硝子のスプーン

そこにありました。

「LIKE A FAIRY TALE」 28

2012-06-19 21:09:59 | 小説「Garuda」御伽噺編
28.【 全部あなたに繋がっていた 】   (マリア)


 ―――――――声が、する。


 目を開けると、そこは真っ暗だった。

 ここはどこだろう。
 私はどこにいるんだろう。
 体を起こして、どこかぼんやりと霞のかかった意識の中、辺りを見回す。
 自分がどうして、ここにいるのか思い出せない。

 ゆっくりと目を閉じて。
 もう一度、ゆっくり開く。

 開いた先に見えたのは、やっぱり、暗闇で。
 辺りには、何も、ない。
 
 心細さに身を丸めて、そろそろと膝を抱える。
 
 瞬間、頭に浮かんだ映像。
 誰かが、膝を抱えて俯いた、まだ小さな私を見下ろしていた。

( 一人で膝抱えてんじゃねぇよ、バカ娘 )

 あれは、誰の声だっただろうか。
 いつか、何かが凄く悲しくて、寂しくて堪らなくて、でも言葉に出来なくて、膝を抱えて座り込んでいたときに、頭の上から聞こえてきた声。
 なんだかむず痒くなるくらい嬉しくて、泣きたくなるくらい安心して、それだけで笑顔になった。
 そう、いつもそういう時には、私が何も言わなくても、気がつくとそうやって、傍にいてくれた。

 あれは、誰だっただろうか。
 誰か、とても、大切な人だった。

 そう、とても、とても、大切な―――……。


 そこまで考えると、目から涙が零れ落ちた。

(―――…でも、もう手に入らない)

 そう感じてしまう自分がいて。
 あの声はもう手に入らないのだ、と。



 涙を拭きながら、ふと見下ろした自分の左胸のあたりにある血の痕に、眉を顰める。
 痛みはないし、襟元を引っ張って服の中を覗いてみても、どこにも傷跡らしきものはない。

 じゃあ、これは他の人の血だろうか…? 

 何も思い出せない。
 だけど、とにかく、ここにいちゃいけないような気がした。
 私は、どこか別の違う場所に行く途中だったのだ、きっと。
 どこかは分からないけれど、そこに行かなきゃいけないことだけは、分かる。

 意を決めて立ち上がった耳に、ふと、声が聞こえた。


 ―――…リア



慌てて、周りを見回したけど、やっぱり誰もいなくて、首を傾げる。



 ―――マリア


(…マリア…。そう、それが私の名前だった…)

 ひとつ思い出して、歩き出す。

(とても優しい人が、くれた名前。とても、とても、優しい、私の……)


 途端、殴られたような痛みが、頭に走った。



 ―――マリア



 声が頭に響く。
 頭の中でグワングワン響いて、立っていられないほど痛い。
 しゃがみこんで、両手で耳を塞いだけれど、声の残響が頭の奥に残っていて、少しも良くならない。
 良くならないどころか、どんどん、痛みが増していく。



 ―――マリア



 強烈な一撃のように鳴り響くその声に、ぎゅっと目を瞑って、歯を食いしばる。

 頭が破裂しそうに痛い。

 何かが、凄い力で、脳を揺さぶっている。
 何かが、凄い速さで、全身を駆け巡っていく。

 冷気と熱気が同時に襲ってくる。
 肌が毛羽立って、嫌な汗が玉になって噴き出す。
 何かが、内側から膨れ上がってくる。
 どんどん膨れ上がって、その巨大さに、呑まれてしまいそう。
 抗えない、凄まじいまでに強力で強大になった何かが、私の中で暴れ狂ってる。

 身体が、熱い。
 内側から、燃えていく。

 意識が遠く、掠れていく―――……。









 ―――マリア









 …………いつかずっと昔、私はどこかで、これと同じ声を聴かなかっただろうか―――…。






 ―――マリア







 ……そうだ。

 あれは私の最初の記憶。
 私が初めて聴いた声。
 その声があんまり辛そうだったから、私は、初めて目を開けようとした。

 その人のために、私は、初めて、目を開けた。


 そうだ。

 私は、




 プツンと糸が切れたように、急激に止んだ激痛に、そろそろと顔を上げる。
 そうして目に映ったものに、瞬間、絶句せずにはいられなかった。


 真っ暗な空間に浮かび上がった、燦然と輝く光の玉。


 それはとても綺麗な、

 瞬きすら惜しいほど綺麗な、


 金色の、光。




 思い、出した。

 私がいつも太陽に見ていたもの。
 私がいつも月に見ていたもの。

 太陽のように輝く金の髪と、月のように光る金の瞳。
 
 私の大切な、大切な、何より大事な、愛しい人。


 そうだ。間違いない。
 これは、この声は、その人の心の声。
 神の種子である私だけが聴くことの出来る、神の声。





 ―――マリア




(…ファルコ……?)

 どこにいるの? 
 
 名前を呼びたいのに、返事をしたいのに、声が全く出ない。
 とにかくファルコのところへ行きたい、その一心で立ち上がり、歩みを再開させる。

(そう、私はずっとアトレイユの研究所で種を取り除く実験をしていて、……でも、あんなことになって、博士が死んで…)

 先に進めば進むほど、どんどん、記憶が戻ってくる。

(そうだ。それで、この街に戻ってきた。ラビと一緒に……そう、ラビ……ラビ! )

 はっとして、自然と足が止まった。


 あぁ。

 そうだった。
 
 私は、もう…―――――。


 行き着いた記憶に、茫然として立ち尽くす。
 さっきまでしっかり歩いていたのに、急に、足に力が入らなくなって、膝ががくがくして、崩れそうになる。
 膝だけじゃない。手も、腕も、体全部が、震えてる。


 だけど。
 
 みっともないほど震える体とは裏腹に、こんなのおかしいと思う冷静な自分がいて。

 だって、もう、死んでるのに。
 怖くて、体が震えるなんて、馬鹿なことがあるだろうか。




 ―――マリア



 
 そうだ。
 死んだのに、それでも、彼の声が聴こえるなんてこと、あるだろうか。
 神の声に対して、死んだ種が、こんなにも騒ぐなんてことあるだろうか。


 いや、でも、私は確かに…、

 でも、


 でも。



 まじまじと自分の手のひらを見つめる。
 見慣れた、気持ち悪いほど白い手。
 それを、恐る恐る、左胸に押し当てて、再び全身に震えが走った。



(…い、きてる……?)

 手のひらに確かに感じる鼓動に、じわりと熱い水分が目に滲んで溜まっていく。


(生き、てる…)

 震える手で、その鼓動を何度も、何度も確かめて。


(まだ生きてるんだ)

 そのまま服ごと手を握り締め、きつく、きつく、目を瞑った。


 瞼の裏に感じる熱も、勝手に込み上げてくる涙の温かさも、全部が、愛おしくて。
 感動に震えることの出来る体にすら、また感動して。

 ただ、生きている自分を噛み締めて、閉じた瞼から、それでもぼろぼろと零れ落ちていく涙を、ひたすら、感受し続けた。








 ―――マリア



 ぐいっと顔をあげて、腕で涙を拭く。
 繰り返し響いてくる愛しい声に、思うことは唯一つ。

 生きているのなら、行かなくちゃ。
 ファルコのところに。
 
 だって、こんなに呼んでる。
 彼は私の神で、私は彼の種子なのだから、行かなきゃならない。

 ……ううん、違う。

 本当はもうずっと前から、神も種子も関係なくなってた。
 私が、ファルコのところに行きたいだけ。

 ただ、私がファルコの傍にいたいだけ。


 でも、どうやって?
 どこに行ったらいいの?
 大体、ここはどこだろう。
 私は、どこにいる? どうして、ここにいる?

 焦るばかりで、何も分からない。
 ファルコが呼んでるのに。早く行きたいのに。

 ファルコ。

 ああ、そうだ。
 いつもちょろちょろしてはすぐ迷子になって泣いていた私に、ファルコがいつも言っていた。

( 道が分からなくなったら、まず落ち着いて、来た道を最初から思い出せ )

 思い出したその言葉に頷き、深く息を吸って、大きく吐き出す。
 そうしてもう一度、ゆっくり目を瞑った。

 全神経を集中させて、ぼんやりと霞がかかったかのような、曖昧な記憶を必死に手繰り寄せる。


 ――どうやってここに来た?

 …分からない。目を開けたらもう、ここにいた。

 ――じゃあ、どうして、目を開けた?

 …聴こえたような気がしたから。

 ――何が?

 …呼ぶ、声が。





 ―――マリア




 そう、ずっと声がしていた。

 ただ繰り返し、私の名前を呼ぶ、ファルコの声。

 だから、目を開けた。




 ―――マリア



 目を、開けなくちゃ――――――――。






(NEXT⇒世界が傾くくらい)

「LIKE A FAIRY TALE」 27

2012-06-19 21:09:19 | 小説「Garuda」御伽噺編
27.【 愛した分だけ夢を見た 】   (トゥルー)


「どうして……」

 それ以外、言葉が見つからなかった。
 それ以上、言葉が出てこなかった。

 嫌な予感めいたものは確かにあった。
 あの日、デッキに佇むマリアを見たときから、ずっと。
 月の光に同化してマリアが消えちゃうんじゃないかと思ったあの時から、ずっと。
 マリアが、どっか遠くに、アトレイユなんかよりずっと遠くに、消えて、いなくなってしまうような、そんな気が、ずっとしてた。

 なのに。

 どうして。



 ゼルダさんの部下の人から、マリアが軍事病院に運ばれたと連絡があって。
 駆けつけた先で、ゼルダさんから、マリアの容態を聞いて。
 ガラスの向こうにいる、ファルコとマリアを実際に見て。

 それでも、これが現実だって、どうしても認識できない。

 まるで悪い夢を見ているようで。

 悪夢のその最中を漂っているような、酷く非現実的な、落ち着かない浮遊感みたいなものがドロドロと纏わりついてくる。


 ドサッと、重たい音と一緒に、スレイがその場に倒れるように、膝を付いて座り込む。
 アンナがスレイに駆け寄って、腕を伸ばす。
 ゼルダさんは、黙って立ったまま、ICUの中の二人を見つめている。


 頭が割れそうなくらい、ガンガンする。
 吐き気がして、思わず、口を覆った。


 どうして。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。


 そればかりが頭の中で、グルグルして、どうしようもなく吐き気がして。
 トイレに駆け込んで、それからのことはあまり覚えていない。
 気がついたら、アンナが僕の背中をさすっていて。
 立ち上がれない僕に肩を貸してくれながら、「信じよう」と一言だけ言った。

 そうやってアンナに肩を抱かれて歩きながら、僕はただ、ぼんやりと、三年前のあの時のことを思い出していた。
 三年前、マリアが半年間の眠りについたあの時。

 あの時も、今と同じように、マリアはICUのガラスの向こうにいて。
 小さな体に管をいっぱい繋げられて、白い顔で、両目を閉じていて。
 元々色が白いから、それが通常なのかもしれないけど、動かない目や口のせいか、普段よりずっと白く感じて、酷く儚いもののように見えて。
 ガラス越しにじっと、そんなマリアを見ていたファルコの、きつく組み合わされた手が、静かに震えていたのを、覚えている。

 あの時と違って、ファルコはガラスの向こうで、マリアのすぐ傍に座っている。
 すぐ傍で護るようにじっと、マリアを見ている。

 僕からはその背中しか見えないけど、でも、きっと、その手は、あの時と同じように静かに震えているのだろう。


 ねぇ、どうして?

 どうして、マリアばかり、こんな辛い目に遭わなきゃいけないの?
 どうして、ファルコばかり、こんな辛い思いしなきゃいけないの?
 どうして、

 どうして、僕は、何も出来ないの?
 
 あの時も今も、いつも、いつも、信じる以外、二人のために何もしてやれないの?

 どうして。

 どうしてなの?


 答えてよ。神様。







 どれくらい時間が経ったのか。
 時間の感覚どころか、ありとあらゆる感覚が失われて、もう二度と何も分からないような気がする。
 廊下のベンチに座ったまま、スレイもアンナも僕も、誰も一言も声を発さずにいた。
 発せずにいた。

 ふと気づけば、明るい静かな光が、廊下を照らしていた。
 重たい頭を持ち上げてぼうっとした意識の中、背後の窓を見れば、いつのまにか、空には月が昇っていた。
 煌々と夜空に浮かぶ、綺麗な満月。
 あぁ、そうか。今日は十五夜で。中秋の名月と、旧世界の人達が呼んだ、一年で一番月が綺麗な晩。

 ねぇ、月が綺麗だよ、マリア。
 こういう日こそ、空を見なくちゃ。
 起きて、一緒に月を見ようよ、マリア。
 ねぇ、起きて。
 ねぇ、マリア―――――……。


 いつだって元気一杯に、ぴょんぴょん跳ね回っていた。
 いつだってうっとりとした柔らかな顔で、空を眺めていた。
 いつだって彼の傍で、心底嬉しそうにして、笑っていた。
 そんな彼女を見るのが、好きだった。
 そんな彼女を見ている彼を見るのが、好きだった。

 彼と彼女が一緒にいるだけでそこに溢れる、優しい陽だまりのような、暖かな空気が、大好きだった。


 お願いです、神様。
 何にだって、何遍だって祈るから。

 彼女を、彼から取り上げないで。

 僕らから、彼女を取り上げないで。


 お願いです、神様。
 何にだって、何遍だって祈るから。

 お願い、僕の祈りを、
 此処にいる皆の願いを聞き遂げて―――――――。



 僕は、何度も何度も何度も、繰り返し祈り続けた。

 可愛かった、そうまるで小さな妹のようだった彼女への、永遠に変わらぬ思いを込めて。


 繰り返し、繰り返し、祈り続けた。






(NEXT⇒全部あなたに繋がっていた)

「LIKE A FAIRY TALE」 26

2012-06-19 21:08:24 | 小説「Garuda」御伽噺編
26.【 まだ、こんなにも愛おしい 】   (ファルコ)


 マリア。
 ずっと、ずっと、思ってきたこと。
 三年前よりずっと前に、誓ったこと。

 お前のことが大事過ぎて、そんなこと当たり前過ぎた事実で。

 お前がいなくなることなんて、ずっとずっと怖かったよ。
 俺が怖がってないとでも思ってたのか。
 三年前、お前が眠り続けたあの半年間、俺がどんな想いで、毎日、病室のドアを開けていたと思う。あの病室で起きないお前の手を握って、どんだけ、恐怖に竦んだと思う?

 なぁ、お前がいなくなることなんて、もうずっと前から、ずっと、怖かったんだよ。


 あの日、お前がリムシティを離れてから暫く俺は、自分の部屋に入れなかった。
 お前がいつもそこにいたから。いつのまにか、あそこはお前でいっぱいだったから。
 夜中に酒を飲んで帰ってきて、ふらふら部屋の前まで行ってドアに手をかけて、それでも開けることが出来なかった。
 もう、その中にお前が、中でお前が俺を待ってるなんてことがないと知っていたのに、馬鹿みてぇに腕は上がらなくて、馬鹿みてぇにお前の名前を呼び続けた。
 俺はお前より少し大人な分、知ってたんだ。
 船に帰ったら、お前がいて、嬉しそうにお前が俺の名前を呼んで、まるで家族みたいで。
 お前のためなら何でも出来るなんて、どっかの優男みてぇなこと本気で思った。


( 愛してるヨ、ファルコ )

 俺もだよ。
 ずっとずっと、乞いたもの。お前に会うよりずっと前から乞いてきたもの。
 それを、もうずっとお前に感じてたんだ。

 だから三年前、お前が旅立ったとき。
 じりじりと背中を焦げ付かされるみたいな思いにやられながらも、少しだけ安心もしたんだ。
 あぁ、これでお前はもう、俺のせいで傷つかないってな。
 俺はずるい大人だからな。
 俺のせいで傷つくお前を見なくて済むと思うと、少しだけほっとしたんだ。

 本当はずっと、怯えてた。
 お前はいつだって、俺のために、何だって投げ出そうとするから。
 三年前、躊躇いなく俺を庇って半年も起きられなくなったみたいに、いつだって俺のために躊躇いなく、それこそ何だってお前は差し出してくるから。

 お前があまりに純真過ぎて。それに引き換え、俺はこんなに汚くて。

 それでも、お前がひたむきに俺を求めてくるから、愛したことよりも愛されたことが、――お前に俺を愛させてしまったことが、一番の罪のように思えてならなかった。


 俺はずるい臆病者だからな。
 俺のために傷つくお前を、これ以上見たくなかったんだ。

 でも、あの日飛行場で、博士の後についてセスナに乗り込む直前、振り返ったお前の顔を見た瞬間、
 お前の手を引いて逃げたいと思ったこと。
 その感情を飲みこむことで、あの日は必死だった。


 だから、ずっと知っていたんだよ。


 お前が俺にとっての、ただ一人だった、なんて、そんなこと。





「マリアはっ!?」
 そう言いながら、スレイ達が駆け込んでくるのが、目の端に見えた。
「あの中だ。今はまだ、アイツと二人だけにしといてやれ」
 スレイ達の問いに、ゼルダが代わりに答える。
 マリアをここに運んで数時間。ICUの中で座っている俺とは違って、ゼルダはずっと廊下で、壁に寄りかかるように立ったままだ。
「何が、何が、あったんですか…?」
 ガラス越しに、トゥルーの搾り出すような、酷く震えた声が聞こえる。
 チラリとそちらに目線を送り、白い無機質なベッドに横たわるマリアを見据えた。
「度重なる種の除去実験のせいで、体内の種がダメになったらしい。種子の体はいわば、種の入れ物。種がダメになれば、必然的に体もダメになる。今のところ、アデル博士の薬と、あの第一の種子とやらの機転のおかげで、ギリギリのところで何とか死は免れているが、今後いつまた種の崩壊が再開するか、時間の問題だ」
「時間の問題って…そんな…。何とかなんだろ、なあ、おいっ!」
「…分からん。大統領がアトレイユから派遣してきたクロイスとかいう博士の話によれば、壊れた種が元に戻る可能性は極めて低いらしい。……だが、」
「だがなんだよッ!?」
「とにかく、今は、アイツに任せるしかない」
 ゼルダの淡々とした説明に、アンナの引き攣った大きい声。
 スレイは完全に声を失っているらしい。トゥルーの「どうして…」という小さな呟きが、耳に一際大きく残った。


 ――通常なら、死亡していておかしくない状態です。

 深刻な口調でマリアの症状について話したクロイス博士を思い出す。

 ――彼女の種は、もう殆ど壊れてしまっている。保護薬の投与によって一時的に崩壊が止まり、心臓の傷は塞がりましたが、彼女の体の大部分はもう二度と、まともに機能出来ない状態だと言っていいでしょう。
 ――唯一の希望は、脳が種の崩壊によって損傷する直前に、外部からの衝撃で心肺停止状態に陥ったことです。直前に動力源を奪われたことで、再び動き出した時、一番に、脳に種の力が集中する。
 ――脳は人体の殆どの器官を司る組織ゆえに、そこに彼女の種が持つ治癒能力が正常かつ迅速に及べば、もしかすると、種の崩壊によって損傷を受けた体の器官は、何とかなる可能性があります。
 ――ただ、それで体の器官がどうにかなったとしても、種のほうが……。後数時間と今の状態を保てるか、どうか……。



 強く目を瞑り、握った拳をもう一度開く。
 手が震えていた。
 怒りのせいか、それとも恐怖か。
 握っても、握っても、その震えはなくならなかった。


 マリアはベッドの上で、沢山のチューブにつながれて、かろうじて息をしていた。

 かろうじて、命を繋いでいた。



 煙ばかりの隊舎の中で、あの場所に辿り着き、マリアを見つけた瞬間。
 一瞬で血の気が引いた。
 抱き抱えても何の反応もなくて、だらりと完全に力を失くした体が、もう意識がないことを明白に物語ってはいたけれど、それを認めるわけにはいかなかった。
 そして、あの男が話した事柄。その事実に体中の血液がどうしようもなく煮え滾って、頭がガンガンして、目の前がチカチカして。
 あの男がしようとしていることに、寸前まで気が回らなかった。
 あっという間に全身に酷いケロイドを負って、あっという間に真っ黒な墨みたいになっちまったあの男に、俺は何もしてやれなかった。
 ただ奥歯を噛んで、走り出すしかなかった。
 揺らさないようにマリアを抱いて、走りながら。
 崩れかかった階段を煙の中、マリアを抱いて駆け下りながら。
 ずっと奥歯を噛み続けていた。

 こいつが俺の知らないところで傷ついて、今苦しんでいることも。
 それに対して俺は何もしてやれなかったことも。
 何も、しなかったことも。

 悔しくて、仕方なかった。


 こだわっていたことも何もかも、マリアを見た瞬間に消えていて。
 俺の何を犠牲にしてもいいから、こいつだけは死なせないで欲しい、なんてこと。

 あの日より、ずっと馬鹿みてぇなこと、ただ、ただ、思ってしまった。

 それを自覚した途端、自分に対する嫌悪感が湧いてきて。
 何度も、何度も、奥歯を噛み締めながら、吐き気すらしそうな怒りを飲み込んでいた。


 ひょっとしたら、ずっとこの手は震えていたのかもしれない。




 マリア。
 聴こえてるか?

 お前、俺は凄いって、世界一強いって、あいつに話してたんだって?
 どこがだよ。お前、ほんっとバカな。
 なぁ、俺はお前が思ってる以上に、小さい人間なんだよ。
 でも、お前が笑うから。
 安心したように笑って、俺の名前を呼ぶから。
 いつだって、ただ、それに答えてきただけなんだ。
 俺のダメな所も過去も罪も過ちも、全部知って、それでも疑いなく俺を見る、お前の目が、俺を強くしていたんだよ。
 ただそう思ってくれる、その存在に、その瞳に、どれほどのものを感じてきたか。

 知らないだろ? お前。



 なぁ、マリア。
 聴こえてるか? 俺の声。

 三年前、お前がいなくなってから、俺は、ただいまって言葉を言わなくなった。
 飲みに行って船に戻った時でも、仕事でどっか違う街に行ってこの街に戻ってきた時でも、いつでも、誰に対しても。
 スレイとかトゥルーとかアンナとか見知った顔ぶれはそのまんまなのに、そこにある風景も何もかもそのまんまなのに、なんでか不思議と帰ってきたような気がちっともしなかったから。
 でも、あの日。三年ぶりにお前と会った日。
 分かった気がした。

 お前のいる場所が俺の帰る場所だって、俺は、いつのまにかそう思うようになってしまっていたんだ。



 マリア。

 俺は、奇跡なんてもん見たことねぇし、信じたことも、一度もないように思う。
 けど。
 俺にそれが出来るって言うなら。
 それはきっと、お前が俺に起こさせるものだから。

 俺は、お前を信じる。
 
 お前が信じてくれる俺を、俺は信じるよ。

 

 だからどうか。
 

 マリア。

 俺の声を聴いてくれ。

 初めて会った時みたいに、俺の心の底にある本当を、聴き取ってくれ。

 もう一度、その目で俺を見て。
 もう一度、俺の名前を呼んで。
 笑って、怒って、泣いて、また笑って。あるがままのお前で、もう一度。

 俺の傍にいてほしい。

 俺にお前を守らせて欲しい。


 どうかずっと、―――――。




 マリア。


 怖くて仕方がないよ。
 お前がいなくなるのも、お前がどこにもいない世界で生きていくのも。

 怖くて仕方ないんだよ。




 マリア。

 
 神になんか祈ったことないから、ただ、ひたすらにお前を呼ぶ。



 マリア。
 ただ一人の君へ。

 祈るのはお前にだけ。
 お前一人に捧げる俺の、祈りににも似た、この想い。


 どうか、お前に届くように。







(NEXT⇒愛した分だけ夢を見た)

「LIKE A FAIRY TALE」 25

2012-06-19 21:06:51 | 小説「Garuda」御伽噺編
25.【 だからお願い、どうかピリオドを 】   (ラビ)


 僕が見た彼女の最後の笑顔は、この世で一番綺麗な、幻に、なった。


 だらりと降ろした右手から、銃が滑り落ち、床にぶつかって鈍い金属音を立てた。
 彼女の胸から滲み溢れる血の、その赤さを、ぼうっと眺めながら、その場に膝を付き座り込む。
 その拍子に、左手でずっと持っていた木の枝が、床に擦れて、花びらが静かに散った。


『キンモクセイっていうのヨ。いい匂いでショ?』

『はい、プレゼント』


 彼女がくれた、いい匂いのする花。
 キンモクセイというのだと、教えてくれた。
 プレゼントだと笑って手渡してくれた。

 いつもそうやって笑いながら、僕の空っぽの両手を、満たしてくれた。
 空っぽだった僕を、温かいもので、満たしてくれた。


 嗚咽を堪え、開いたままの瞼を、そっと手で閉じさせる。
 覆われて見えなくなっていく、金の瞳。

 初めて会った時。
 彼女の瞳を見て、ただ無意識に綺麗だと、宝石みたいだと思った、あの時。

 あの時から、もう、随分遠いところにきたような気がする――――。






 不意に、停滞していた空気に震えが生じる。
 ゆっくり顔を上げると、光の入り込まない暗いこの場所にあっても尚、金色に光る髪を持つ男の人が、そこに立っていた。
 彼から発せられる殺気に、振動しているかのように空気全体が震えている。
 こんなに強い気を発する人間は初めて見た。

 こちらの視線に気づき、男の人が、鋭利な目で真っ直ぐ睨みつけてくる。
 その目は、髪と同じ色に光っていて。

 金色に、光っていて。



 ああ。

 ああ、やっと――――。



「…やっと、会えた…」
「……」
「“ファルコ”、でしょう…?」
「……お前…、あの時の……?」
 訝しげに彼が僕を見て、眉を微かに寄せる。当然だろう。きっと僕はもう殆ど、人の形をしていない。
 そのまま僕から横たわる彼女へと視線を移したその目が、瞬時に強張る。
「遅いよ。彼女は…、マリアは、もう死にました」
「…死んでねぇよ」
「………」
「俺が、死なせない」
「…見たら分かるでしょう? 撃たれて、もう心臓が止まってるんですよ?」
「心臓が止まろうが何しようが関係ねぇんだよ。俺がいる限り、俺がこいつを死なせねぇからな。あの世に逝ったっつーなら、連れ戻すだけだ」
 厳しい面持ちでそう言い、彼が彼女を抱き抱え、勢い良く立ち上がる。
「…聞かないんですか、誰が撃ったのか」
「んなことより、こいつを助けるほうが先だ」
「…助ける? どうやって? もう助かりませんよ。奇跡でも起きない限り」
「じゃあその奇跡ってのが起きんだろ。こいつは俺が助けるって、宇宙の法則で決まってっから」
 言いながら不敵に笑う。その顔、その姿に、いつかの彼女の言葉―――『内緒ヨ?』で始まる彼女の言葉が、響いてくる気がした。
そう、いつも、嬉しそうに、少し照れくさそうに笑いながら、でも誇らしげな顔で、こっそりと大事な宝を見せるように、話してくれた。

( 内緒ヨ? ファルコはネ―――――― )

「とにかく話は後だ。さっさとこっから脱出すんぞ。歩けるか?」
「え…?」
「…三年前、ゼイオンとやりあった時、こいつ、俺に野郎の命乞いして泣いたんだ。自分が一番ひでぇ目に遭わされたっつーのによ」
「……」
「何があったか知らねぇが、俺ぁもうこいつの泣き顔なんざ見たかねぇんでな。お前も一緒に連れて行く」
 力強く言い切って、しっかりと彼女を腕に抱いたまま、こちらに背を向け出口へと向かう。
 その後姿は、これまで見た誰より、凛々しく、何より、逞しく。


( 内緒ヨ? ファルコはネ、ヒーローなの。いつだってピンチには必ず駆けつけて助けてくれる。この人がいる限り何があっても絶対に全部大丈夫って、そう信じてしまう私のヒーロー )


 そう、いつも、嬉しそうに、少し照れくさそうに笑いながら、でも誇らしげな顔で、こっそりと大事な宝を見せるように、話してくれたね。
 マリア。
 だから、僕は、


 そろそろと指を動かして、床に落ちたそれを拾い上げる。
 カチャリ、と小さく響いた金属音に、彼が静かに足を止め、ゆっくりと振り向く。
 その金の目を見返しながら、銃口をその顔に、真っ直ぐに向けた。
「…自分が今、どういうことになってんのか分かってんの? お前」
「ええ。見ての通り、僕達はもう助かりません。だから、彼女を置いて行ってください」
「…お前、俺の話聞いてた?」
「人の形を失くしても、僕が種子であることに変わりはない。どんなに不利でも、どんなに距離があっても、狙いを外すことは絶対にないと言い切れる。死にたくなければ、彼女を放して」
 真正面から銃を向けても、微塵の揺らぎも感じさせない、強い眼差し。彼女の澄んだそれとは違う、深い金色。
 ただ見つめられるだけで、すべて見透かされているような気がするのは、彼という人間の本質、魂と言われるものの強固さ故だろうか。
「彼女は死に、じきに僕も死ぬ。貴方達にとっては最上のハッピーエンドでしょう?」
「ハッピーエンド?」
「種子をこの世から消すことが、貴方達の望みだったんでしょう? 僕と彼女が死ねば、種を持つ者はもう誰もいない。罪も過ちも消えて、何もかも望み通りじゃないですか。彼女はもう必要ない」
「…に言ってんだてめぇ」
「貴方だって、だから彼女をアトレイユに寄こしたんじゃないんですか?」

 ―――ゼイオン。
 僕には、全てを憎まずにはいられなかった君の気持ちが、痛いほどよく分かる。
 僕も君と同じで、この世界に何の救いも見出せなかったから。

「僕達種子は、種の宿主となるためだけに造られた。だから、種なしでは生きられない。それを、自分達でそういうふうに造ったくせに邪魔になった途端、今度は償いだの何だの言って消そうとするなんて、虫が良すぎますよ。僕達のためだとか言って、本当はただ、自分達が罪悪感から逃れたいだけでしょう?」
「………」
「貴方達の言う償いは、偽善以外の何でもない。僕達の本当の望みは、種子でなくなることなんかじゃなかった」

 ただ、受け入れて欲しかった。
 異形の僕達を、それでも、同じ世界に生きる同じ心を持つ存在として認めてほしかった。
 この世界は僕達のためにもあるのだと、この世界に生きるものとして同じ輪の中に、ただ、迎え入れてほしかった。

 だけど。



「十二億八千万」
 唐突に告げた言葉に、彼が微かに目を狭める。それを見ながら、視線を逸らすことなく、言葉を続ける。
「アトレイユ政府が、彼女につけた値段です。その値段で、アトレイユは彼女を兵器として他国に貸し出そうとしていた」
「な…」
「知りませんでしたか? アトレイユは永世中立の御旗を掲げる一方、国家収入の60%を、武器や戦力の輸出に頼ってるんです。僕だけしかいなかった頃は、政府にとって研究所は何の役にも立たない厄介な荷物でしかなかった。だけど、彼女が来て。あの人達は、種の本当の力を知ってしまった。そして彼女が、素晴らしい商売道具になることに気づいてしまった」

 だけど、僕達は所詮、道具でしかなくて。戦争の、人殺しの道具として造られたモノでしかなくて。
 それを歴史の過ちだとしながらも、結局人間達は最後まで、僕達を道具としてしか扱わなかった。

「勿論、種に直接命令できるのが神だけであることを、あの人達も知っていた。だけど、神じゃなくても彼女にそれを強制する手段をあの人達は持っていた。僕の、命です」

 自分たちと同じ、心も命もある、同じ生き物として僕達を、一度も見ようともしなった。
 そんな人間達が支配するこの世界のどこに、救いを見出せば良かったというのだろう。
 救いなんか、どこにもなかった。
 唯一つ、彼女の他には。

「彼女は、自分のために誰かが犠牲になることをいつも酷く恐れていた。きっと、オズ博士のことがあったからでしょう。博士が目の前で殺された日のことを、助けることが出来なかったことを、彼女は何よりずっと悔やんでいたから……。だから、僕の命を交換条件に出された彼女は、あの人達に従うほかなかった。あの人達は、保護なしでは生きていけない僕の体質と、彼女の心の傷を上手く利用したんです」

 きっと誰より悲しかっただろうに、それでも、いつも笑っていた。
 きっと誰より辛かっただろうに、それでも、いつも笑っていた。
 きっと誰より傷ついただろうに、それでも、いつも笑っていた。

 僕が、悲しくならないように。
 僕が、辛くならないように。
 僕が、傷つかなくていいように。
 ただひたすら、僕のために、いつも笑ってくれていた。

 彼女の存在だけが、僕の慰めだった。


「種に直接命令が下されるわけじゃないから『審判』までは起こせなくても、小国の一軍隊くらいなら、彼女の力があれば簡単に潰せる。あの人達としても、派手に『審判』とか起こされてこの件が公になるのは困るから、そっちほうほうが都合良かったんでしょう。だけど、それが実行に移される直前に、アデル博士が死んだ。抗う姿勢も一度も見せずにただ、僕達の命の綱だった薬を全部処分して……」
「………」
「種子は人間みたいに簡単に死ねない。自殺も出来ないんだ、種が勝手に蘇生させてしまうから。だから、種子を確実に殺すには、種を崩壊させるしかないことを、アデル博士だけは知っていた」
 きっと博士は、それが最善の策だと思ったのだろう。本当に、最後の最後まで、身勝手で臆病な人だった。
 ―――だからと言って、それを責める権利は、僕にはないけども。
「…でも、博士には一つだけ盲点があった」
「盲点…?」
「……こうして考えてみると、アデル博士が頭を撃ち抜いて死んでくれたのは、都合がよかったのかもしれない。おかげで僕は、それを殺人に見せかけることが出来た。ゼイオンの名を使って、彼の目的がこの街への復讐だと見せかけて、彼女がこの街に来るしかない状況を作ることが出来た。アトレイユの人達が、マリアの口から事実が漏れるのを恐れて、僕を人質に取るのは目に見えていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった」
「…どういう意味だ?」
「僕はどうしても、彼女を助けたかった。彼女さえ助かるなら、こんな世界どうなろうと構わなかった。だから、この国に来たんだ。貴方が…、彼女の神〈マスター〉がいるこの国に。これは、神〈マスター〉なしでは決して出来ないことだったから」
「………『審判』、か?」
「そう。『審判』を起こすことで、種の本質とも言えるその力を発揮することで、彼女の中の種は損傷した部分を自己修復する力を得る。そうすれば、彼女は死ななくていい。おまけに『審判』によって世界が、人間社会が壊滅すれば、彼女を苦しめるものは、なくなる。これ以上の良策なんて他にないでしょう?」
「………」
「だけど、彼女はそれを拒んだ。助かる唯一の道だったのに。何もかも知った上で、それでも最後まで、自分の命よりこんな世界の方を尊んだ。そこに貴方達が……、貴方が、大切に思うものがあったから……」

 君は本当に馬鹿だよ、マリア。
 君なら、僕やゼイオンと違って、本当に全てを壊してしまえたのに。
 その上で、誰のものでもない、自分のためだけの世界を新たに作り出す事だって、出来たのに。


 だけど。


 だけど、マリア。
 君がこの世界を大事に思ったその気持ちも、僕には分かるんだ。君と出会って、愛するという気持ちがどういうものか、少しは僕も、知ることが出来たから。

 だから、これは、賭け。
 不完全な僕達の中で、唯一完全で特別だった君へ、――いや。

 君を特別した、君の一番の奇跡へ、僕が願う最後の賭け。


「お願いだからもう、僕達を放っておいて。彼女を置いて、立ち去ってください。この建物もそう長くは持たないだろうから。万が一にでも貴方が巻き添えになるようなことがあったら、あの世で彼女にあわせる顔がない」
 
 話し終え、銃をもう一度構えなおす。
 どこか近くで爆発音が響き、床が派手に揺れる。
 彼はただじっと、静かに、僕の目を見つめ返していた。

「……悪ぃけど、そりゃ無理だわ」
「……」
「何度も言ってっけど、こいつは死なせねぇし、二度と手放すつもりもねぇ。それにお前、ラビだっけ? 言ってることが思いっきり矛盾してっぞ」
「…矛盾?」
「こいつは自分のために誰かが傷つくことを一番嫌がる。それを知ってんのに、こいつにまた『審判』を起こさせようだなんて、馬鹿なこと考えるはずがねぇ。こいつがそんなことしないことも、そんなことして生き残っても、こいつがまた傷つくだけってことも、お前には分かってたはずだ」
「………」
「お前が何をしたくてこの街に来たのかは知らねぇけど、俺がこいつをアトレイユにやったのは、こいつが種子だったからじゃねぇ。種子とか人間とか、そんなこたぁ元より知ったこっちゃねぇんだよ、俺は」
「………」
「けどまぁある意味、お前の言うことも間違っちゃいねぇよ。その点ではお前に礼言っとく。おかげで、肝心なこと思い出したしな」
「…肝心な、こと…?」

「こいつがいて初めて、俺が在るってこと」

「撃ちたきゃ撃て。そんなもんじゃ、俺は死なねぇよ。こいつがいる限り、俺ぁ不死身だから」
 息を呑むほど雄偉な表情で、きっぱりとそう言いのけて、彼が踵を返し、再び出口へと足を進めていく。
 その彼の腕にしっかりと抱かれて、揺れるマリアの綺麗な長い髪。
 そのすべてを瞼の裏に焼き付けるように目を閉じ、そっと銃から指を解いた。


 ああ。
 
 ああ、やっと、


 やっとこれで――――…。




 ゼイオン。
 僕には、全てを憎まずにはいられなかった君の気持ちが、痛いほどよく分かる。
 僕も君と同じで、この世界に何の救いも見出せなかったから。
 だけど、彼女は違う。
 この世界に何の救いも見出せなかった僕達とは、違う。

 やっぱり、僕は間違っていなかった。
 彼女の一番の奇跡は、彼だ。彼が彼女を特別にした。

 彼と出会って、彼を愛したから。
 彼に、愛されたから。

 この世界がどんなに醜くて残酷でも、
 そこに、虚しい現実と哀しい未来しかなくても、
 彼女だけは、生きることに絶望せずにいられた。

 僕達とは違って、どんな時も、希望を見つけ出すことが出来た。

 彼女には、彼という救いがあったから。

 だから、

 だからこそ。


 彼女の幸福は此処に―――…



 彼と共に、在る。





 最後の賭けは、僕達の負けだ。
 彼女は、やっぱり、この世界に置いていく。

 それで、いいね?

 ゼイオン。






「待って、これを」
 呼び止めて、ずっと隠し持っていた最後の切り札を投げた。
 彼女を抱いたまま振り向きざまに器用に片手でそれを受け取って、怪訝そうに眉を寄せた彼に、にっこり笑ってみせる。
「それは、保護薬と言って種の崩壊を止められる唯一の薬です。正真正銘、最後の一本。アデル博士が死ぬ前に支給されたものだけど、僕は使わなかったから………。彼女に打ってあげてください」
「…お前…?」
 そう。一人勝手に死を選んだ博士を責める権利は、僕にはない。
 彼女の足枷になるくらいなら自ら死のうと、僕も、保護薬を打たずにいたのだから。
 ただ、博士に先を越されて、計画が狂っただけのこと。
 でも、結果的に、それが吉と出た。まさか、博士が保護薬を全部処分するなんて、思わなかったから。
 彼女の種が壊れたと知らされたとき、この幸運に感謝せずにいられなかった。
「貴方次第では、彼女も一緒に連れて行くつもりだったけど……」
 言いながら、ゆっくりと視線を彼から、彼の腕の中にいる彼女へと移す。
 もし、彼女が彼に出会っていなければ、僕と彼女の運命も、何か少しは変わっていたかもしれない。
 だけど、彼女が最後に見せてくれたあの微笑み。あれが彼女の出した答えなら。
 僕と一緒に死ぬ、その運命への、答えなら。

 これが僕の答え――――。

「彼女は貴方に返してあげる。彼女はまだ死んでないよ。種が彼女を殺す前に、僕が彼女を殺したから」
「どういう意味だ…?」
 眉根を寄せて問う彼に、答えを返しながら、立ち上がる。
「壊れた種はウイルスによく似てるんです。媒体が生きている間は、媒体を傷つけながらその中で己もどんどん壊れていく。そして、種が完全に崩壊してしまうと媒体も死ぬ。だけど、それより早く媒体が死んでしまうと、種は動力源を失って、崩壊を少しの間遅らせる。今ならまだ、その薬で崩壊を食い止めることが出来るはずです。そして崩壊さえ止まれば、種は外部から受けた損傷箇所の治癒に動き出す。心臓の再生くらい難しくない。ただ、」
「ただ?」
「これは一時的な処置に過ぎません。種は外部からの攻撃による損傷には治癒能力を発揮するけれど、内部からの、種自身の損傷にはてんで無力だ。保護薬を定期的に投与し続けないと、彼女の種は、すぐにまた崩壊するでしょう。だけどアデル博士が死んだ今、その薬を作れる人間がいない。保護薬の精製法は、博士がずっと極秘にしていたことだから。今、クロイス博士が精製に取り組んでいるけど、彼じゃ多分、次の崩壊までに薬を完成させることは出来ない。だから、本当の意味で彼女を救うには、奇跡を起こすしかないんです」
「…奇跡?」
 鸚鵡返しに言う彼へとまた視線を戻し、少しずつ後ずさりながら、その目を真っ直ぐに見返した。
「種から彼女を護って。この奇跡は、貴方にしか起こせない。神であろうとなかろうと、貴方は彼女にとって“唯一人”だから」
 僕の言葉に、彼がぎゅっと口元を引き締め、マリアに目を落とす。
 その金の目にくっきりと浮かび上がったものを、胸に噛み締め、それを言葉にした。
「貴方にだって、彼女は、そう、なんでしょう?」

「…ああ」

 厳として頷いた彼に、静かに微笑しつつ、この瞬間の彼をマリアに見せてあげることが出来ないことを、少し残念に思う。
 でも、きっとこの先、いくらでも見ることが出来るだろうと、その時のマリアの表情を思い浮かべて、独りでに、また微笑が零れた。

 行き着いた壁に、空になった右手をそっと当てる。
 響いてくる音を確認しつつ、左手にあるものを失くさないよう、大事に握りしめた。
「マリアがいつも言ってたよ。“ファルコ”は凄い。“ファルコ”は世界一強いって。マリアが僕に教えたことは全部、“ファルコ”に教えてもらったことだって、いつも嬉しそうに笑っては、誇らしげに話してた」
 やっと僕の行動の不自然さに気づいたのか、彼が俄かに表情を変える。
 それを制止するように、口を動かし続けた。
「マリアがそうやって誰のためでもなく、自分のために笑える場所は、アトレイユにはなかった。最初から此処以外、貴方の傍以外にはどこにもなかったんだ」
 すぐ真下の階から、一際大きな爆発音が響く。衝撃に揺れる視界で、これが最後と、マリアを見つめる。
「マリアをお願い。彼女は僕の、僕達種子の、希望、そのものだから。どうかもう、鎖から解放してあげて」

 光の国という夢の世界から来た、奇跡のような女の子。
 君が笑ってくれるだけで、どれだけ、幸福な気持ちになったか。
 恐怖と憎しみ以外何も知らなかったこの身で、どれほど君を、愛しいと、そう感じたか。

 本当を言うと、君も一緒に連れて行きたかった。
 だけど、僕以上に君を必要としている人が此処にいるから。
 だからもう、僕以上に、君が必要としている人の元にお帰り。


 可愛いマリア。
 この世界でたった一人の、大好きな、宝物みたいな僕の妹。
 君と離れるのは辛いけど、でも、僕はもう逝かなきゃいけない、から。
 これで、お別れ。
 せめて、君が最後にくれた花を、キンモクセイだと君が名前を教えてくれたこの花を、君の代わりに連れていくことは許してね。
 そして、どうか、


「幸せにしてあげて」



 ―――どうか、これからは自分のために、笑って、この世界で、生きて、自由を。





 残った力全部を右手に振り絞って、脆くなった壁を殴りつける。
 瓦礫と化して崩れ落ちていく壁の激しい騒音に交じって、彼が、何か叫んだような気がしたけど、焼け爛れていく体に遮られて、すぐに何も聞こえなくなった。

 焼かれ爛れ落ち、朽ちていく体に、悔いも恨みも苦痛も、何もない。
 あるのはただ、安堵感。
 やっと、これで、全部終わりに出来るという安堵感。
 出来損ないの化け物と蔑まれ、暗い牢獄のような部屋で一人きり、ただ、ただ孤独と虚しさを噛み締めるだけだった僕の、“くず”と呼ばれた第一の種子の人生を、これでやっと終わりすることが出来る。
 最後に彼女のおかげで、少しだけでも意味を持てた。
 それだけで、今までの人生を全部合わせても、お釣りがくると思うから。
 生まれてきた意味があったと思うから。

 だから、僕は胸を張って、彼女からの最後の贈り物を手に、この世界から、歴史から消えていく。

 残酷で辛いだけの現実も、種という鎖に縛られ続けた哀しくて虚しい日々も。


 やっとこれで、終わりに出来る―――――。




 消えた壁の向こうを振り返って、眼球が焦げ付く前に、一瞬見えたものは、果てなく続く広く青い空と、燦然と輝く球体。

 あれが、太陽。
 初めて、見た。
 なんて、綺麗な…―――。


 ああ、マリア。やっと分かった。
 君がいつも、昇る朝日に、浮かぶ月に見ていたもの。

 本当に、よく似ている。


 なんて綺麗な、至上の金色―――――。








(NEXT⇒まだ、こんなにも愛おしい)

「LIKE A FAIRY TALE」 24

2012-06-19 21:05:59 | 小説「Garuda」御伽噺編
24.【 音の速さで届く言葉 】   (ファルコ)


 振り切れない悪寒が気持ち悪い。
 あいつの目、あいつの言葉、そして―――。
 どれもこれも、これが最後だと言っているようで。


 気が付くと、走っていた。
 あいつが向かった、機動隊基地の方向へ。

 遠くからだとそうは分からなかったが、近づくにつれて爆発によるものなのか、煙が酷くなってくる。
 少しだけ咽そうになる空気に腕で口を覆いながら、避難する人の波に逆らってその先へ急ぐ。

「おい、金目」

 場違いな冷静な声に足が止まる。
 振り向くとそこには、黒い公用車に寄りかかるように立つ、ゼルダの姿があった。
「こんなところで何をしよる? 言っとくが、この先はもう、一般民間人は立ち入り禁止だぞ」
 何と言ったらいいのやら、とりあえずチラリと機動隊基地の方向へと目をやれば、無表情を絵に描いたような、いつもの顔のまま、ゼルダがふうと小さく息を零した。
「やはり、あの娘のとこに行くのだな」
「……マリアはあっちか?」
 言いながら、機動隊基地を指差す。
「情報によれば恐らく、隊舎の東棟最上階らへんにいると思うが。まぁ、行くなら早い方がいい。私はあまりオススメせんが、ボスはそれを望んでいるようだからな」
「…ゾロが? どういう意味だ?」
「ボスからの伝言だ。“おいの口から直接言うわけじゃなかけん、約束破りにはならんやろう”だと」
 車に寄りかかっていた体を起こしながら、ゼルダが、ごそごそとスーツの懐を探る。
「あんのクソモジャは本当に。ただでさえクソ忙しいというに人をアトレイユに飛ばしておいて、戻るなり話もろくに聞かんと今度は自分がアトレイユに行ってしまいよった。ああ、そうだ。“おいは向こうで出来る限りのことばするけん、お前はこっちでお前に出来ることばせい”とかなんとかとも言いよったぞ」
「…? だから、何なんだよ? 何かあるなら、ハッキリ言え、ハッキリ」
 苛ついて口調を荒げたところで、ゼルダが懐から、手のひらサイズのテープレコーダーを取り出し、それを見せるように前に突き出した。
「これは公式記録用のテープだ。大統領政務室で交わされる会話は、特別な事情がない限り全て、音声テープに記録されることになっとる」
「は?」
「いいけ、黙って聞け」
 思いっきり眉を顰めた俺を無視して、ゼルダがボタンを押す。
 途端、明瞭な音で、テープレコーダーが再生し始める。

『このこと、誰にも言わないって、約束して欲しいネ。それが、この街を守る条件ヨ』
『どういうことや…?』


 ―――マリア、と、ゾロ?
 聞き覚えのあり過ぎる声に思わず、テープレコーダーに視線を落とす。
 そして次の瞬間、聞こえてきた言葉に、全神経、全筋肉が、一瞬にして凍結したような感覚に襲われた。

『だから、今言った通りヨ。私がもうすぐ死ぬこと、誰にも言わないで欲しいネ。特にガルーダのみんな…、ファルコには』
『………』
『………』
『……悪いばってん、その約束はできん』
『死に逝く者の最後の頼みを黙って叶えてやるのが、人の道ってものじゃないのカ?』
『マリアちゃん、おいは……』
『邪魔されたくないネ』
『邪魔?』
『今、みんながこのことを知ったら、きっと私、死ねなくなる。死にたくなくなる。どんな手を使ってでも、生きたいって思ってしまう』
『…………』
『だから、言わないで欲しいネ』
『……マリアちゃん、よく考えてみんしゃい。今隠したところで、いずれ分かってしまうことや。後になって、初めて知らされるほうが、よっぽど酷っちゅうもんやないか?』
『だから、言わなきゃいいネ』
『え?』
『私が死ぬことも、死んじゃったことも、言わなきゃいいだけヨ。そしたら、誰も何も知らずに、今まで通り暮らしていける。ずっと、穏やかな気持ちのまま、普通に笑って生きていける』
『…………』
『私からの、せめてもの恩返しみたいなものヨ。私に出来る、最後の恩返し。……みんなから受けた恩には、全然足りないけどナ』
『…………』
『…………』
『……おいは、邪魔にはならんとか…?』
『…モジャモジャは、いいネ』
『…………』
『モジャモジャは、同志だから』
『同、志?』
『私とモジャモジャは、個人的に一番大事に思う対象が同じネ。だから、同志、でショ?』
『…………』
『それに…』
『…それに?』
『もうどうにもならないなら、せめて、ひとつだけでも…、っていう気持ち、モジャモジャが一番よく分かるはずヨ?』



 ブツっとそこで音がして、テープレコーダーが停止する。
 ゼルダはただじっと、目を逸らすことなく、俺を見ていた。

「行くなら早く行け。詳しい話は本人から聞けばいい。まぁ、もしかしたら、もう喋ることも出来んかもしれんが。いくら完全体とは言え、もうギリギリだろうからな」
「…ぎり、ぎり…?」

 呟いた声が、自分のものなのに、酷く遠くから聞こえた気がした。

 血の気が引くとは、こういうことだろうか。
 指先が冷えて、足元が崩れそうに危うい。

 頭が、働かない。
 見開いた目に映るもの全てに、現実感がない。

 そのくせ、鼓動は相変わらず激しく五月蝿い。


「あの娘の命が、だ。何でも体内の種が壊れたとかで、もって後四日とかいう話を聞いてから、今日でちょうど四日目になるからな。時間切れってやつだ」


「あの娘、死ぬぞ」



 後方からまた、でかい爆発音が響いて、ゼルダが首だけで振り返る。
「お~お、派手にやってくれるわ。あぁ、金目。行くなら裏から回れ。少し遠回りになるが、正面はもう潰れてしまっている」
 もくもくと上がる黒煙を見ながら無感動にそう言い、ゼルダはこっちを振り返った。
「さっさと行って、ちゃっちゃっと助けてこい。あのお騒がせ娘にはこれまで散々世話かけさせられたのに、こんなとこであっさり潔く死なれちゃ、私の今までの労力がパーになる」
 それだけ言ってゼルダは車に乗り込むと、運転手に言葉をかけ、機動隊基地へと車を走らせていった。


 ―――ゼルダは今、何て言った?
 ―――マリアはゾロに何の話をしていた?
 ―――何を……。


( 私がもうすぐ死ぬこと、誰にも言わないで欲しいネ )
( もって後四日とかいう話を聞いてから、今日でちょうど四日目になるからな。時間切れってやつだ )
( 私が死ぬことも、死んじゃったことも、言わなきゃいいだけヨ )
( あの娘、死ぬぞ )



(  さ よ な ら  )




 理解した瞬間、湧き上がったのは、どうしようもない怒りだけで。

 マリアのあれは、別れのための言葉だったのか?
 あの言葉も顔も全部、だからこそ、だったのか?

 馬鹿みたいだと分かっていても、湧き上がってくる感情を抑えられそうにない。


 あいつの言葉も顔も、瞼から消えそうにないほど、こびりついているのに。


 そのすべてが、なくなる、なんて。




 全てを振り切るように、機動隊隊舎の裏へと向かう。
 考えている時間はない。
 拳を握り締め、足を速める。




 思うことは、ただひとつで。
 嫌な悪寒もどうしようもない焦りも、全てこの事実に恐怖していた俺自身の警報で。

 ―――マリアが、あいつが死ぬなんてこと、あっていいはずがない。


 他の何を守れなくても、
 他の何を失っても、

 どうしても、あいつだけは。


 そうだ。


 あいつだけは絶対に。

 何があっても俺はずっと、『守り抜く』、そう、誓ったのだから―――。




 いつか心に誓った彼女への想いが後から後から湧き上がって、うるさいくらいに、俺の胸を叩いていた。






(NEXT⇒だからお願い、どうかピリオドを)