こんばんは。
眼の前にある事実は、人の捉え方次第で、正義にも悪にも変わる。
真実を知りたいと思っても、捉え方一つで正義にも悪にも変わるのなら、自分が聞こうとしているその自分の中の「先入観」が、真実に色をつけてしまわないだろうか。
子供の頃は理不尽だと思っていた親の仕打ちも、親になってみて、そうせざるを得ない事情があることも分かったし、子供の頃、親を恨んでいたけれど、親に弁明を貰う前に、自分が子供を持って同じ立場になった時、理解できることがあった。無論、相変わらず理解できないところも、わたしは親にある。
その当時、恨むほど親を憎んでも、結局は、自分がそういう目にあってみなくちゃ分からない。
正義と転ぶか、悪と転ぶか、世の中なんて意外とわからないものである。
でも、思うのだが、問い詰めてみたいことなど、誰もが心のなかに沢山持っていて、わたしだって知りたいことは山ほどある。あの時の事情だって聞きたいことは沢山ある。けれど、時が経つと人は自然と語りだしたり、語らなくなることもあるからこそ、問い詰めて、「何故」この「理不尽」をするのか、確かめたいことが、山ほどありすぎるのだ。
けれど、その時聞かないことが一番いいのだろうと思うこともある。
時間が経ってから、真相を聞いたほうが、「感情に流されなくて済む」というメリットもある。
もしかして、真実とは、かじらなくてもいい果実なのかもしれない。
味は、その時の気分次第だから、味について評価はできないし、その評価が絶対正しいとは限らないのだ。そして、永遠にその評価が自分の中のスタンダードかどうかさえも、分からない。
きっと、エデンの園には、そういう果実がなっていたのかもしれない。
不確実で、不誠実な果実である、「真実」がね。
朋