硝子のスプーン

そこにありました。

「LIKE A FAIRY TALE」 23

2012-06-19 21:04:59 | 小説「Garuda」御伽噺編
23.【 最後の最後だけ、本当だった 】   (マリア)


 (せいぼ?)
 (そう。大昔の神様の母親でね、聖母って呼ばれていた。マリアの名前はその人から貰ったんだよ。その人のようにマリアも、全てを赦し慈しむことが出来る女性になれるように)
 (すべてをゆるしいくし、いつし…、なに?)
 (いつくしむ。愛するってことだよ)
 (ふーん)
 (マリア。よく覚えておおき。この先お前は、自分を呪ったり誰かを恨んだりする時が来るだろう。そうやってその憎しみに身を任せることはとても簡単だが、同時にとても寂しく空しいことだ。爺ちゃんは可愛いお前に、そんな人生を送ってほしくはない。爺ちゃんはね、お前には、憎むことより赦すことを選べる強い人になって欲しいんだよ)
 (つよいひと? マリア、つよいヨ? おっきなきだってたおせるし、いわだって…)
 (いいかい、マリア。本当の強さっていうのは力じゃなくて、人や自分を愛し赦せる心のことなんだよ。愛し赦すことは憎み恨むことより、ずっと難しいことだからね。努力なしでは出来ないだろう。だけど、いつだって爺ちゃんがお前を愛しているみたいにお前も、自分やこの先出会う人達を愛して、その醜さも弱さをも赦しておやり。そうすればきっと、どんな地獄にだって必ずひとつは救いを見つけられる)
 (…このさき、であうひとたち……?)
 (そうして出来ることならどうか、実りある、笑って最後を迎えられるような、そんな人生を送っておくれ―――)




 ――――じい、ちゃん…。
 
 じいちゃんが傍にいるような気がして、思わず呟いたけど、それはもう、声にならなかった。
 
 大好きなじいちゃん。じいちゃんと二人きりで暮らした、あの島での生活。
 あの頃、私はきっと、とても、とても大事なものを、じいちゃんから沢山受け取っていた。



 頭の上から殴られているような痛みが走る。
 視界がぼやけて全身が痛い。
 まるで太鼓を打っているみたいに、全部の血管がドクドク脈打っていて、それが、頭の芯まで響くようでとても辛い。


 あぁ、ラビが泣いているのが分かる。
 なのに、顔が、もうよく見えない。声も、聴こえない。
 泣かないでって言いたいのに、ごめんネって一生分言っても、足りないのに、もう、喋れない。

 ラビ、ラビ。優しい、赤い目のウサギさん。
 私の目を、宝石みたいだって言ってくれた。
 あれは私にとって、とても特別な言葉で、だから、とても嬉しかったんだ。
 ラビがいてくれたから、辛いことも苦しいことも哀しいことも、乗り越えようと思えたんだヨ。
 痛くて我慢できないときでも、ラビのこと思ったら、それだけで頑張れたんだヨ。
 もう『ありがとう』も、『ごめんなさい』も、伝えられないけど。
 私の、たった一人の仲間。誰とも比べられない、大切な、大切な……。
 そう言って許されるなら、本物のお兄ちゃんみたいだった。

 ごめんネ、私が、こんな力なんか持ってなかったら。
 あんなに何回も未練たらしく、ラビに、この街の話をしなかったら。
 きっと、こんなことにはならなかった――――。



 体中の骨が、粉々に砕けそう。
 目を閉じているのか、開けているのか、それすらもう分からない。
 私、今、ちゃんと息、吸えてるのかな…。


 なんだか、思考が緩やかに停止していってる気がする。
 考えてるわけじゃないのに、さっきから色んな状況や場面が、頭の中で浮かんでは、消えていく。
 じいちゃんとか、スレイとかトゥルーとかアンナちゃんとかツバキさんとか、ゲジゲジとかシューちゃんとかモジャモジャとか、アデル博士とかクロイス博士とかラビとか、ファルコ、とか、色んな人の顔が見える。
 ……ああ。これが、テレビでよく言ってた、死ぬ前に見る、フラッシュボードってやつか。

 私、本当にもうすぐ、死ぬんだ……。

 そう思った瞬間、涙がじわりと湧いてきて。


 本当は――――…。

 本当は、博士が死んでラビが何を考えているのか分かった時、哀しくて泣きたかった。
 本当は、この街で三年ぶりにファルコに会った時、駆け寄って抱きついて泣きたかった。
 本当は、船に帰ったとき、みんなの顔を見て、変わらない優しさに、大声で泣きたかった。
 本当は、最初の痛みがやってきて種が崩壊したのを知った時、恐くて、泣きたかった。
 本当は、あの時……、ううん、三年前博士に連れられて、この街を離れてからずっと。

 ずっと、辛くて、泣きたかった。


 何度も、何度も、自分に言い聞かせてきた。
 この結末を招いたのは、誰でもない私自身。
 悪いのは全部、私。
 だから、もう、泣いて甘えちゃいけないって。

 そうしてずっと隠してきた、沢山の涙。沢山の想い。

 それが、もう誰にも会えないんだって思ったら、どうしようもなく溢れてきて。


 ファルコ―――。

 恐くて甘えたくて縋りたくて、思い浮かべた、ただ一人の人。


 ―――ファルコ。

 ファルコ、ファルコ、ファルコ。

 ねぇ、死にたくないヨ。
 まだ、死にたくなんかなかったヨ。
 ずっと、ファルコの傍にいたかった。
 女の子として好きになって欲しかった。

 会いたい。
 最後にもう一回、会いたいヨ。

 もう一回、あの綺麗な金色が、見たい。
 もう一回、笑ってる顔が、見たい。


 ファルコ。

 好きだヨ。会いたいヨ。死にたくないヨ。恐いヨ。


 ファルコ。



 ファルコ。




 だけど。

 あの日、色覚を失った日。
 あの日ファルコに会って感じたあの気持ちは、本物だった。

 最後に、ちゃんと顔見て、好きって言えて良かった。
 なんだかすごく驚いた顔してたけど。
 でも、私の気持ちは全部、伝えた。伝えられた。
 あの気持ち全てが、私の全てだと本気で思うから。
 

 私がここで死んでも、ファルコは生きる。

 きっと、約束通り、モジャモジャがうまいこと誤魔化してくれる。
 急ぎの用でアトレイユに戻ったとか、なんとか、言い訳なら幾らでもあるはずだ。

 私がこの空の下で生きていると、元気でやってると、時々は思い出してくれるだろうか。
 そうやって、ファルコはずっと、この街で幸せに生きていく。
 それは悲しいけど、とても嬉しいことでもあって。

 その希望があるから、私は、きっと―――……。



 ―――ああ、そうか、そういうことだったのか。

 ねぇ、じいちゃん? 今なら分かるヨ。じいちゃんがあの日、言ったこと。
 じいちゃんは、分かってたんだネ。
 いつの日か、私のために死ぬ日が来ること。
 あの頃、じいちゃんが私にくれた言葉はみんな、遺言だったんだ。

 あの頃、私はまだ小さくて、その言葉の意味をきちんと理解していなかったけど。
 それでも、その言葉は私の中にしっかり息づいていた。
 意味が分かってなくても、じいちゃんの思いは、私の中で、しっかり息づいていた。


 じいちゃん。アナタの『マリア』は、精一杯『強く』生きたヨ。
 苦しかったけど、でも、だからこそ、最期を笑って迎えられる。







 ひょっとしたら、こんなふうに、ファルコの中にも、息づくかもしれない。


 私の残した言葉が、


 思いが、小さく。






 だったら、いいな――――――。







(NEXT⇒音の速さで届く言葉)

「LIKE A FAIRY TALE」 22

2012-06-19 21:03:54 | 小説「Garuda」御伽噺編
22.【 グリムの見た夢 】   (ラビ)


 そこにはいつも光が溢れていた。

 遠い海の向こう、トラビアのリムシティという街からやってきた少女。
 明るくてお喋りが好きで、いつも、僕に沢山の話をしてくれた。
 僕が持っていないものを、沢山持っていた。

 太陽の光を浴びても平気な、綺麗な皮膚。
 完璧なまでに種と融合した、丈夫な身体。
 愛してくれた名付け親。
 自然と微笑みが零れる、暖かな記憶。
 家族のように慕う、優しい人達。
 笑って話せる楽しい思い出。
 心から信じ、愛することが出来る人。
 大事な宝物のような、その、気持ち。

 僕が欲することさえ知らなかった沢山のものを、彼女は持っていて、そして、それらのことを彼女が話して聞かせてくれるたび、そこに光が溢れるようだった。
 彼女はまるで、光の国という夢の世界から来た人のように、僕の目には映った。

 だから僕は、彼女を憎んだ。
 
 僕とはまるで違う彼女を、憎まずにはいられなかった。

 その頃の僕が知っている感情は、憎しみと恐怖だけで、だから彼女の笑顔を見るたびに胸に湧く感情―――恐怖とは違うその感情を、憎しみと捉えるしか、僕には選択肢がなかったんだ。
 それ以外のものを僕に教えてくれる人なんて、誰もいなかったから。
 
 ずっと、彼女の他には、ずっと誰もいなかったから。




 爆発音の合間に聞こえた微かな物音に目を開けると、そこには数時間前に別れた少女が立っていた。
 
 数時間前より更に青白い顔で、酷く苦しそうにこちらを見ながら、彼女は口元だけで笑ってみせる。
 多分もう、息をするのも辛いに違いない。
 なまじ完全であったが為に、種が崩壊してもなかなか死ねず、彼女は、随分と酷い苦しみを味わったことだろう。
 だけど、じきにその苦しみも終わる。
 彼女の体はもう、限界を迎えているだろうから。
 タイムリミットが、迫っている。

「見つけた」
 吐き出すようにそれだけ言うと、彼女はその場でズルズルと床に腰を落とす。
 ふと、目と目が合う。
 何か言おうとしたのか口を開きかけて、でも結局止めたのか、じっとこちらを見つめたまま、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「疲れちゃったヨ…」
 そうしてやはり、口元だけで笑ってみせると、膝を抱えて座り込みながらそう言った。

「…なんで……?」
「?」
「なんで、戻ってきたの…?」
「何言ってるネ。約束、したでショ?」

 それは確かに、僕が約束させたこと。
 だけど、戻ってきて欲しいと願う気持ちは半分だけで、後の半分は戻ってきて欲しくはなかった。
 彼と手を取って、逃げて欲しかった。結果は同じかもしれないけど、でも、どうせ同じなら、そうして欲しかった。

「本当に、馬鹿なんだから…」
「そ、かナ」
 首を僅かに傾げて答えながら彼女がまた、口元だけで笑う。その顔を睨むように見ながら、出来るだけ感情を込めずに口を動かす。
「馬鹿だよ。大馬鹿。なんでもう少し、自分のことだけ考えないの? 僕のことなんて放っておけばよかったんだよ」
「ほっとけないヨ。ラビ、だモン」
「それが馬鹿だって言ってるの。奴らの後始末くらい、僕一人でも大丈夫だし、あのテロリスト達のことだって。一人で全員相手にしなくたって、彼らの口から僕の名前が出ることなんか、万に一つもなかったのに。僕はそんなに浅はかじゃない」
「うん…、分かってる。でも、もしかしたらって、思っちゃったネ」
「馬鹿」

 そう。そんなこと彼女が心配する必要なかったんだ。
 僕はただ、迎賓館のメイドさんにそれとなく匂わせただけ。僕達が大統領にとって、どれだけ危険で、どれだけ価値がある存在かを。
 僕の策にメイドさんはまんまと乗せられて、テロリスト一味にその情報を売って、その情報を元にテロリストはこれまた僕の考え通り、一人になった彼女を狙ってくれた。とても簡単なことだった。
 彼女が気づかないわけがないのは分かっていたけれど、とにかく騒ぎを起こして一刻も早く、『彼』に彼女がこの街にいることを知ってもらう必要が、僕にはあった。単にそれだけのことだった。
 なのに、彼女と来たら。

「折角ある程度自由を保障されていた迎賓館は出ちゃうし、身体を酷使して残り時間を短くしちゃうし。折角“ウチ”に帰れたのに、肝心なことは何も話さないで戻ってきちゃうし。おまけに無理して倒れるし。どれだけ、馬鹿なんだよ」
 ブツブツと文句を言う僕を、彼女はただ、見てる。
「どうせ、彼にも言わなかったんだろ? 折角、最後にチャンスをあげたのに」
 その目はもう、何も見えていないかのように、虚ろで。
 間違いなく、死期が近い。
「助かる唯一の道だったのに」
 言い切って、頬を流れて落ちていく生温かいものを、腕で拭う。
 彼女はじっと、僕の左手を見た後、大きく息を吸って、震えるように声を絞り出した。

「私にとっての唯一の道は、そっちじゃなかったネ。それだけヨ」

 聞いたこともないほど、細く掠れた声で、そう言うと、彼女は膝を抱えたまま、ずるずると重力に引っ張られるように、身体を横に倒した。
 もう、息を吐くのも吸うのも、酷く辛いに違いない。


 階下から響いてくる爆発音に混じって聞こえてくる悲鳴や怒声に、耳を傾けながら、立ち上がる。
 もう、時間がない。
 右手にぶらさげるように持った銃を隠すことなく、ゆっくりと彼女に近づく。
 彼女はただ、僕の左手を、そこに握っているものを見ながら、静かに荒い呼吸を繰り返している。
 綺麗な、綺麗な、宝石のような、金色の瞳。
 もしも、この瞳がこの色でなければ、僕と彼女の運命は、少しは違っただろうか――――。


 ぼやける視界で、もう一度しっかりと彼女を見つめながら、近づく。
 手が届く距離に来て、初めて、彼女が動いた。
 膝を抱えていた腕を、ゆるゆると解いて、僕に向かって、力なく伸ばす。
「泣か、ないで…赤いお目々の、ウサギさん」
 見下ろす僕をじっと見上げ、眉を寄せながら、彼女が小さく呟く。
「ごめんネ…。きつか、たでショ? …こんなに、へんけいして。いたか…たでショ…? ごめんネ、ひとりで、こんなこと、させてしま…て…」
 そろりと指で、すっかり形の変わってしまった僕の右手に触れながら、途切れ途切れに彼女は言葉を紡いでいく。
「…ントに、ごめんネ、ごめんネ、ラビ。…私…が、いたから。全部、私のせいネ。博士…が、自殺、したのも、ラ、ビが、種、崩壊して、たのに、こんな……」
「……やっぱり、気づいてたんだ…」
「う、ん…」
「いつ気づいた? 僕の種が崩壊したって」
「…隊舎に、移…て、すぐ…」
「……さすが、だね。これでも隠してたつもりなんだけどなぁ。……じゃあ、博士が自殺だったって言うのは? もしかして、最初から分かってた?」
「…ん…、私、は、三年前、に、ゼイオン、の気が…消えるの、目の前で見て、る。……死…だのに、人、を、殺せ…はずない」
「…僕が殺したとは思わなかったの?」
「ラビ、が、博士を殺せるはず、ないネ…、だって、お父さ…でショ?」
「…え…?」
「博士、は、ラビの、お父さ…、だ、たんデショ?」
「……な、んで、」
「分か、るヨ。三、年間ず…と、ラビと、い…しょに、いた、だモン」
「………」
「ごめ…ネ、許し、て、なんて、言え、ないよネ……」


 ―――ああ。
 ああ、やっぱり彼女は、特別なんだ。

 生まれつき僕は、出来損ないで。
 太陽の光をまともに浴びれば、皮膚を通り越して内臓まで焼かれ、意識的に種の力を使えば、骨格や筋肉が変形して元の形を失ってしまう。
 種子としてどころか、普通の人間としてすら、生きられなくなってしまう。
 出来損ないのラビッシュ。赤い目の役立たずの化け物。僕を造り出した帝国軍研究所の人達はみんな、僕をそう呼んだ。
 それでも製造者である博士が僕を捨てなかったのは、ただの自尊心。科学者として、ただ、失敗を認めたくなかっただけ。
 アトレイユに逃げ込んだ後も研究を続けたのだって、強迫観念にも似たその自尊心を満足させるため。
 彼は多分そうすることで、罪から目を逸らすことが出来ていたのだろう。いや、本当はずっと、罪に恐怖して、その罪を消し去りたかっただけかもしれない。
 自分の子供を進んで、人外のものに造り替えた、その罪から。

 それを証拠に、あの人から恐怖や憎しみ以外のものを感じたことなんて、一度もなかった。
 生きる場所を与えてくれはしたけれど、実験や研究に纏わること以外で僕に触れることも、言葉を交わすこともなかった。
 生涯、ただの一度も。

 だからあの夜、研究室で、頭を打ち抜いて息絶えていた博士を見ても、涙は出なかった。
 自らが招いた運命に翻弄された、哀れな人だと、ただ呆然と、飛び散った血を眺めていた。
 死に姿に「哀れみ」以外の感情を抱くには、僕には、博士はあまりに遠い存在だった。
 あまりにも遠すぎて、父親だと知ってはいても、愛情を感じたことも、求めたこともなかった。
 はずだった。のに。

 時間が経つにつれて、日々大きくなった心の穴。
 リムシティに来て、三日目の晩に種が崩壊してからは、更にそれは大きくなって。
 あの夜のことを、博士を思い出すたびに、勝手に出てきた涙に、僕はそれを自覚せずにはいられなくなった。
 僕が心の奥で知らず、知らず、欲していたもの。
 父親としての彼からの愛情を欲した僕の、叶わなかった僕の、哀しい願いを。


 そうやって僕自身でさえ、つい最近知ったものを、彼女は、たったの三年一緒にいただけで、簡単に見抜いてしまっていた。
 それこそが、僕やゼイオンが知らなかった、心を、彼女だけは知っていた証なんだろう。

「ご、めんネ、ごめ…」
「……マリアのせいじゃない。あの人が弱かっただけだ」
「…わ、たしが、こんな、…じゃなかったら、…れも傷、つかな……よかっ…。だ、れも、こんな…て……ったのに…」
「マリアのせいじゃない。マリアは何も悪くない。もう、喋らないで」
「…たし、が、ここの、はな…しな、かったら、ラ、ビ…こ…な……。…わた、し……分か…てたのに、ど…しても……」
「分かってる。最初から、僕だって分かってたんだ。マリアにそれが出来ないことくらい。だから、いいんだ」
「………め…ネ…」
「違う、マリア。謝らなくていいんだ。どの道僕は、殺されるだけだったんだ。だから、マリアが謝ることなんて、何もないんだよ」
「…ご、め……」
「違う、マリア。マリア、は、」

 日が届くことのない暗く冷たい牢獄のような部屋に、彼女の声が響くだけで、そこに光が溢れるようだった。
 実験や投薬で、体中がバラバラに千切れてしまいそうに痛い思いをしても、一人じゃないと思うだけで乗り切れた。
 時折視察に来る偉い人達から、何十層もの強化ガラス越しに化け物を見るような目で蔑まれて、疎まれていることがありありと分かっても、僕には彼女がいると思うだけで、心救われた。

 彼女だけが、僕に、恐怖と憎しみ以外の感情を、与えてくれた。
 彼女の笑顔を見るたびに胸に湧いた感情は、あれは憎しみじゃなくて、嫉妬と呼ばれるもの。自分にないものを持っていた彼女に対する、浅はかで幼稚な憧れ。
 だからこそ、いつからか、彼女の哀しそうな顔を見るだけで胸が苦しくなって、ずっと笑っていて欲しいと願わずにはいられなくなった。その気持ちは、きっと、愛情と呼ばれるもので。
 兄妹だと間髪入れず彼女が言ってくれた時、泣きたいくらい嬉しかった。あの暖かな想いはきっと、絶対に、幸福と呼ばれるものだった。

 彼女が宝物をこっそり見せてくれるように、話してくれた沢山のこと。
 それは僕にとっても宝物で。
 
 彼女自身が、僕の宝だった。

 だから、アトレイユで、事の隠蔽のためにただ殺されるより、ここで、マリアのために力を使って死にたいと思った。
 どうせ結果は同じでも。
 そうすることで、無意味で空しかっただけの僕の人生にも、少しは意味ができるから。
 だから。
 
 マリアは、


「僕を、救ってくれたんだよ」


 力を完全に失くして、落ちそうになる彼女の腕を、手を握ることで引き止める。
 苦しそうに僕を見ながら、荒い呼吸の中、彼女が、少しだけ、小さく微笑んだ気がした。



 ちゃんと、その時を見極めなきゃいけないのに、涙で彼女の顔がよく見えない。



 微かに彼女の唇が動く。


 紡がれた言葉は、もう、声にならなかった。


 空洞のように虚ろになった瞳から、涙が一滴流れて、


 静かに、床に、落ちた。




「マリア……」



 握り締めていた手を、ゆっくり解いて、もう動くことのない小さな手を、そっと床に降ろす。
 照準が狂わないように、どうしようもなく溢れる涙を拭って、しっかりと銃を構える。

「…マリア…」

 不完全な僕達の中で、唯一完全で、特別で、宝石のような綺麗な瞳を持つ少女。
 この世界にたった一人の、かけがえのない、大事な、僕の、妹。

 これが、君のために僕が出来る最後のこと。

「…タイムリミットだ…」


 種子という重い枷を嵌められて、運命に翻弄されるだけだった、短い人生。

 その瞳が金色じゃなければ、何か少しは、この残酷なだけの運命を変えることが出来ただろうか―――。



「解放、してあげる」






 彼女の心臓を真っ直ぐ狙って引き金を引いた瞬間、見えた彼女の笑顔は、この世で一番綺麗な幻だった。






(NEXT⇒最後の最後だけ、本当だった)

「LIKE A FAIRY TALE」 21

2012-06-19 21:02:43 | 小説「Garuda」御伽噺編
21.【 闇を孕むカイン 】   (シューイン)


「夜明けの太陽を、見たことがありますか?」

 扉を開くと、その部屋の主ではない男が、窓際に立って外を見下ろしながら、唐突に言葉を寄こした。

「近頃は見てねェな。非常時だってのに、一般人は勝手に潜り込むわ、軍事長官は行方不明だわ、隊舎内は血だらけだわ、問題ばっかで、のんびり空を見る暇もねェ」
 少しも動じる様子も見せずに、こちらに背を向けたまま、男が「そうですか」と静かに言って返す。
 それを見ながら、入り口の扉を閉め、そこに寄りかかった。煙草を一本取り出し、火をつける。
「……悪いが、バルバに会いにきたなら無駄足だ。あの人ァ、ああ見えて忙しいからな。非常時ともなれば本部に缶詰状態で、隊舎の自室に戻れるこたァ滅多にねェ」
「みたいですね。貴方はいいんですか、こんなところにいて」
「そりゃあ、オレの台詞じゃねェか?」
 言って静かに煙をくゆらせながら、未だ微動だにしない男の背を見る。
 少し力を込めて掴めば折れてしまいそうなほど、細く頼りない肩や、薄い体つきを見る分にはとても、人としての限界を軽く凌駕する力を持つ種を、その身に宿した人間には見えない。
 だが、マリアがそうであるように、この男も一見そうは見えなくても、間違えなく確かに、その力を持っているのだ。
 最初の試みだったとは言え、それでも、こいつも種子なのだ。

 マリアと同じ。

 ゼイオンと同じ。


「ここは見晴らしがいいですね。街も見えるし、海も見える。さすが、隊長サンの部屋だ」
 男はやはり少しも動かないまま、口を開いた。
 硬い空気とは裏腹に、まるで世間話でもするかのような、その声色に合わせて喋りながら、ゆっくりと近づく。
「なんだ、お前らに用意した部屋が気に入らなかったか?」
「そうじゃないですよ。ただ、こんなところから見る朝日は、さぞかし綺麗だろうと思っただけです」
「生憎、オレの部屋は反対側なんで知らねェが。まァ、綺麗だろうよ」
 ちょうど男の横に着いたとき、男はゆっくりとその赤い目で、どこか虚ろにこちらを見上げた。
「…血ィ、ついてるぞ」
 言って、その左頬を顎で軽く差し示す。男はそれを拭うことはしなかった。
 ただ薄い微笑だけを返して、漫然と視線を窓の外に戻す。
 それに倣いオレも、窓の外に目をやる。
 そこには、夜明け前の、一番暗い空が広がっていた。

「種子がどうして生まれたか、知ってますか?」

「…大戦中に帝国軍がその最終兵器とするために、生み出したんだろ?」
「それは、造られた理由です。僕が言っているのは、生まれた理由のほう。知ってますか?」
「……さあ、知らねェな」
「僕も知らないんです」
「あァ?」
「どうして、生まれてきちゃったんでしょうね、僕達は」
 最初に言葉を寄こしたときのように、男はまた唐突に会話を仕掛けてきて、そしてそれを自らの言葉で、再び唐突に終わらせた。
 男の顔を見ても、何の感情も読み取れない。少しの間、窺うようにじっと見てみたが、諦めた。そして息をひとつ吸い込むと、煙を長く吐き出した。
「生まれてきた理由なんて、誰にも分からねェよ。種子だろうが人間だろうが犬だろうが猫だろうが、そんなもん分かってるヤツなんかいねェし、そんなこと幾ら考えたって意味がねェ」
「………」
「オレ達生き物はただ、生まれたからには、死ぬまでひたすら生きるだけだ」
「………」
「理由なんて、その中で幾つでも自分の勝手に作ればいい」

 他の奴らはどうか知らないが、オレはそう考えているし、事実、オレはそうやって勝手に作った“理由”に基づいて生きている。
 こんなことを言ったら、バルバはきっと怒るだろうが、その理由がそのまま、死ぬ理由になるのなら、本望だと言っても過言じゃない。

 部屋を軽く見回し、短くなった煙草を足で踏み消す。
 屋内で、しかも人の部屋で、褒められた行動じゃないが、灰皿がないので仕方ない。後でヘリングにでも掃除させればいい。
 
 ―――後があればの話だが。

 場違いと言えば酷く場違いなことを至極冷静に考えていると、男が少しだけ笑ってオレを見た。
「マリアが言ってた通りだ」
「あン?」
「向こうにいる時、マリアがよく話して聞かせてくれたんです。“シューちゃん”はとても頭がよくて、大抵のことに答えを見つけられる人だって。ニコチン中毒だけど」
「…最後のは余計だろ」
 眉間に皺を寄せ、そう答えながらも。
 こっちを見てそう語る口調の中に。その赤い目の中に見えたものに。
 なるほどなと、思った。
 それは声には出さず、代わりに違う言葉を選んで、声にする。
「マリアは、知ってンのか…? このこと」
 予想通り、その問いに、男はふっと薄い微笑を浮かべてみせた。
「…マリアは勘が鋭いから……。貴方と一緒です」
「オレは勘が鋭いんじゃねェよ。目に映ったものをそのまま見てるだけだ」

 目に見えるものだけが真実だとか言う気は更々ないが、オレは自分の目を信じている。
 三年前、業火の中に崩れ落ちたゼイオンの姿。
 マリアが三年ぶりにやってきた晩、この男の話をした時に見せたあの寂しげな微笑。
 まるで庇いあうかのように、互いに寄り添いあう、二人の様子。
 突如銃声が響き、駆けつけた隊舎の中、目にした血生臭い光景。
 床に壁に、重なるようにして倒れていた、アトレイユの特殊部隊の男達の姿。

「何を考えてんのか知らねェが、やめとくこったな」

 全員、血に塗れて意識を失っていたが、全員、息があった。
 致命傷を負っている人間は、誰もいなかった。

「テメェじゃ、ゼイオンにはなれねェ。ヤツみたいに全てを憎むには、性根が、優しすぎる」

 マリアのことを語るその口調の中に見えた、愛情。
 マリアを思い浮かべたその目の中に見えた、哀しみ。

 事の全貌を知るにはピースが足りないが、だが恐らくそれが、すべての答えに繋がっているはずだ。


 オレの言葉に男がこちらを見たまま、さっきと同じように、ふっと、薄く、微笑んだ。
 そうしてふいと、その目をまた窓の外に移すと、徐々に白み始めた空に向かって話しかけるように、ゆっくりと口を動かした。
「もうすぐ夜が明ける」
「………」
「部屋の外で指示を待ってる人達を連れて、一度本部に戻ってくれますか?」
「…断ると言ったら?」
「貴方は断らない。マリアがよく言ってました。“シューちゃん”は、“ゲジゲジ”を筆頭に仲間のことを自分の命より大事にしてるって。そんな人が仲間をみすみす死地に立たせたるわけがない。僕がいることを知った上で、この部屋に一人で入ってきたことが、その証拠だ」
「………」
「戻って貴方達の持ちうる限りの力で戦えるよう、態勢を整えて来てください。僕みたいな出来損ないでも、種子は種子ですから。生身じゃ、例え百対一でも勝ち目はないですよ」
「……それがお前の目的か?」
「目的?」
「ヤツのようにあくまでも抗い『種子』として殺されること、そのためにヤツの名を騙ってリムシティにまで来たのかって聞いてんだ」
「………」
「………」
「……違いますよ。僕がこの街に来たのは、」


「マリアを殺すためです」


「…な」
「もう行ってください。時間が、ないんです」
 すぐには二の句が次げなかったオレの横で、男が前を向いたまま、ゆっくりと片手をあげ、部屋の片隅を指差す。
 そこにあったものに、思わず、目を見張った。
「C-4。知ってますよね? プラスチック爆弾。手のひらサイズだけど、鉄筋コンクリートの建物くらいなら、これひとつでも簡単に壊せるはずです。なんせアトレイユの特殊部隊が、僕を始末するために用意したものですから」
「……テメェ…、まさか…」
 言いながら、不自然な程に頭が冷えていくのが分かる。
 握り締めた拳に、イヤな汗が滲む。
 ゆらりとこちらに顔を向けた男の、その白い顔にはもう、何の表情もなかった。
 ただ、白目まで全て、ぞっとするほど真っ赤に染まった眼球が、異様な虚さで、オレを見上げていた。

「この建物に仕掛けた爆弾は、全部で十四個。内五個が、夜明けと同時に、一斉に爆発します」




(NEXT⇒グリムの見た夢)

「LIKE A FAIRY TALE」 20

2012-06-19 17:51:49 | 小説「Garuda」御伽噺編
20.【 それは別れのための 】   (ファルコ)


 ある意味とても衝撃的な言葉に、俺の思考は完全に停止していた。

 いやいや、俺だってそこら辺のウブな機械オタクとかじゃあるまいし、今更こんなことくらいで、うろたえたりする程青くはない。
 大体それこそ、マリアの“好き”なんて、三年前には殆ど挨拶代わりみたいなもんで、一時間に一度くらいの頻度で聞いていたわけで。
 ……なんだけども。

 目の前のマリアが、その気配が、あまりにもひたむき過ぎて、その剥き出しの感情に、俺の中の何かが異常に反応してしまっていたのだ。


「ファルコ」

 マリアの呼びかけに顔を向ける。
 今声を出したら、情けないほどに掠れてしまいそうな気がして、とりあえず目線だけ返しておく。
 マリアはそれを確認すると、少しだけ笑った。
 眉を寄せて困ったように。でも、どこか、安心したように。

「ホントはネ、もう二度と、言わないつもりだったネ」

 話し始めたマリアは、とても強い瞳をしていた。
 あの胸やけでも起こしそうなそんな顔じゃなくて、初めて会った時から何度も見てきた、マリアの心の強さを丸々表しているような、真っ直ぐな瞳。

「でも考えてみれば、ファルコに気を遣って得したことなんて一回もないし、今更変な気を遣うのも何だかアホらしくなってやめたネ」

 ………うん。口調や態度は相も変わらず、変わってはいないけれど。

「ファルコ」

 もう一度、目線だけで返事をする。

「ファルコ、私ネ。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、あの日ファルコが、帝国の研究所で私の前に現れたこと、あの島でもう一度出会えたこと、全部、運命の神様に感謝してるネ。ファルコに会えたから、私の人生は報われたヨ」

 ―――なんだ?
 マリアの口調に、言葉に、じっとりと嫌な焦りがまた出てきて、眉間に皺が寄っていくのが自分でも分かる。

「私の神〈マスター〉がファルコだったことが、好きになった人がファルコだったことが、私の人生で一番の誇りネ」

 こんなに近くにいるのに、もう手が届かない気がしてならないのは、どうしてなんだ?

「ファルコ。ずっとずっと、好きだから。私はずっと、ずっと大好きだから。ファルコの中の隅っこでいいから、どうか覚えていてネ」

 笑っているマリアが、本当は泣いているような気がしてならないのは、どうしてだ?

「ファルコを選んだことが、私の誇りだったから……。だからファルコ、ありがとう。生まれてきてくれて。生きていてくれて。あの時、私と出会ってくれて。一緒にいさせてくれて。傍に、いてくれて。本当に、本当にありがとう」

 この頭の中の警報は、何に反応している?

「沢山守って貰ったネ。沢山助けても貰ったヨ。いっぱいいっぱいファルコから、貰ったネ」

 マリア?

「ホントに、ファルコが大好きネ」

 沢山の焦りを払拭するように、マリアは見たこともないような顔で笑って言った。


「愛してるヨ、ファルコ」


 そう言うのとほぼ同時に、歓楽街から遠く離れた、街の中心部にある第三機動隊基地から、爆発音が上がる。
 その音の方向には決して顔を向けずに、マリアはもう一度、困ったように笑った。
 小さく「時間切れネ」とだけ言って、マリアはもう一度、笑ってみせた。

 鳴り止まない鼓動が、酷く、五月蝿い。

 マリアはようやく、後ろの、機動隊基地の方へと視線を向ける。
 いつのまにか、昇りかけていた太陽の光に反射して、マリアの瞳がきらりと煌く。

 いつだったか、琥珀玉のようだと言ってやったことのある綺麗な瞳。

 
 俺のそれを真似た金の双眸。俺がこいつの神〈マスター〉である、その証。
 こいつの瞳が光を映して輝くたびに、あの時の、少し照れたような、嬉しそうな顔を思い出した。
 俺とはまるで違う、澄んだ金色を見るたびに、俺がこいつに背負わせてしまったものを思って、理不尽な世界を罵った。
 そして同時に、何度も何度も責め付けられている気がしていた。
 自分が犯した罪を。
 
 一番の、罪を。



「マリア」

 名を呼ぶと、マリアはゆっくり振り返った。
 そのまま、ただじっと、こちらを見る。

「ファルコ、ごめんネ。時間切れヨ。……もう、行かなきゃ」






 俺の答えを聞く前に、マリアはそのまま立ち去った。
 その直前に、マリアが口にした言葉に、改めて悪寒が走る。


 それは、『バイバイ』でもなく、『またネ』でもなく。

 それは、


 『 さよなら 』だった。





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「LIKE A FAIRY TALE」 19

2012-06-19 17:50:34 | 小説「Garuda」御伽噺編
19.【 ビクトリアルな言葉 】   (マリア)


 ファルコ。
 この名前は私にとって、何よりも特別な意味を持つ、大切な言葉で。
 そして、三年ぶりのこの街で彼を見た時、どうしても口にすることが出来なくなった言葉だ。

 その名前を口にした私が、どうなるか、私は知っていたから。


 ラビに言われて、トゥルーに背中を押してもらって、ひたすらに夜の街を駆けていく。
 目指すはただ一人。
 強くて温かい気配。
 私がこの世で唯一絶対に取り間違うことのない、その気配。
 たとえこの目が色だけじゃなく光まで失ったとしても、きっと、彼だけは分かる。
 きっとどこにいても、感じることが出来る。
 見つけられる。

 ダンっと勢いよくビルの屋根から飛び降りて、路地を走る。その先に微かに感じる彼の気配。
 本当はずっと、会いたかった。
 もう二度と会わないと決めた、その心の奥で、いつもいつも、想ってた。
 会いたくて、会いたくて、会いたくて、想わない日なんか、一日だってなかった。

「ファルコ……ッ!」

 見えた瞬間、どうにも止まらなくなって、気がついたら叫んでいた。
 ファルコの前で足を止めて見上げると、そこには三日前と同じように、寄り添うように隣に立つツバキさんがいて、そんな二人の姿に少しだけ挫けそうになる。
 だけど、今日だけは。どうか、少しだけ。

「ツバキさん、少しだけ、」
「私は先に行くわね」

 私の言葉を遮って、ツバキさんは笑った。
 じゃあね、ファルコ。とだけ言うと、ツバキさんはくるりと向きを直して、そのまま歩き出す。
 そんなツバキさんの後姿に小さくお礼を言って、去っていくツバキさんを眉を顰めて見ているファルコに呼びかける。

「ファルコ…」
「あ?」
「ファルコ、ファルコファルコファルコ」
「…マリア?」
「ファルコ…ッ」

 止まらなくて。
 何度も繰り返しても、呼び足りなくて。
 私にとって、何より大切な言葉だったから。

 例えば、辛くて何もかもがイヤになりそうな時、私はこの名前を唱えた。
 例えば、寂しくて哀しくて泣きたくなった時、私はこの名前に慰められた。
 例えば、笑えるくらい楽しいことがあった時、私はいつもこの名前に語りかけた。

 何千、何万回と、心の中で、ずっと呼びかけてきた。
 この名前を持つ、大切な人へ。
 増え続けるばかりの想いを、そこに込めて。


 だから、呼べなかった。
 名前を呼ぶ、それだけで、閉じ込めておかなきゃいけない想いが、溢れ出てしまいそうで。
 だってもう私の体は、ファルコを好きだという感情でパンパンになってしまっているから。
 名前を呼んだら最後、溢れ出してもう止まらなくなってしまうんじゃないかって、そしてまたこの人を傷つけてしまうんじゃないかって、それがすごく怖かったから。

 こうして考えてみれば、私は酷く間抜けで、思いあがりの勘違いヤローだ。
 私のこんなくだらない、バカみたいな行動に、この人が気づかないはずがないのに。
 私のこんな、こんな小娘の気持ち一つで、この人の心を傷つけるなんてこと、出来るわけもないのに。

 ラビは正しい。
 あの日のことを思い出すたびに感じた、あの胸の痛みはきっと、私自身の心の痛み。
 何だかんだ言っても、望めばいつだって手を差し伸べてくれたこの人に、初めて突き放されたその事実に、傷ついた心の痛み。
 この人を傷つけたくないと言いながら、私は誰より自分が傷つくことを怯えていたのだ。

 だけど、もう、これが最後なのだから。

 もう、怯えたりしない。弱くて臆病な自分から逃げない。
 誰のためでもなく自分のために、この最初で最後の恋を、私は全うしてみせる。

 本人を前に尚更強く、ファルコを好きだと想う、その気持ちに共鳴するみたいに涙が溢れてくる。
 好きだと感じれば感じるだけ、涙が溢れて止まらない。
 この三日間で、私はこの三年間を全部合わせたよりずっと、沢山の涙を流している気がする。
 ああ、どうしよう。こんなに泣いてちゃ、まともに話せない。
 そう思うのに、涙を止めることが出来ない。

「どうした、マリア? 何があった?」

 ファルコの優しい声がする。
 涙で、いい加減グシャグシャの顔を上げ、ファルコの顔を見ながら、もう一度ゆっくりとファルコの名前を呼ぶ。

「ファッ…、ファル、コ」
「…ああ。何だ、マリア」

 あぁ、本当に。本当に、ファルコ、だ。
 いつだってちゃんと、ファルコはこうして待っていてくれる。
 どんなに私が遠回りしても、きちんと答えに辿りつくまで、ちゃんとファルコの元に辿りつくまで、優しく待っていてくれる。
 三年前と、ううん、あの島で初めて会った日から、少しも何も変わらない。

 やっと少しだけ笑うことが出来て、その拍子に零れた涙を慌てて拭う。
 ファルコは、なんだよと言いながら、こっちを見つめている。
 その視線を感じながら、もう一度顔を上げようとしたときだった。




 ―――――――― キ タ 。




 下半身の感覚が一瞬消えうせて、全身に冷や汗がどっと噴き出す。
 どうやら、自分の体の限界がもう、本格的に近いらしい。
 時間切れまで、あと少し、だ。
 思わず漏れそうになる呻きを、グっと飲み込んで、ファルコの顔を見る。

 あと少しでいい。

 これだけ言えれば、もう。


「本当にどうしたってんだ? マリア」
「……ファルコ」
「何ですか、マリアちゃん?」
「好き」

 言った瞬間のファルコの間抜け面は、後世まで語り継がれるべきものだったと思う。
 それくらい面白い顔をしていた。
 そんな場合じゃないのに、私は笑いを抑えるのに、結構真剣に苦労した。
 気が付くとその雰囲気を察知したのか、ファルコはこっちを睨んでいた。

「………マリア。てめぇ、人をおちょくって遊ぶのも大概にしろよ」
「違うヨ。でもファルコ、お笑い芸人並みにいいリアクションだったネ」
「何なんだよ、お前は……。あのなぁ、俺はこう見えても、筋金入りのシャイなあんちくしょうなんだ」
「うん、知ってるネ」
「だったら、からかって遊ばないでくれる?」
「遊んでなんかないネ。本気で言ってるのヨ。私は、ファルコが、好き。今もずっと、ファルコのことが、世界で一番好き」

 今度は、はっきり一語一語区切って、しっかりと言ってみる。

 ……どうやら完全に、ファルコの思考は止まってしまったらしい。瞬きすら忘れてる。
 そんなに三年ぶりの“好き”は、驚きだったのだろうか。
 こんな顔、なかなか見られるものじゃないから勿体無いとも思うけれど、時間がないのだから、仕方がない。


 もう一度ファルコを、その姿を、目に焼き付けるように、しっかり見据える。

 あの綺麗な金色を見られないのが、ちょっと残念だけど。
 出来ることなら、最後にもう一度だけでも、笑った顔が見たかったけど。

 でも、あの辛そうな顔じゃないだけ、全て良しと、満足しておこう。


 明るくなりだした東の空に、少しだけ目をやって。
 震える手を強く握り、歯を食いしばる。

 これが、私の最後の我侭。
 ただ、ただ、ファルコに伝えたいだけという、我侭でしかない、私の最後の願い。



 ねぇ、ファルコ?

 本当に、本当に、好きだったヨ。

 いつも、いつのときも、心の全部で、アナタを、大好きだったヨ。




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