「北極星に願いをこめて」 (右脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

賄い(まかない)部屋のシンデレラの行方

2010年05月22日 16時09分05秒 | 精神哲学 ~魂の筋力をつける朋塾~
こんにちは。

私の父って本当に口が悪くてですね。基本的な概念は、農家思想の母親と同じなんですけれど、実は、長男に特別待遇、他の子供は、どうでもいいって考えだったんですよ。特に私の場合は、「学」なんか必要ないだろうと。父が癌で初めて手術になった時には、叔父から、私は中卒でいいだろうと言う話になったらしいんですね。

とんでもないんで、働きました。

けれど、親は私にどうしても、国立系の中高に通って欲しくて、随分受験の時に国立ばかりを受けるって言う至難技ばかり求めたんですね。入ったら、授業料やるからと。自分で、私立も受けてきたんですけれど、受かってみて、貰った資料が、とんでもなく高い授業料でしてね。もう、こりゃ、ダメだなと。それで、自分に支払える範囲の都立に行ったんですね。

父は小学生の頃から働いていたそうで、(実は父の所は、昔は裕福だった)私にも働け、働け、随分幼い頃から言ってきたんですね。私自身、「養ってやっている」とか「賄い(まかない)部屋に住め」とか、「ただ飯食いやがって」と言う言葉で普通に育ってきたんで、非常にそういう言葉にコンプレックスがあるんです。働かずには、いられない性分になったのは、恐らくその言葉を覆したかったからだと思うんですね。

デニーズ、ロイヤルホスト、何でもウェイトレス業務は行いましたし、暇があれば、チラシ配布から、宛名書き、運搬業務、何でも行いました。もう、選ぶなんてなかったです。足を棒にして、一生懸命、家々にチラシを配って、「不審者」と怒られてみたりとか、早朝のウェイトレスは時給が高いので、朝3時から起きて働きました。余裕が出来たのは、器楽合奏で高給のアルバイトの空きに入れた事ですかね。芸大の人蹴飛ばして、そこに入れた時には、鬼気迫る演奏っプリだったそうなんです。

小さな頃は、そういう言葉の暴力もありながら、矛盾していたのは、兄から見ると、私はモノを豊富に買ってもらえていたらしいんですね。けれど、私からすると、兄は、随分長い事父の扶養家族にいましたしね、随分長い事、高額な借金もしていましたしね。不思議なんですよね。食い違っているんですよ。

私、一食の費用を親からもらった時は、一回当たり250円ですよ。学食で三食賄った挙句、栄養失調でそのまま、実験中に倒れたんですが。家の中では、ご飯が出ないので、自分で買う。そういう癖がつきまして、凄く食に無頓着になったんです。100円で賄えるご飯だったら何でもいいとか、そういう考え方が身についたんでね。

現在も、食の作ってあるのをお取り寄せって好きではないです。時間をかけて浸み付いた味が嫌いなんです。見た目綺麗で、コストダウン。かける所は、本とCD。他のお嫁さんのように、あれこれ言わない。もう、食えりゃ、何でもいい。けれど、姑の創作料理は、本気で「メシまず」なんで、今、そういう衝動を勘弁してもらっています。時に、舌痺れる事あるんで、勘弁です。ですから、同じ料理が何回続こうと、全然めげないです。実家は「メシウマ」でしたが、同じ料理の続き方は、凄惨たるものでしたから。特に父が胃を切除した後、徹底した「カロリーオフ」でしたから。

実際、私は自分自身の結婚式は、半額は自分が買う予定で貯めていた車の資金で賄ったんで、そうなると、ほんと金がないんですよ。持参金とか、結納とか、姻戚を説得して、辞めにしてもらわなきゃ、どうにも、自分で稼ぎだせる範囲でお金がなかったんですね。

ウェディングドレスだって、母に制作してもらわなきゃ、レンタル費用が高過ぎてどうにもならない。ブーケとか、極力削りましたよ。花嫁の装いを最低限に削って。削って。結婚式場も削って削って。理想より現実を見ろと。


・・・・・・・すいません、削った金で、フレンチの三ツ星レストランで披露宴をした馬鹿モノです。名を捨てて実を取る。昔からそういう性格でした。

さて、名を捨てるけれど、若い頃は勉学は嫌いだったんですね。自分は、大学留年した時は、真っ青で、もう大学から飛び降りようと真剣に飛び降り先を探したんですよ。大体、2月になると、ある校舎に、「ドン」と音がして、飛んでる人が多かったんですよ。で、自分もそうなるべく、一生懸命探したんですが、そういうスポットが見つからなかったんですね。あの頃、不思議に思ったのは、「みんなどこから飛んだんだろう」と。

結局、自分は、その当時働いていたプロダクションのオーナーがお金を追加で貸してくれる事になり、学費返済のために、主人に黙って働き続けたんです。主人にして見たら、お金を貰わないバイトもしている。何でだろうと。返済し終わった時に、「あれは実は学費の返済だ」と言うと、怒られたんですね。何で相談しなかったんだと。したって無理ですわ。あの当時の主人に、それを支え切れる程の経済力はなかったんです。

まぁ、育英会から借りれない程の、お粗末な学業成績だったんですよ。お金ある人は、大学院に行って、また大学に入るって人もいました。世界が違うなと思いました。というより、若い頃の私は、働いてお金を得る上で学ぶことの方が多く、そっちの方で成功する方が、精神的に安定していたんです。大学は、ただ、お金使う気がして。実践の場もなかったし。

画して、賄いと呼ばれ、親にお金を借りることさえできない究極の貧乏娘だったんですね。ええ、名ばかりあっても、金もない。ほんと、嫁に出る事自体、奇跡に近いそういう私だったんですが、披露宴に関しても、あーだこーだ言う親戚は多かったんですよ。招待状一つに文句をつけてね。父は、黙ってその人に頭を下げているんですね。まぁ、そうですよ。その招待状作ったの、家人と姑だったんですから。

うーん。恐らく、地方が違うとこれ程に結婚への意識が違うんだなって思ったのはその時じゃないですかね。私の実家や親せきの方が、典型的な農家スタイルにこだわりを持ち、それが当り前であると押し通そうとした。けれど、典型的なその当時で言えば、地方の都会にいた家人たちにとって、何のこだわりもなかったわけで、双方の意識の違いは最初からあったんです。

まぁ、もっとも、そこまで言うなら持参金の一つや二つ、私に持たせないと父の名誉がなかったわけですが(苦笑)。

持参金のない賄い部屋のシンデレラは、「養ってやっている」とか、「ただで居やがって」と言う言葉に相当に卑屈になって、王子を探して逃げて行きました。けれど、よく良く考えると、自分の家がスタンダードではなかったという事に気が付き、姻戚もスタンダードでもない事に気が付き、現在、「養ってやっている」というワードを元王子である、王様から貰うと、ニッコリ笑って、「法律」を引き合いに出してドンドン王様を言いくるめてしまう、「老獪な」お妃となりましたとさ。

めでたし めでたし。





PS:ちなみに、私は実家が貧乏だと思いこんできたんですが、実は、そうではない事を知ったのは、結婚して家を出た翌週でした(苦笑)。早めに子供が自立するには、貧乏であるという確証バイアスを子供にもたせることなのかな。よく考えると、「貧乏」をデフォルメしていたけれど、手に入らない書物をどうやって手に入れてたかとか考えると、自分は完璧に父の作った確証バイアスに迷わされていすぎたんですね。

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