一日一歩

名古屋の下町育ちで、春日井市民歴42年。人間らしく生きることの大切さを、人生の中で学びました。

西区を写す①浅間町交差点~菊井町(旧西菊井町)~新道町

2021-10-30 16:45:24 | 西区を写す

一昨日、友人の作品を見るために、栄の芸術文化センターに行ってきました。

彼は抽象画を描きますが、隠し絵的な描写を好み、様々な昆虫や動物が作品の中に溶け込んでいます。いつもだったら集まった仲間とともに帰りに居酒屋へ繰り出すのですが、彼も私と同様にワクチンの副作用に悩まされ食欲減退で6kも減ったそうです。しかも指がすこし不自由となり、その影響が作品にも現われていました。彼の回復を祈って別れました。

 

さてコロナの感染者数が減り、久しぶりの名古屋とあって、天気も良く私の育った西区にカメラを持って行ってきました。

地下鉄丸ノ内線浅間町駅で降りました。地下鉄の線路は丸の内駅から浅間町駅まではカーブとなっていて、私の通った幅下小学校(現名古屋小学校)の真下を通っています。駅を上がると、浅間町の交差点の東南の角に出ました。

南北に江川線と東西に22号線(菊ノ尾通り)の交差点です。江川線は父の話によりますと昔はゴミ捨て場のようなドブ川の江川という川だったそうです。明道町の交差点は江川に架かる明道橋。

22号線は、私の小さい頃(昭和30年代初め)は、意味も分らず「そかいどおろ」と言っていました。起点は朝日橋(堀川をまたぐ橋)がまだ作られていなくて、堀川との突き当たりでした。そこから浅間町までは中央分離帯がなく、舗装もされていなくて、砂利が敷いてあるだけの幅の広い空間だったことを覚えています。

 

私の父方の祖父は稲沢の出身で、大正時代の初め頃、名古屋で一旗揚げようと浅間町に移り住み。戦時中に防空壕を作っている時に亡くなりました。母方の祖父は、千代田村(一宮)の出身で、私が生まれた頃は西菊井町に住んでいましたがその後転居。

恐らくこの地域は、22号線沿線の稲沢、一宮方面から移り住んだ人が多いのではないかと思われます。空襲が酷くなり、リヤカーに荷物を積んで砂利道の22号線を歩いて疎開したことを叔母たちから聞いています。

 

さて、目的地はあらかじめ決めていました。亡き母が生まれ育った旧西菊井町です。

すでに母の在所はありませんが、父が産気づいた母をリヤカーに乗せ明道町からここまで運んで、無事私を産んでくれた場所です。

足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは、遠くに林立する名古屋駅のビル群でした。

その手前に下町の風景。まっすぐ行けば、ノリタケの森、イオンモール・ノリタケです。

在所があったと思われる場所には、当時の面影はありませんでしたが、すこし曲がった路地にはいると、古い建物が建っていて、当時の名残を感じることが出来ました。

ノリタケ方面に歩き始めましたが、この年では浅間町に戻るのが賢明と判断し、菊井通りを横断し啓明学館高校 高等学校の横を、私の通った幼稚園がここにあったことを思い出しながら歩きました。名前が凄いんですよ。

「名城大学附属幼稚園」

今や、ノーベル賞受賞者を輩出する大学の附属幼稚園!

といいたいところなのですが、今は存在しません。

ここを抜けると菓子問屋街で有名な新道です。

風船ガムで有名な丸川製菓さん、種精さん・・懐かしい看板が目に入ります。

菊井中学の周りを一周して浅間町に戻りました。南を見るとこれも懐かしいモリクワさんの看板が目に入りました。もう少し南に行ってみたくなりましたが、足も限界でした。

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撮影メモ

カメラ X-H1(APS-C)

レンズ XF10—24mm

シュミレーション across(モノクロ)

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