したくても就職先がないから無職なんだよー。」と反論する人もいます。

 それで、私が言いたいことの二つ目です。
 日本人でもそういう人はいますが、ベラルーシ人の場合
「少ない給料もらうぐらいだったら、無職のほうがいい。」
という考えの人がいっぱいいるのです。

 もう何年も無職でずっと職を探しているけど見つからない、という人がいました。
 その人に資格も学歴も問わない仕事を紹介しましたが、給料が少ないからと断られました。
 ベラルーシ人の多くが「働く時間は少しだけ、でも給料はがっぽりもらえる」仕事に就きたいと希望しています。
 またそういう仕事に就いているのが憧れであり、頭がいい人だと思っています。
 同じだけ稼いでいても、汗水たらして長時間働くのは、要領が悪いと思われ、尊敬されません。

 確かに誰でも楽して儲けたいと思っているでしょうが、実際にはそんな甘い商売はほとんどないです。
 そのため、必死で職探しをする人、つまり「何でもいいからやらせてください!」と懇願するタイプの人がベラルーシにはいません。
 だから無職者が多く誕生してしまいます。
 そして生活保護の申請をします。国からしたら大きな経済的損失です。
 罰金ぐらい取りたくなりますよ。これぐらい厳しくしないと、就職活動をしないんだから。

 さらに大学生。大学は出たけれど安い給料のところには馬鹿馬鹿しいから就職したくない。
 安い給料でも就職してしまえば、それで社会人の仲間入りもできて、親も喜ぶのに、高い給料のことろでなければ仕事する意味がないと、無職になるほうを選択する。
 そして親のすねかじりとなります。

 同じヨーロッパ人でもイギリスなどでは、18歳過ぎると自立しろと実家から追い出されるらしいですが、ベラルーシにはそんな習慣がないので、無職の子どもが増え続けます。

 せっかく就職しても一攫千金の夢を追い求め、後先考えずに退職する人が多いです。
 今でこそ減りましたが終身雇用が基本の日本と比べると、転職する人も多いです。そのため専門家を職場で育てるということも難しくなっているケースもあります。
(職種によっては転職がスキルアップ、ステータスアップになるものもあるので、一概には言えませんが。)

 今回のベラルーシの政策、半年間も無職の人は罰金を払えというのは、国の経済的損失を減らすのも目的ですが、「給料が少ないなら働かないほうがまし」という考えを捨てて「給料が少なくても職についているほうがいい」という考えに転換しろと、国民を教育しているのだと思います。

 いろいろ書きましたが、もちろんベラルーシにも子どもがたくさん生まれて、本職のほか、副業やバイトを掛け持ちして必死で働いているまじめな親もいることを追記しておきます。


学校へ手榴弾を持って来た小学4年生

2015-04-17 | ベラルーシ生活
 うちの子がいつもより1時間も早く帰宅した。理由を尋ねると、男子生徒が弾丸を学校へ持ってきたので、生徒は校庭に避難。そしてそのまま帰宅するよう言われたそうだ。

 危ないなあ! 全くもー!

 ニュースにもなって報道されたのですが、詳細はこうでした。

 小学4年生の男子(9歳)が10発の弾丸と手榴弾1個を持って登校。
 かばんに入れていたが、12時ごろ教室で友達に見せて、その後教師にも見つかる。
 学校側は校内に残っていた生徒全員に避難を指示し、さらに非常事態省付属対テロリスト部隊に通報。爆発物を取り扱う専門家が学校へ飛んできて、手榴弾が爆発しないよう処置したそうです。

 この手榴弾は第二次世界大戦中に製造されたもので、男子生徒の話によると、
「畑で見つけた。」
そうですが、どこの畑なんでしょ。
 他にもまだ埋まってない? 危なくて畑の上を歩けないよ。

 弾丸10発については、この男子がどこから手に入れたのか報道がない・・・。
 親は監督不行き届きで厳重注意、あるいは法的に罰せられる可能性があります。
 畑から手榴弾を直接学校へ持って行ったとは思えず、家の中で保管していた可能性が高いので・・・。危ない・・・。

 しかし戦後70年も経過して、こんな事件が身近で起きるとはねえ。
 日本でもときどきありますよね。

 うちの子はその後、もう爆発物は処理されて学校は安全になったから、と再び登校し、残りの授業を受けていました。
 校長先生を初め、教職員の皆さんはストレスだったろうなあ。(同情。)
 
 
 
 
 

ウクライナ情勢 停戦合意

2015-02-12 | ベラルーシ生活
 ミンスクで昨日の夜(現地時間)から徹夜で行われていたウクライナ情勢をめぐる首脳会談(ウクライナ・ロシア・ドイツ・フランス)が先ほどようやく停戦合意で決着しました。
 各国の関係者も徐々に帰国の途に着き始め、ミンスク市内では要人通行のための道路の一時閉鎖が行われており、バスなどの交通機関に乱れが生じています。
 とにかく、このミンスクでの停戦合意がちゃんと実行されることを祈るばかりです。


ユーラシア経済同盟

2015-01-02 | ベラルーシ生活
 新年早々、日本のニュースにも登場した経済同盟のニュース。
 こちらでは去年の5月にロシア・カザフスタン・ベラルーシの三国がまず調印していたのと、今回アルメニアも加盟することも知っていたので、別にびっくりしないニュースだったのですが、昨今ロシアの経済状態が悪化していたので、この同盟は実際はどうなるの? と外国からは思われているみたいですね。


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(NHKニュースより。)

「ユーラシア経済同盟」は、人やモノ、それに資本などの移動の自由を保障し、エネルギーや農業などの分野で共通の政策を行うため、ロシアが旧ソビエトのベラルーシとカザフスタン、それにアルメニアと経済を再統合するもので、去年末までに各国が条約を批准し、1日発足しました。

 ロシアのプーチン大統領は、「同盟によって域内人口が1億7000万の巨大市場になり、世界の天然ガスの埋蔵量の20%、原油の15%を保有する」と述べ、意義を強調しています。

 この経済同盟はEU=ヨーロッパ連合やアメリカに対抗するためロシア主導で進められてきましたが、ロシアとしては、これを基盤に政治的な関係強化も図るねらいがあるものとみられます。

 しかし、カザフスタンのナザルバーエフ大統領は「各国の主権が損なわれることはない」と繰り返し主張し、ロシアをけん制するなど思惑の違いも出ているとみられます。

 さらに、ロシアの主な輸出品である原油の価格の下落でロシア経済が悪化する見通しのなか、加盟国が足並みをそろえて協力関係を築けるかどうかは不透明な情勢です。

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 欧米によるロシアへの経済封鎖で、大国ロシアの経済が混乱している・・・のですが、お正月にS夫のロシアの親戚がベラルーシへやって来たので話を聞きました。
「モスクワにずっと住んでいるけど食料品は今でも何でもそろっているし、変化はない。生活には特に困ってない。」
ということでした。
 ただロシアルーブルの価値が乱高下しているので、物価も上がったり下がったりしていて、それで損をしている人もいれば、得をしている人もいる、ということです。

 ベラルーシは農業国・酪農国なので、大量の食料品をロシアに輸出していましたし、今もそうなのですが、ロシアがベラルーシの食料品をたくさん買ってくれる、そして経済(関税)同盟を結ぶことによって、得する側に回れるのではないか、という期待がありました。
 確かにベラルーシが得をする部分もありますが、損する部分もあります。それはロシアの経済が悪くなると経済的に繋がりの強いベラルーシも引っ張られて、経済状態が悪くなるのです。
 お正月明けから、対ドルにして7.5%のベラルーシルーブルの値下がりが起こってしまい、このままだとインフレが加速する恐れがあります。
 一般庶民の生活が苦しくなるかもしれないので、自己防衛しないといけません。

 去年はロシアに食料品を輸出しすぎて(?)ベラルーシの野菜の価格が30%上がりました。
 せっかく結んだ経済同盟は何とかしてくれないのか、と思いますが、朋友ロシアとカザフスタンは石油や天然ガスなど資源が多い国。つまり同盟国に売るものがたくさんあります。
 しかしベラルーシはこれほど高く売れるものがない国なのです。つまり経済同盟というと、何だかその中は平等で対等な関係の似たもの同士の国のように思われがちですが、実際はユーラシア経済同盟は売る物があるかないかという視点で見れば、非常にアンバランスな状態なのです。

 プーチン大統領は、「同盟によって域内人口が1億7000万の巨大市場になり・・・」と言っていますが、この数字のうち、ベラルーシの人口はたったの950万人です。
 ロシアとカザフスタンという大国と比べ、ベラルーシだけ浮いているという感じです。
 そのためベラルーシは同盟の中で受け身な立場に追いやられてしまうのではないか、と心配です。
 このようなバランスが悪い状態の同盟がうまくいくのかどうか、よく分かりません。さらに今は同盟のリーダーであるロシアの経済がぐらついています。
 私の予想では、天然資源がないベラルーシが人を資源としてロシアやカザフスタンに流出させてしまうのではないかと思います。
 ユーラシア経済同盟国の間では資源や商品だけではなく、人材の行き来も自由にすることが協定に盛り込まれているので、ベラルーシ人がロシアやカザフスタンへ出稼ぎに行くことが簡単になります。
 逆に人口が多いロシアから、ベラルーシの大学への入学希望者が増え、ロシア人とカザフスタン人の留学生が増えるのではないでしょうか。
(同盟国の人間は外国人扱いしないそうなので、留学生とは呼ばないでしょうが。)

 ベラルーシ国内で非ベラルーシ人の大学生は増えるけれど、働くのはベラルーシではいやだ、という人が増えると思います。
 これもベラルーシにとって得でもあり損でもあると言えるでしょう。
 ベラルーシ人が同盟国へ働きに行ってしまうと、人口が減るので経済的によくない、という考えもありますし、逆に働きに行った人が稼ぎをベラルーシへ持ち込むことになるので、ベラルーシ経済が潤う、という考えもあります。

 去年の5月には、ロシア経済が年内に不安定化するとは予想していなかったので、今年スタートしたユーラシア経済同盟は、行く先不透明と思われているようですが、ベラルーシに住む一庶民からすれば、物価高が進むのは何とかしてほしいのと、ベラルーシ経済にとって、少しでもプラスは多く、マイナスは少ない効果をもたらしてほしいなあ、と思います。