こんばんは。
こんなコメントを頂戴しました。
>こんにちは。
私も"普通は、執着し過ぎて、怨恨が強くなり過ぎる存在を鬼と呼ぶでしょう。鬼母、鬼嫁、鬼姑、鬼婚家、鬼実家、鬼畜。"てあるように、鬼ってそういうものかと思ってました。
考えてみれば怨み・恨みという感情を持って取り付く幽霊がいたとしたら、鬼じゃなくて怨霊ですね。
幽霊、妖怪、よくわからないもの全てを鬼と呼ぶ地域もアジアにはありますが、もしかしたらもともとは違うものだから違う呼び方だったのに、朋さんのように区別のわかる人がいなくなっていつの間にか全て鬼と呼ぶようになったのかもしれませんね。
(笑美さん)
かつては、疫病も鬼と呼ばれた時代がありました。
つまり、訳のわからない対処の甲斐なく、沢山の人命が失われることについて、「鬼」と、ひとは名付けた時代があるようです。わたしは、正直、鬼の本当の目的や何かを知ることができません。わたしには、アクセス制限がある分野があり、だからこそ、古に則って、鬼と呼んでみたんです。
ところで、わたしは、怨霊系は得意分野なんですよ。(笑)
怨み、妬み、嫉み、憎しみは、執着心から起因するのではないかと、精神医学、心理学を、紐解き、更に、苦しむひとの身体をみたり、人事で苦悩してるだけに、人一倍、そこの分析が得意なんです。
ただ、どうしようもない奴もいて、自己中の塊どころか、自分の思う道を進みたい為に、ひとの人生や、家族の人生を犠牲にしてもなんとも思わない人もいます。
そこまでいくと、信念から、執念に変わるんですよね。
でも、ひとは、弱い生き物ですから、誰もがこの話題を避けて通れません。だからこそ、得意分野なんですが、最近、うちの職場では、112話でもお馴染みのように、出ても、仕事の邪魔したら、逆に祟り返してやる!ってひとが多くなりまして、良かったとは思っています。
執念というワガママで、ひとを振り回すのは、今の世は、迷惑です。
わたしも、そもそもが、激情型なので、障害者であり重篤な病気を持ったこと、家族が忙しいこと、交流範囲が広いことは、却って、重力となり、社会の迷惑にならない為に、神が苦慮した結果かと思うことがあります。
でも、社会の迷惑にならない人間になれて良かったです。
でも、これも心がけひとつなので、自身を常に内省するのは、大事だと思っています。
怨み、妬み、そんな感情に揺さぶられた時期もありました。今は、億ションに住んでいるのは、若い頃からの執念でした。いいように成果が出れば、ラッキーですが、執念は、ひとの心を壊します。
善悪の判別がつかなくなって、罪を罪と認識できない罪人が、裁かれていても、裁かれていなくても、罪が重いのだと気がつくことができなければ、救いようがないのだと思うのです。
しかし、最近は、自分のところの鬼で忙しく、元来の特技は、放っておけないひとを見つけた時、ゆきずり、無差別にやっています。苦笑
それで、自分は丁度いいと思っています。
解釈は、難しいのですが、素晴らしいコメントだったので、皆さんと共有させていただきました。
コメントありがとうございます。
朋