こんばんは。
私は、生まれて物心ついた時から、母に「お前を産まなければよかった」って何度もため息をつかれているんですよ。母もやはり循環器に問題があって、祖母もそうなので遺伝ですから仕方ないんですが、殆ど、自分の存在を悪だと考える癖があったんですね。「お前を産まなければよかった」を何とか訂正して欲しくて、娘である私は、一生懸命ご期待に添うように頑張るのですが、やはりどうしても自分の中で、割り切れないんですね。何故、自分の存在を、ナチュラルにあるがままでいいと誰もが言わないのだろうかと。
まぁ、子供の頃はそれでも、近所に教会があって、友人が一家で日曜日にミサに行くんですね。その頃、「おミサ」と申していたんですが、自分もついて行って、何で何だか、どうして自分は、生まれてきた事をこんなに喜んでもらえないのか、どうして自分は否定ばかりされるのか、そして、母が言うとおり、原罪は自分にあって、どうしたら母は笑ってくれるのか。そんな事を、陰々滅滅たる教会音楽を聞きつつ、考えていました。まだ、当時、小学1年生でした。非常にませた子であるのは、私自身のIQが162程あった為かと思います。現在でも似たようなもんです。もうちょっと高いです。
で、自分は長男を産んだ時に瀕死になり、母親が輸血するなと病院側に伝えた為に、輸液で何とかして行く方になるんですね。ちなみに、親が恐れていたのは、宗教ではなく、輸血による2次感染等でした。で、瀕死が長く、復活が遅かった。で、周りも思うんですよ。復活が遅いって。自分でもどうにもならない焦りを感じますが、体の都合上どうしようもなかったんですね。で、長男の時は、「出産はこんなもんだと思ってた」から、長男自体に言った覚えもないんですね。次男は、ほんと、手間のかかる人でしたけれど、自分自身、言ってはいけない言葉だと思ってましたからね、「お前が原因で」なんて言わないですね。口が裂けても言わないですね。
まぁ、それでも、自分は、こんなに育児って大変なんだとは思いませんでしたしね、体がダイナミックに変わるから、そういう面で、大イベントだと思いますし、これを越えてこない女性に対し、これを越えて来いと言う事が凄く多いです。自分自身が思うように子育てをすれば、子供が委縮し、子供の思うようにと振り回されれば、破綻する。凄まじい身近にある修行方法の一つで、完全なる答えなんかないものです。母も成果主義でしたから、私は受験にばかり送りこまれて、何でも子供目線でも知っている事にはなるんですよ。ですけれど、もっと合理的な方法があったなと今では思うんですけれどね。
で、物心ついた時には、母は寝込んでいましたし、兄は喘息かアレルギー、父が喘息と癌でね。私、自分に焦点が当たる事なんてなかったんですよ。ほんと、その時は頑丈だったんですね。虚弱体質で、集中力が体力を越える事があるもんですから、よく熱は出ていたようですが、そういう時にさえ、ため息をつかれたんですよ。母の気持ちも今では、もっともですが、娘も相当疲れて病んでいました。
本当にもし、私たちが生まれてきて、無条件でそれを喜べない存在って、生まれてくる時にさえ、本当に様々な条件があって、そういう事ってある事ですよ。命の誕生を無条件で喜べず、文句を言ったり、祝福できない事って、「その命自体に咎(とが)があると思いますか?」
私はここまで来て、ないと思うんですね。どんな事にでも因果があり、そうして生まれてくる時に、無論母体に影響が出る出産もありますが、子に負荷がかかった出産だってあるんですよ。事実、長男は難産でね。次男共々、生まれた途端の仮死状態ですから、こっちにしたら、生きててくれた方が有難い。今まで一生懸命育ててきて、何でそれまでの努力と成果を無駄にするのだって思いますね。ただ、そんな思いがある一方で、「お前さえいなければ」って思う事が人間にはあるんですよ。光り強ければ、闇が一層深くなるのと同じく。どんな生命の誕生に対しても、無条件の光が強そうに見えるけれど、闇も深く実は存在する。光ばかり人はもてはやすけれど、深い闇を知っているからこそ、人はそれを口先で否定したがる。その闇が与える実害を知るからです。
だから、自分自身、今は、原罪意識はないんですね。時に、「役立たず」とか主人に言われても、「いしはら都知事発言」って言い返せますね。あんなに、深い事、生まれた事を後悔し続けて、5歳の時には、「もう5年も生きたんだよね」と言って先生にしこたま叩かれた幼い私の中でしたが、今は既に迷いはないんですよ。命ある限り、生きる事自体が素晴らしいと思うんでね。一生懸命の度合いが、桁外れても、的外れでも、それでも一生に悔いはないんだと思いますよ。一生懸命生きた証が自分の中にあるからですね。
私が生きて、活動するからには、必要な場所があって、その場所に入ろうと思って入れない人が出る事もある。で、私が生まれた事で、私は、沢山の人と居場所争いを繰り広げて、そうして一生は続いて行くもんなのだと思うんですよ。
「生きるって元々、戦いなのだ」とそう思うんですよ。
くだらない事に悩み、大した事に悩み、ほんと苦悩して繰り広げるけれど、自身の存在は、人にとって、全ての人にYesではない。自分がいる為に、労苦する人の存在はいつでもあるんですよ。だけれど、原罪意識が強すぎて、始めから自分の存在を肯定してくれないモノの存在など、必要ないと思うかもしれません。けれど、自分は肯定されるだけではなく、否定される事も必要だと、時には思います。自分が繰り広げてきた事は、人を幸せにしたかもしれない。けれど、不幸せにしたかもしれない。
本当の幸せって、全員が同じやり方で幸せになる方法などないんですよ。ちょっとちょっと、違う所ですれ違って、そして皆で、幸せになって行くんですよ。
それが、大きな意味で、生きている限り、光と闇があるって事なんだと思いますよ。自分の存在は、自分自身こそが永遠に祝福して良し。
朋
私は、生まれて物心ついた時から、母に「お前を産まなければよかった」って何度もため息をつかれているんですよ。母もやはり循環器に問題があって、祖母もそうなので遺伝ですから仕方ないんですが、殆ど、自分の存在を悪だと考える癖があったんですね。「お前を産まなければよかった」を何とか訂正して欲しくて、娘である私は、一生懸命ご期待に添うように頑張るのですが、やはりどうしても自分の中で、割り切れないんですね。何故、自分の存在を、ナチュラルにあるがままでいいと誰もが言わないのだろうかと。
まぁ、子供の頃はそれでも、近所に教会があって、友人が一家で日曜日にミサに行くんですね。その頃、「おミサ」と申していたんですが、自分もついて行って、何で何だか、どうして自分は、生まれてきた事をこんなに喜んでもらえないのか、どうして自分は否定ばかりされるのか、そして、母が言うとおり、原罪は自分にあって、どうしたら母は笑ってくれるのか。そんな事を、陰々滅滅たる教会音楽を聞きつつ、考えていました。まだ、当時、小学1年生でした。非常にませた子であるのは、私自身のIQが162程あった為かと思います。現在でも似たようなもんです。もうちょっと高いです。
で、自分は長男を産んだ時に瀕死になり、母親が輸血するなと病院側に伝えた為に、輸液で何とかして行く方になるんですね。ちなみに、親が恐れていたのは、宗教ではなく、輸血による2次感染等でした。で、瀕死が長く、復活が遅かった。で、周りも思うんですよ。復活が遅いって。自分でもどうにもならない焦りを感じますが、体の都合上どうしようもなかったんですね。で、長男の時は、「出産はこんなもんだと思ってた」から、長男自体に言った覚えもないんですね。次男は、ほんと、手間のかかる人でしたけれど、自分自身、言ってはいけない言葉だと思ってましたからね、「お前が原因で」なんて言わないですね。口が裂けても言わないですね。
まぁ、それでも、自分は、こんなに育児って大変なんだとは思いませんでしたしね、体がダイナミックに変わるから、そういう面で、大イベントだと思いますし、これを越えてこない女性に対し、これを越えて来いと言う事が凄く多いです。自分自身が思うように子育てをすれば、子供が委縮し、子供の思うようにと振り回されれば、破綻する。凄まじい身近にある修行方法の一つで、完全なる答えなんかないものです。母も成果主義でしたから、私は受験にばかり送りこまれて、何でも子供目線でも知っている事にはなるんですよ。ですけれど、もっと合理的な方法があったなと今では思うんですけれどね。
で、物心ついた時には、母は寝込んでいましたし、兄は喘息かアレルギー、父が喘息と癌でね。私、自分に焦点が当たる事なんてなかったんですよ。ほんと、その時は頑丈だったんですね。虚弱体質で、集中力が体力を越える事があるもんですから、よく熱は出ていたようですが、そういう時にさえ、ため息をつかれたんですよ。母の気持ちも今では、もっともですが、娘も相当疲れて病んでいました。
本当にもし、私たちが生まれてきて、無条件でそれを喜べない存在って、生まれてくる時にさえ、本当に様々な条件があって、そういう事ってある事ですよ。命の誕生を無条件で喜べず、文句を言ったり、祝福できない事って、「その命自体に咎(とが)があると思いますか?」
私はここまで来て、ないと思うんですね。どんな事にでも因果があり、そうして生まれてくる時に、無論母体に影響が出る出産もありますが、子に負荷がかかった出産だってあるんですよ。事実、長男は難産でね。次男共々、生まれた途端の仮死状態ですから、こっちにしたら、生きててくれた方が有難い。今まで一生懸命育ててきて、何でそれまでの努力と成果を無駄にするのだって思いますね。ただ、そんな思いがある一方で、「お前さえいなければ」って思う事が人間にはあるんですよ。光り強ければ、闇が一層深くなるのと同じく。どんな生命の誕生に対しても、無条件の光が強そうに見えるけれど、闇も深く実は存在する。光ばかり人はもてはやすけれど、深い闇を知っているからこそ、人はそれを口先で否定したがる。その闇が与える実害を知るからです。
だから、自分自身、今は、原罪意識はないんですね。時に、「役立たず」とか主人に言われても、「いしはら都知事発言」って言い返せますね。あんなに、深い事、生まれた事を後悔し続けて、5歳の時には、「もう5年も生きたんだよね」と言って先生にしこたま叩かれた幼い私の中でしたが、今は既に迷いはないんですよ。命ある限り、生きる事自体が素晴らしいと思うんでね。一生懸命の度合いが、桁外れても、的外れでも、それでも一生に悔いはないんだと思いますよ。一生懸命生きた証が自分の中にあるからですね。
私が生きて、活動するからには、必要な場所があって、その場所に入ろうと思って入れない人が出る事もある。で、私が生まれた事で、私は、沢山の人と居場所争いを繰り広げて、そうして一生は続いて行くもんなのだと思うんですよ。
「生きるって元々、戦いなのだ」とそう思うんですよ。
くだらない事に悩み、大した事に悩み、ほんと苦悩して繰り広げるけれど、自身の存在は、人にとって、全ての人にYesではない。自分がいる為に、労苦する人の存在はいつでもあるんですよ。だけれど、原罪意識が強すぎて、始めから自分の存在を肯定してくれないモノの存在など、必要ないと思うかもしれません。けれど、自分は肯定されるだけではなく、否定される事も必要だと、時には思います。自分が繰り広げてきた事は、人を幸せにしたかもしれない。けれど、不幸せにしたかもしれない。
本当の幸せって、全員が同じやり方で幸せになる方法などないんですよ。ちょっとちょっと、違う所ですれ違って、そして皆で、幸せになって行くんですよ。
それが、大きな意味で、生きている限り、光と闇があるって事なんだと思いますよ。自分の存在は、自分自身こそが永遠に祝福して良し。
朋
突然ですが、このエントリーのトップ画像の方はどなたですか?目があった瞬間、眉間が痛くてしばらく目が離せなかったです。今にも口を開き何かを語りそうです。
この方は、女神DANA。検索するとネットに出てきますよ。ちなみに、私が対面サロンで、自分にもオラクルカードをと思うと、毎度、女神BASTのカードと共に、現れる方です。
意味合いは深いんですが、この方はパワーサイクル(力の循環)を司っていると思います。
この所、ブログ見ると眉間が痛いので、故意にDANAさんを上げてあります。
ありがとう。