硝子のスプーン

そこにありました。

「LIKE A FAIRY TALE」 18

2012-06-19 17:49:41 | 小説「Garuda」御伽噺編
18.【 イヴは最初から知っていた 】   (ツバキ)


 出来ることなら男に生まれたかったと思ったのは、一度や二度のことじゃない。
 女だからこそ出来ることだってあるのは、分かっているけれど。


 派手なだけで冷たいネオンの光を浴びながら、隣を歩く人を見上げる。

 ここのところ、随分とまめに店へ迎えてきては家まで送ってくれる。
 今日だって、仕事が終わって外に出ると、この人は明後日の方向を見ながら待っていてくれた。
 少し冷えた手が今店に着いたわけではないことを語っていたけれど、それでも、偶々通りかかっただけだと言って譲らないこの人を、私はやっぱり愛しいと思ってしまう。

 いつからだったろう。
 はじまりは、私に纏わりついていたストーカーを撃退するために、ボディガードを頼んだだけのことだった。
 なのに、いつのまにか、この人とこうやってただ一緒に歩いたり、ご飯を食べたりすることが、私の中でとても大事なことになっていて。
 いつのまにか、この人が笑うたびに嬉しくなって、この人が悲しい顔をふと見せるたびに、胸が締め付けられるようになっていて。
 本来の目的はとうの昔に達成されて、もうボディガードは必要ないのに、気がつけば私は、この人のぶっきらぼうで優しい手を離せなくなってしまっている。

「どうした?」
 上から降ってきた声に顔を上げる。私のことなんて気にしていないとでも言うような顔をしているくせに、目だけがとても真面目にこちらを見つめてくる。
 この人の目は、私だけじゃなく、ガルーダの皆や他の人にも、同じように優しいのだろう。
 最後には必ず助けてくれると信じてしまう、彼の優しい瞳と力強い手を、私は知ってしまったのだ。
「どうしたって、何がかしら?」
「いやお前、ここに思いっきり皺が寄ってるぞ?」
 ここに、と言いながら彼は、自らの眉間をとんっと指で叩き、こちらを見ている。眉間に皺を寄せながら、目尻を下げているその顔が何だか可笑しくて、噴き出しながら、何でもないと彼に返した。
「なんだよ、もう心配しねぇかんな」
 噴き出したのがどうも彼の気に障ったようで、ブツブツと口を尖らせながら、彼は私の一歩前を歩いていく。
 その後姿に目を細めて、肩から掛けたバッグの柄をきゅっと握った。

 彼がここのところ、深夜にこうして店まで迎えに来てくれる理由を、私は知っている。
 三日前、突然、本当に突然、帰ってきた少女。……いや、もう少女のそれとは違い、彼女は立派な女性になろうとしていた。
 その彼女が現れて、私達に言ったこと。
 意味がよく分からなかったけれど、夜は一人で歩くなと彼女が言ったその言葉を受けて、彼は私を守ってくれている。

 だけど、それはきっと――――。


「三年前…」
 つい、ぽろりと言葉が漏れる。
 慌てて口を閉じたけれど、どうやらそれは彼の耳には届かなかったようで、目の前を行く彼は振り向くことなく、歩みを止めることもなかった。

 三年前。
 三日前と同じように突然消えてしまった少女。
 ガルーダの誰に訊いても、アトレイユの遠い親戚のところに行ったとしか教えてもらえなかったけれど。
 一度だけ、目の前を歩く彼に尋ねたことがある。
 一体何があったのだと問うた私に彼は、お酒のグラスから目を離すことなく、ただ一言、「何もなかった」と、答えた。
 それ以上のことを、私は知らない。
 彼の言葉は全くの真実でもないだろうけど、嘘でもないような気がして、それ以上何も聞けなかったのだ。
 そのうちに、最初は彼女の不在に疑問を投げかけたり、寂しさを訴えたりしていた街の人達も自然と、彼の前では彼女の話をしなくなって、ガルーダの皆でさえ、たまに会っても、彼女の名前を口にすることはしなくなっていった。
 ちょうどその頃だった。
 ストーカー行為が激しくなって、困り果てて、私が彼に依頼を持ち込んだのは。
 そうして気がつけば、依頼が無事解決した後も、私と彼は自然とよく一緒にいるようになっていたのだ。

 二人でいると、彼はとても優しかった。
 勿論、言葉や態度は昔とそんなに変わらないけれど、その瞳や差し伸べられた手はとても暖かくて。

 とても、優しかった。

 私達の間に何かあったかと訊かれれば、私はあの日の彼のように、何もなかったとしか答えることが出来ない。それは彼にしてみても同じだろう。
 実際、本当に何もないのだから。
 ずっと以前のように、仮初に体を重ねることも、軽い戯言のような上辺だけの甘い言葉を交わすことも、一度も無かった。
 でも、彼の手は以前よりずっと優しくて、ずっと、暖かくて――――。
 何かしらはきっと、私達の間に生まれていた。
 そう信じてる。

 だから、


「おい?」
 彼はいつの間にか私の前に戻ってきていて、さっきと同じあのおかしな顔で、こちらを見ている。
 私はどうやら考え事が過ぎて、足が止まっていたようだ。
 先ほどから一向に変わっていない周りの景色が、それを物語っている。
 ぼんやりと彼を見つめていると、空は晴れているはずなのに、水滴が私の頬を伝って落ちていくのが分かった。
 それを見た彼はぎょっとしながら、「どうした?」と、訊いてくる。
 その心配する顔に胸が詰まって、何でもないと、言葉にすることも出来ず、ただ首を横に振るのが精一杯だった。
「ツバキ?」
「……何でもないわ、…大丈夫」
「何でもないヤツが、いきなり泣くのかよ」
「…女心は複雑なのよ。男と違って、ね」
 そう言って顔を上げると、彼は思いっきり怪訝な顔をしていた。
 スンと鼻を鳴らしながら、正面から彼の顔を見つめ返す。

 いつのまにか、彼がかけがえのない存在になってから、その瞳の中にずっと探し続けてきたもの。

 物心ついてから、いつもいつも願い続けてきたもの。

 彼はきっと否定するだろうけど、彼のそれは、三年前、彼女が持っていってしまっていたのだ。
 三日前のあの日、彼の顔を見て確信した。
 彼女を見つけた瞬間の、あの、まるで迷子の子供がやっと帰る場所を見つけたような、そんな顔。
 そんな……、あんな、表情。

 それは言葉にすれば酷く陳腐で、この界隈ではあらゆる場所で囁かれているものだけど。

 それでもずっと、探してきたもの。

 彼も同じだったら、少しは救われていたのに。彼にとってのそれは、ずっと、彼女だけにしかなかったのだと分かってしまった。
 
 そう。きっと、そう言えば、彼は否定するだろうけど。
 きっと彼は、ずっと、待っていたのだ。

 私が女じゃなかったら、何も気づかないまま、鈍感に時を過ごせたかもしれないのに。
 私は、女で。
 男の彼を、愛しいと、そう思ってしまったから。
 だから、気づいてしまった。

 そういう意味合いで私に一度も触れなかったのは、冗談でも甘い言葉を一度も言わなかったのは、そこにずっと彼女がいたから。
 その心の奥でずっと彼女を、彼女だけを、渇望していたから。

 きっと、彼は何も気づいてはいないのだろうけど。
 言えばきっと、否定するだろうけど。
 こうやって私を守っているのも、彼女のため。
 彼女に関係することで万が一私に何かあったら、間違いなく彼女は傷つくから。
 彼女が傷つくことがないように、彼女を守るために、彼は私を守ろうとしているのだ。

 きっとそれは、思考で生み出された行動ではなく、きっと、そう多分、本能のようなもので。
 それほどまでに彼女の存在が大き過ぎて、そのあまりの大きさに、彼自身、それに気づけていないのだろうけど。


 それでも。

 そんなところですら、愛しいと思ってしまう、から。
 私達の間にも、それとは違うかもしれないけれど、確かに何かが生まれていたのだ。
 そうじゃなかったら、彼の手があんなに暖かかったわけもないし、優しかった彼の瞳の意味もない。


 だから、もう、充分でしょう?


 そう思うのに、言葉が前に出てこない。
 喉に引っ掛かった言葉は、そのまま絡まって胸の中に落ちていくだけだ。






「ファルコ……ッ!」



 突然、何処からか聞こえてきた声に顔を上げる。
 その声の主を探すためじゃなく、彼の顔を見るために。

 ―――やっぱり。
 今、鏡があったら、彼にその顔を見せてやるのに。
 そんな安心したような、情けない顔。

 ああ、でも、私はその顔を、三年前から知っていた。
 いつのまにか、自分に都合よく、忘れたフリをしていただけだ。
 そうだ。
 私は、初めから知っていたのだ。
 彼女を見るときの彼の瞳の中に、それが溢れていたのを。
 それがずっと彼女一人に向けられていたことを、最初から私は、彼よりも知っていたのだ。

 知って、いたのだ。


 引っ掛かった言葉ごと涙を飲み込んで、そうして私は、私達を終わらせてくれる彼女の存在を静かに待つ。
 彼の意識は、既にここにない。
 それを痛感しながら、彼を見上げて、口をそっと開いた。

『 行かないで 』

 声にはせず、心の中だけで呟いた言葉。
 これくらいは許して欲しい。

 優しい瞳と力強い手を知ってしまったけれど。
 それが誰のためにあるものだったか、思い出してしまったけれど。
 届きも敵いもしなかったけれど。

 だけど、これでもう、充分だから。

 この約一年半の間、共にいた私達にだって、得たものはきっとあったはずだから。
 この言葉はちょっとした、悪足掻きのようなものだ。

 寄り添い、時に手を繋ぎながら過ごした、暖かな日々への。
 その中で育んだものへの。
 ひょっとしたら、育ったかもしれないものへの。


 そして、

 私自身の、女心への――…、


 ―――――――――最後の、悪足掻き。






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「LIKE A FAIRY TALE」 17

2012-06-19 17:48:33 | 小説「Garuda」御伽噺編
17.【 あの日の僕らにバイバイ 】   (トゥルー)


 どうにかしなくちゃいけないと思っているのに、どうしたらいいのか全然分からない。
 それが今の僕の現状だった。
 おかげで昨日は、ろくに眠れなくて、目の下にクマが出来てしまった。

 マリアが帰ってきたあの夜。確かに感じた、あの奇妙な悪寒。
 それを確かめたくて、機動隊隊舎まで来たというのに、アトレイユの護衛官だか特殊部隊だか知らないけど、やたらゴツイ人達に邪魔されて、会うことも出来ないし。
 ただ実際、会えたとしても、どうしたらいいかなんて僕にもまるで分かってなくて、だけど考えれば考えるほど、じっとなんかしてられなくて……。結局、堂々巡りだ。苛々して思わず、ただでさえアトレイユの人の対応にキレ気味だったアンナに突っかかって怒らせちゃうし、一体何やってんだろ、僕は。
 いや、何やってんだって言うなら、僕よりファルコだ。
 マリアの様子がおかしいってちゃんと伝えたのに、相変わらずダラダラ寝てばっかだし(まぁそれはいつものことだけど)、そうかと思えば、こっちがプリンを買いに出掛けてる隙に、またいなくなっちゃってるし。三年前のファルコならきっと、マリアのために何かしらの行動を起こしていたに決まってるのに。
 と、そこまで考えて、「三年前」という単語の響きに溜息を漏らす。

 三年前とは確かに違う、今の僕ら。
 僕らはあの日、きっと、何かを失くしてしまったんだ。
 三年前のあの日まで、確かに在った、何かを。

 ふと空を見上げれば、十四夜の月が寸足らずな丸さで、地上を見下ろしていた。
 明日は旧世界の一地域の人達が「中秋の名月」と呼んでいた、一年で一番綺麗な満月の夜だ。ここ最近ずっといい天気が続いているから、明日もきっと晴れて、さぞ月が綺麗に見えることだろう。なんか、忌々しい。人がこんなに悩んでるのに。そんな暢気に光ってる場合か。
 なんて、月に八つ当たりしてみても仕方がない。はぁと大きく溜息を吐きながら、とぼとぼと道を歩く。夜が明ける頃にはファルコも帰ってくるだろう。ひょっとしたら酔い潰れているかもしれないけど、もしそうだったら、今度こそいつもの十倍、いや百倍くらいキツく小言を言ってやろう。

 でも、それ以上はどうしようもないのかもしれない。
 僕はマリアを可愛がっていたし、仲も良かった。今だって変わらず大切に思っているけど、でも、アトレイユの人達に囲まれて護られている今の彼女に、今の僕がしてやれることなんて、何もないのかもしれない。

 暗くなっていく思考を振り切るように、勢い良く頭を横に振る。
 ダメだ。
 こんなことを考えているようじゃ、本当に何も出来ない。
 顔を前に向け、拳を握る。

 だけどそれは気持ちばかりで、行動は結局、さっきから変わらず、意味なく隊舎の周りをウロウロするしか出来ていない。大体、僕はマリアの家族だと言っていい立場にあるのに、どうして少しの面会すら許されないのだ。おかしいじゃないか。何を考えてるんだ、アトレイユの人達は。
 憤りにフンッと思いっきり鼻を鳴らしたとき、隊舎の敷地を囲む鉄柵に空いた小さな穴を見つけた。
 いつテロリストに報復されるか分からないというのに、なんとまぁ無用心な。なんて、良識的な考えは即座に消えた。
 『一般人の面会はすべて禁止されている』なんて、アトレイユの人は言っていたけど、僕は一般人じゃない。彼女の「家族」なのだ。会う権利は絶対にある。というか、こうなったら何が何でも会ってみせる。肉体的運動はあまり得意じゃないけど、意地と根性があれば人間何だって出来る、はずだ。
 スレイとアンナを先に帰してしまったのはちょっと失敗だったかなと一瞬思ったけど、スレイじゃこの穴は通れないだろうし、アンナは騒ぎを大きくする天才だから、この場合いなくて正解かもしれない。
 急に早くなった動悸に再び拳を握ると、僕は身を丸め何とかその小さな穴から、敷地の中へと潜り込んだ。



「ラビッ!」

 潜り込んだ敷地の中で、木や茂みの影に身を潜めてうろつくこと、数十分。幸い、誰に見咎められることもなかったけど、逆に軽く迷子になりかけていた僕は、聞こえてきたその悲鳴のような声に、瞬時に反応した。
 マリアだ。僕が間違うはずがない。あの声は、マリアの声だ。

 茂みの中から、そっと周りを窺う。と、僕が隠れている場所から存外近い場所に、マリアはいた。
 マリアの後ろのベンチに座っているあの白髪の人は恐らく、マリアと一緒に来たとかいう、もう一人の種子なのだろう。そうだ、昨日マリアは確か「ラビ」と、彼のことを言っていた。

 ゆっくりと、そのラビくんが、マリアに向かって笑った。
 そして酷く穏やかな声で、マリアに「約束をしよう」と呼びかける。
 その言葉に何故か、途端にマリアが、酷く怯えたような表情を浮かべた。

「違うって。そういう意味合いでの約束じゃない。ただの指きりげんまんの約束、だよ」

 そう言ったラビくんの声がとても優しくて、僕は完全に出ていくタイミングを失ってしまった。
 仕方なく、茂みの中に身を隠したまま、息を潜める。
 そっと二人を見れば、マリアは、今度は明らかに不審そうな顔つきになっていた。それにしても今日が十四夜で良かった。月が明るいから、二人の表情まで良く見える。ついさっき、月に向かって暴言を吐いてしまったけど、あれ、全部取り消します。ごめんなさい、お月様。

「何の約束ネ?」

 聞こえた声に、はっとして、慌ててマリアの方を見る。
 もうさっきの不審顔は消えていたけど、代わりにどこか緊張しているように見えた。

「僕とマリアの約束だよ」
「だから、何の約束ネ?」
「ちゃんと“ファルコ”に会って、ここに戻ってくること」
「………」
「会っておいでよ。それで思ってること全部伝えておいで。少しの心残りもないように」
「……心残りなんか、もうないって言ってるネ」
「嘘が下手なんだから、もう。顔に書いてあるよ。“ファルコ”が好きで、諦めきれないって」
「………」
「ねぇ、マリア。本当にもう時間がないんだよ。分かるだろう?」
「…っだったら! なんで今そんなこと言うネ…ッ!」
「君がマリアで、僕がラビだからだよ」
「?」
「マリアが大切だから、悔いなんか残して欲しくないんだよ」
「………今更、ネ」
「そうだね、今更だね」
「違うヨ…。今更、今更会いになんか行けないって言ってるネ」
「どうして?」
「会って、思ってること伝えて、今更何になるのヨ?」
「少なくとも、マリアの心に悔いが残らない」
「残るヨ!」

 そう叫んだマリアは泣いていた。
 震えながら、声を、絞り出している。

「もうどうしようもないのに、気持ち押し付けて、何になるっていうネ? また傷つけてしまうだけヨ。そんなの…やーヨ。それこそ悔いが残ってしまうだけネ」
「マリア…」
「私はもう、これ以上ファルコを傷つけたくない。だから、もう会わないって決めたネ。傷つけるだけだって分かってるのに、会うなんて出来ないヨ」
「……マリア、それは違うよ。マリアは思い違いをしてる」
「思い違い?」
「マリアは“ファルコ”を傷つけたくないんじゃなくて、自分が傷つきたくないだけだ」
「………」
「人の心はその人にしか分からない。心は体の一番奥にある、神聖なものなんだ。他の人に触れられるものじゃないし、他の人がどうこう出来るようなものでもない。だから、誰かの心を自分が傷つけたなんて言うのは、傷つけたと思ってる人の思いあがりだ。傲慢だよ」
「でも…」
「“ファルコ”は強い人じゃなかったの? マリアに自由と世界をくれた、強くて優しい人だって、言ってたじゃない。僕達みたいな存在に、そこまで出来る人はそうはいないよ。アトレイユでの生活で、マリアにも分かったはずだ。彼がどれだけ優しい人だったか。どれだけ強い人だったか。そんな人の心を、たかだか十八歳の女の子の気持ち一つで簡単に傷つけられると本当に思ってるのだとしたら、それはマリアが彼を見くびってるってことだ」
「………」
「会っておいで、“ファルコ”に。それで傷つくなら、思いっきり傷つけばいい。思いっきり何かが出来るなんて、これが最後かもしれないんだから」
「……でも、今会ったら…、もう一回でも顔を見たら、私、きっと、止まらないネ」
「止まらない?」
「…ひょっとしたら、怖くなって、そのまま逃げちゃうかもしれないヨ…? だから、行かないネ。それに今、ラビを独りであの人達の所に残して、どこにも行けるわけない」
「だから、そのための約束なんだよ。本当は、マリアがそうしたいなら、そのまま逃げちゃってもいいんだ。マリアならもしかしたら、どうにかなるかもしれないし。だけど、僕がいる限り、マリアはそれが出来ないだろう? 今、僕を残して逃げたら、もし奇跡が起こって助かったとしても、マリアはずっと悔やむだろう? 絶対に。さっきも言ったように、僕はマリアには悔いてほしくない。だから、約束」
「…約束?」
「そう、約束。マリアはファルコに会って、ここに戻ってくること。僕はギリギリまで持ちこたえて、限界までマリアを待つ。それを約束しようって言ってるんだ。それが、マリアの歯止めにもなるだろ?」
「…………」
「マリア?」
「…でも、やっぱり行けないヨ。今行っても迷惑になるだけネ。私がここを離れたのは三年も前のことで、今更私が会いに行ったって、ファルコだってもう…、」
「行ってきなよ」

 気がつくと僕は茂みから出て二人の前に姿を出して、マリアの言葉を遮っていた。
 二人の表情から、僕の登場が全くの予想外だったと知る。正直僕だって、予想外だ。でも、どうしても、声をかけずにはいられなかった。

「行ってきなよ、マリア」
 同じ言葉を繰り返しながら、二人に近づく。
 大きく開いたマリアの目からは、まだ涙が毀れていた。
「ファルコの都合なんか、考えるだけ無駄だよ。忘れちゃったの?」
「…トゥルー」
「マリア、僕ね。ずっと考えてたんだ。三年前、違う道を選んでたら、何か違ってたのかなって。だけど、考えても考えても分からないんだ。この僕が、クマが出来るまで考えて分からないなんて、有り得ないけど。だけど、考えたって意味がないんだって、今やっと分かった」
「………」
「あの日の選択によって、僕らは確かに三年間別々になった。でも、ただそれだけのことだよ。仮に違う道を選んでいたとしても、その結果違ったことなんて小さなことでしかないんだ。だって、それによって三年前の僕らが消えてなくなるなんてことは、絶対にないんだもん。どの道のどの未来に立とうと、その結果、どれだけ環境や状況が変わっても、僕らが一緒だったあの日々は消えない。そんな薄っぺらいものなんかじゃ絶対になかったって言いきれる自信が、僕にはある」
 言いながら、ゆっくりとマリアに近づいていく。
 マリアは、あの、真っ直ぐな瞳でこちらを見上げていた。
「ねぇマリア。この三年間、僕らはずっと会ってなかったから、ちょっとした変化に戸惑ってしまったけど、そんなものに何の意味もないんだよ。あの頃も今も、僕らは僕らであることに違いはないんだから」
「………」
「この三年で、マリアにとってのファルコが他の誰かに取って代わったわけじゃないみたいに、ファルコにとってのマリアだって他の誰にも代えられる存在じゃないはずだよ? そりゃ確かに三年経ってるわけだから、何もかも昔のままってわけにはいかないかもしれない。だけど、どんなファルコでもマリアから見たら、ファルコはファルコでしかないでしょう? 同じようにファルコから見たら、どんなマリアでも、マリアはマリアだよ。根本的なものは何も、ひとつも変わらない。僕にとってのマリアが、三年経った今も変わらず、小さな可愛い妹であるのと同じようにね」
「…変わらない、カ…?」
「変わらないよ。マリアの周囲は確かに変わっちゃったかもしれないけど、そんなの僕らには関係ないよ。たとえマリアが、闇の帝王とかになっちゃったとしても、僕にとってはずっと、マリアはマリアだから」
「ていおう?」
「もしくはプリン王国の女王でもいいよ」

 そう言ってやると、初めてマリアはくしゃくしゃな顔で笑った。それを見て、僕もつられて笑う。
 僕らはみんな(あ、鈍感女王は別にして)、共にいなかった三年間に気を遣いすぎていたのかもしれない。
 本当は今みたいに、ちゃんと向き合えば、そしてちゃんと顔を見て笑い合えば、それで良かっただけなのに。
 三年間なんて、気にすること、なかったのに。

「行ってきなよ、マリア」
 もう一度念を押すようにそう言うと、マリアはまだ少し躊躇するように眉を顰めた。
「いいんだよ、マリア。ファルコに気を遣うだけ無駄だって。それこそ今更だよ。忘れちゃったの? 君ら二人、涎を掛け合いながら昼寝してたことだってあるし、晩御飯のおかずのことで本気の喧嘩してたことだってあるんだよ?」
「…でも…」
「それにマリア、散々あのダメ人間に苦労かけさせられたじゃん。夜中に酔っ払って玄関でぶっ倒れてるの、何回ベッドまで運んでやった? マリアがちょっとくらい我侭言ったって、甘んじて受ける義務があるよ、あのバカには」
 そこまで言って、僕はちょっとだけマリアから目を逸らした。
 これはちょっと、まともに目を合わせたままでは、何となく、気恥ずかしくて言えないのだ。
「…あ~……、それに、さ。ファルコなら、どんなことでも受け止めてくれるよ、きっと。あの人、ああ見えて強いしさ。そりゃダメなところもめちゃめちゃあるけど、でも、いつだって僕らのことは……、特にマリアのことは、きちんと受け止めてくれるよ。あの人は」
 それを一番信じてたのは、マリアでしょ? そう言いながら、マリアの方を向く。
「…うん」
 そう言ったマリアは、さっきよりずっとくしゃくしゃな顔で笑っていた。
 涙を乱暴に拭き取りながら、もう一度確認するようにマリアは笑った。

「ラビ。約束」
 ゆっくりと後ろに下がりながら、そう言ってマリアが、左手の小指を持ち上げる。
 横にいたラビくんも、笑いながら右手の小指を上げた。
 それを見届けると、マリアはラビくんから僕に目線を移して、「トゥルー、ありがとネ。機械オタクでも大好きヨ!」と、名誉に思っていのか不名誉なのかよく分からない台詞を一言残して、ひらりと身を翻した。

「おいっ、待て! どこに行く! 止まれ!」

 途端にどこからか、焦ったように出てきたアトレイユの人達がそう叫んで、その後を追おうとしたけれど、マリアの俊足に追いつけるはずもなく。
 マリアは自分の背丈の何倍もある鉄柵をいとも簡単に、ひょいと飛び越えていく。
 それを見送りながら、僕はもう見えない彼女に向かって手を振り続けた。
 アトレイユの人達が何か大声で喚いていたけれど、それは全部無視して、そこに残った蜃気楼のような彼女の影に、僕はずっと手を振り続けた。


 大事なことは、きちんと彼女と向き合うことだったのだ。
 三年前のじゃなくて、この三年間のでもなくて、今の彼女と。

 やっと分かった。

 僕らが三年前に失くしたもの。
 それはきっと、先に伸びていこうとする気持ち。

 三年前に別れたことを悔やんで、あの頃は良かったね、なんて思ったって過去は過去で、もうどうしようもないことでしかなかったのに。
 僕らが生きていくためには、先に、先に、伸びていかなきゃいけなかったのに。
 思い出ばかりを大事にして、僕らは、それを忘れてしまっていた。

 だから、僕は手を振り続けた。

 楽しくて、騒がしくて、まるで家族みたいだったあの頃の僕らに向かって。
 もう二度と戻れないんだと、何度も自分に言い聞かせながら。
 もう一度、マリアとファルコ、それにスレイやアンナや僕や、みんなで、ああやって笑い合うために。


 横にいたラビくんが一礼して、アトレイユの人達と一緒に去っていった後も、騒ぎを聞きつけた機動隊の人達がやってきた後も、僕は彼女が行った先を見つめ続けた。

 いなくなった僕らに向かって。

 家族みたいで、ただ、楽しくて、騒がしかった僕らに向かって。


 そっと、

 別れを口にしながら。




(NEXT⇒イヴは最初から知っていた)

「LIKE A FAIRY TALE」 16

2012-06-19 17:47:27 | 小説「Garuda」御伽噺編
16.【 指きりで約束を 】   (ラビ)


 リムシティに来てからこっち、ずっと快晴が続いている。
 折角ここまで来たのだから、叶うものなら、マリアが育った街を色々見ておきたかったのだけど、太陽はどうあっても僕には味方してくれないらしい。
 夜は昼と違って、ある程度まだ自由に動けるけど、その分監視が厳しくなるから、結局僕がこの街の様子を見られたのは、移動のための車の中からだけで。それでも、アトレイユのあの隔離された小さな世界しか知らない僕にとっては、見るもの全てが新鮮な驚きと興奮に満ちていた。
 きっと、島から初めてこの街に来たときのマリアも、こんな気持ちだったのだろう。まだ小さかった彼女が目を輝かせて、街のあちこちを駆け回る姿が容易に想像できて、その姿を思えば思うほど、胸が痛い。
 この環境で育った彼女にとって、アトレイユでの生活がどれだけ残酷なものだったか分かるから。


 窓から差し込む月明かりの中、ベッドに腰掛け、少しずつ近づいてくる気配にそっと瞼を閉じる。


 僕がこの街に来て一番驚いたことは、人口の多さでも建物の高さでもなくて、人の温かさだ。
 ゾロさんを初め、ここの隊長さんや副隊長さん、その部下の隊員の人達も、みんな驚くくらい、温かい。ついさっきまで、面会を要求して階下で粘っていた“ガルーダ”とか言う空賊の人達も。
 誰もが彼女が普通ではないことを知っていて、それでも、誰もが普通ではない彼女のために心を砕いている。
 彼女がこの街で、あんな人達に囲まれて育ったことは、本当に奇跡だった。
 そして多分、一番の奇跡は―――――。


 すっと音もなく、開かれた窓を振り返る。
 月光に白く光るカーテンの向こうから現れた人を、座ったまま笑って迎えた。
「おかえり、マリア」
「…ただいま」
 そう答えて、静かに微笑むマリアのその姿に、終わりが近いことを見て悟る。
 種の崩壊から今日で、ちょうど七日目。
 普通に考えたらもう、立つ事だって無理でもおかしくないのに、よく五階の窓から誰にも見つからずに出入りできるものだ。やっぱり、僕とは全然違う。
「またこんな無茶して。抜け出すならせめて僕に一言言ってからにしてって、前の時に言わなかったけ?」
「うん、ごめんネ…」
「まったくもう。あの人達の目誤魔化すの、結構大変なんだからね」
「……ごめん」
 今このときも恐らく、ドアの向こうで息を潜めて見張っているだろう人達のほうへと、視線をちらりと投げてそう言った僕に、マリアが小さくなって俯く。
 その姿に小さく笑みを零して、ベッド脇に置いていた紙袋を取って、差し出した。
「はい、これ。マリアの“ウチ”からの差し入れ。プリンだって」
 途端、マリアがぱっと顔を上げ、目を僅かに見開いて僕を見る。
「ウチ…って、みんながここに来たのカ?」
「うん。マリアの話通り、賑やかな人達だね。僕は建物の中からしか見てないけど、なんか、門前払いしようとしたアトレイユの人が、女の人から派手に殴られてたよ」
「そっカ…」
「ごめんね。中身、ちょっと崩れてるかもしれない。多分、アトレイユの人達が調べまくってるだろうから」
「うん…」
 頷きながらも袋を開けることなく、マリアが酷く大事なものに触れるように、それを胸に抱きしめる。
 その表情を見ながら、もうひとつの贈り物を指差した。
「それから、あれも」
「え?」
 僕の指先を辿って、マリアがテーブルの上の花瓶に生けられた花に目を留め、一瞬、止まった。
「結構目立つから、一番に気づくと思ったんだけど」
「……部屋が暗かったから…。これも、みんなから?」
「…ううん。これは、副隊長さんから。あのテロリスト達のことでなんか報告があったみたいなんだけど、まさかいませんなんて言えないし、仕方ないから、具合が悪くて寝てますって言ったら、暫くしてお見舞いだって、それ持って来てくれたんだよ」
 吸い寄せられるように、ふらふらとテーブルに近寄り花に顔を寄せ、確かめるようにまじまじと見やる。そうしてから、そっと指先で花びらに触れたマリアを見、ちょっと考えた後で、口を開いた。
「可愛い花だね。それ、なんて花なの?」
「ヒメヒマワリ…。もうこの時期には咲いてないはずなのに、よく見つけてきたナ…。さすが、シューちゃんネ…」
「マリアの好きな花?」
「うん…。一番、好きだった花……」
「へえ。マリアの作った花壇の中にあった?」
「ううん、アトレイユじゃこの花は咲かないネ。寒すぎるからダメなんだって。前に博士に聞いたら、そう言われて、だから……もう見られないと思ってたヨ」
「………なんか、マリアみたいだね」
「え?」
 思わず漏れた呟きに、きょとんとして振り返ったマリアに笑顔を返して、小さく首を横に降る。
「ううん、何でもない。…それより、少し散歩に行かない?」
「え、でも…」
 途端にマリアの目に滲んだ不安の色を敢えて無視して、肩を竦めて見せた。
「大丈夫。隊舎の庭くらいまでなら許可してもらえるよ。それにマリアも、少しはあの人達に姿を見せてないと、怪しまれちゃうよ?」
「…うん…」
 そう言いながらも、渋るようにその場から動かないマリアのほうへ、ゆっくり手を差し出して、笑ってみせる。
 マリアは少しだけきゅっと口元を引き締めた後に、観念したようにそっと笑って、ゆっくり僕の手を取った。
 そうして手に手を取って、僕達はゆっくりと部屋を後にした。


 地上の人工的な明かりが多すぎるせいか、アトレイユと違ってこの街では星が殆ど見えない。
 だけど、その分広い夜空に、ひとつ悠々と浮かぶ月は、アトレイユで見るそれよりも、その存在感を増しているような気がする。
 花壇脇のベンチにマリアと二人、並んで腰掛けながら、まだ後もう少し、完全な丸に成りきれていない歪な形の月を見上げ、なんとなく、ぼんやりと、そんなことを思った。
 アトレイユでもよく、二人で屋上のドームで、こうやって夜空を見上げた。時に他愛無い会話をしながら、時にお互い黙ったままで。僕は夜が明ける前に屋内に戻る必要があったけど、マリアはよく、夜明けまでその場に一人残って朝日が昇るのをじっと見つめていた。
 あの頃、彼女は昇る朝日に何を見ていたのだろう。
 今この時、夜空の月に何を見ているのだろう。

 少し離れた場所から見張っているアトレイユの人達の視線を背中に受けながら、静かに口を開いた。
「綺麗な月だね」
「うん。秋の月は一年の中で一番綺麗ネ。旧世界の何とかって国の人達は、秋の満月を名月って呼んで、お団子食べながら、みんなでお月見してたらしいヨ。……って、前にも話したナ」
「うん、多分もう百回くらいは聞いたかも。トゥルーって人が教えてくれたんだよね?」
「そうネ。トゥルーはホントに物知りなのヨ。機械オタクだけどナ。…ラビにも会わせてあげられたら良かったんだけど…」
 言って少し肩を落としたマリアに、微笑だけを返して、周囲に漂う匂いに臭覚を集中させる。
「なんか、いい匂いがしない? さっきから」
 その言葉に「あぁ」と顔を上げたマリアが、庭の隅に植えられた小さな木を指差した。
「あの花の匂いネ。キンモクセイっていうのヨ。いい匂いでショ?」
「うん。初めて嗅ぐ匂いだけど、僕、これ、好きだ」
 鼻を擽る甘い匂いにうっとりと目を閉じた僕の隣で、いきなりマリアが「ちょっと待ってて」と立ち上がって、その木の所まで小走りに駆けて行く。そして、木に向かって「ごめんネ」と謝ると、枝を一本手折ってそのまま、また小走りに僕のところまで戻ってきた。
「はい、プレゼント」
 そうして笑顔で手渡された、いい匂いのする花のついた細い枝を、僕もまた笑顔で受け取った。
「ありがとう。近くで嗅ぐとより一層いい匂いだね。なんか、甘くて美味しそう…。食べちゃいたくなる」
「イヒヒ。私も初めてこの花見たとき、そう思って、つい食べちゃったネ」
「え、本当に食べたの? 花を?」
「うん。すっごく不味かったネ。美味しいのは匂いだけヨ」
 その味を思い出したかのように顔を顰めて言うマリアに僕が笑って、マリアも一緒に笑う。
 僕達は、まるで合わせ鏡のようだ。
 一方が笑えば、もう一方もつられて笑うし、一方が哀しい顔をしたら、もう一方も哀しくなる。

 後何回、僕は彼女の笑顔を見ることが出来るんだろう―――……。

「マリア」
 呼びかければ、マリアが薄く笑った形の口のまま、静かに僕を見る。月明かりの下、青ざめて見えるほど血色を失った小さな顔。
「やっぱり、あの条件を呑む気にはなれない? どうしても気持ちは変わらないの?」
 確かめるような僕の言葉に、マリアが真っ直ぐ僕を見たまま、力強くゆっくりと頷く。
「変わらないヨ」
 そして迷いなく、そう言い切った金色の瞳は、哀しいくらい綺麗過ぎて。
「ごめんネ」
 ぽつんと彼女が呟いたその一言に、目頭が熱くなる。
 
 まだだ。まだその時じゃない。彼女はまだ僕の前にいる。
 ここにいて、息をして、少し眉を下げて、でも笑って、まだ、生きている。

 ポタリと目から落ちたものは敢えて無視した。
 それを認めてしまえば、僕はもう彼女のために何も出来なくなってしまう。
 今すぐ彼女を連れて、どこまでも逃げたくなってしまうから。
 逃げ切れるわけがないと、分かっていても。
 こんな、最悪で、残酷で、受け入れたくなくて、怖くてどうしようもなくて、泣きたくて、酷く非現実的な、この現実から――――。

「泣かないで。赤いお目々のウザギさん」
 
 聞こえてきたその声に、顔を上げる。
 それは、いつかと同じ彼女の言葉。

 ラビッシュ。それが僕の本当の名前。
 生まれつき、お粗末なほど出来損ないだった僕に、製造者である科学者がつけた、“くず”という意味の名前。
 だけど彼女は名前を告げたとき、僕の白い髪や赤い目が白兎みたいだと、そう言って、それからずっと、僕をラビットと呼んだ。
 辛い実験に耐え切れず僕が泣くたび、「赤いお目々のウサギさん」と、今みたいにどこか困ったような声色で慰めてくれた。
 ラビはラビッシュではなくて、ラビットのラビだと、その思いを込めて呼んでくれたのは、彼女だけだった。

 名前なんか気にするだけ馬鹿らしい、どうでもいいものかもしれないけれど、僕にとっては、それはどうでもよくない、特別なことで。だからこそ―――――。


 種子だとか、完全だとか、不完全だとか、そんなことは関係なくて、ただありのままの彼女のために。

 彼女の決意も、彼の気持ちも、僕には痛いほど良く分かるから。

 彼女のために、僕が出来る最後のこと。
 彼女の一番の奇跡。
 そのために。

「思い残すことはもうないネ。ラビのおかげで、みんなにも会えたし。ホント、ラビには感謝してるネ」
「…本当に?」
「ホントヨ。ラビがここで人質になってくれてたから、私、船に行く許しをもらえたんだモン。感謝感激ネ」
「そうじゃなくて。本当に思い残すこと、ないの?」
「え?」
「あの人のことは?」
「…あの、ひと…?」
「“ファルコ”」
 言った瞬間、彼女の顔が一気に強張る。
 だけど、それは彼女の心の奥にあるものをズバリ言い当てた証拠だ。
「あの人だろ? あの日会った、あの金髪の男の人。あの人がマリアの“ファルコ”だろ?」
「…ラビ」
 諌めるような硬い声で、マリアが僕の名を呼ぶ。青ざめた、けれど強い意志を秘めた顔。その目。それだけで充分、彼が『彼』であることの証明のようなものだ。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。マリアが今何考えてるかくらい、僕にも分かる。だけど、これはそういうことじゃなくて、心の話」
「心の…?」
「あの人とちゃんと話できたの? ちゃんと好きだって伝えてきた?」
「……うん………」
「…嘘つきは泥棒なんじゃなかったっけ?」
「ラビ。私はもう、とっくの昔にフラれてるのヨ。てか、最初から相手にもされてなかったネ。だから、もう…」
「でも、マリアはまだ好きなんだろ?」
「………」
「好きなんだろう?」
「…もう、いいネ」
「よくないよ、だって…」
「いいって言ってるネ!」
 今にも泣き出しそうに歪んだ、苦しそうな彼女の顔。見ているだけで、僕まで苦しくなってくる。
 だけど。
 
 彼女を本当に大切に思うなら、ここから、彼女から逃げちゃいけない。
 彼女を独りで、こんな現実と戦わせちゃいけないんだ。

 不完全な僕達の中で、唯一完全で、特別で、宝石のような綺麗な瞳を持つ女の子。

 いつだって君の泣き顔は見たくなかったし、君が笑えば僕もつられて笑った。
 そう、いつだったか、合わせ鏡のような僕達を見て、クロイス博士が冗談で「兄妹みたいだ」と言った。それに間髪入れず、「兄妹ネ」と言った時の君の顔。泣きたいくらい嬉しかったあの時。
 あれを幸福だというのなら、
 あの気持ちが幸福というものなら――――――。


「行っておいで、マリア」
「え?」
「行って、“ファルコ”とちゃんと話しておいで」
「…ラビ?」
「夜明けまで、まだ後少しある。マリアなら、あの人達を撒くことも、この街で“ファルコ”を見つけ出すことも難しくないでしょう? あ、でも、あんまり無茶しちゃダメだよ?」
「何言ってるカ…。大体もう、そんな場合じゃ…。ラビだって、気づいてるんでショ?」
「うん。気づいてるよ。だからこそ、もう、時間がないんだ」
 言いながら、彼女の背を押して、ベンチから無理やり立ち上がらせる。
 背後でアトレイユの人達が、そんな僕達の動きに不審さを募らせているのを気配で感じながら、そっと小声で囁いた。
「だから、夜が明けて朝日が昇り切る前に帰ってきてくれる?」
「…ラビ……?」
「僕じゃ、それ以上は持たないかもしれないから」
「ラビ…ッ!」
 恐怖と戸惑いでごちゃごちゃになった彼女の顔を真っ直ぐ見ながら、ゆっくり笑ってみせた。

 あの気持ちを幸福だというのだと、少なくとも僕はそう、思ったから。
 だから、僕だけは、君から逃げない。
 最後の最後まで、守ってみせるよ。

「マリア」

 不完全な僕達の中で、唯一完全で、特別で、宝石のような綺麗な瞳を持つ女の子。
 この世界にたった一人の、かけがえのない、大切な、僕の、妹。
 だから、マリア。

「約束、しよう?」


 兄妹としてする、初めての約束を。

 たとえこれが、最後だとしても。





(NEXT⇒あの日の僕らにバイバイ)

「LIKE A FAIRY TALE」 15

2012-06-19 17:46:26 | 小説「Garuda」御伽噺編
15.【 不可解な鼓動の理由 】   (ファルコ)


 気づかないとでも思っているのか。
 本気でそう思っていそうな目の前の彼女の顔を、覗き込むべく、更に詰め寄る。
 その途端、俯いていた顔が、ぱっと上がった。
 さっき俺に見せた表情は、綺麗に消えていて。
 その目にはもう、動揺や感情の動きは見られない。
 そう言えば、三年ぶりに会ったあの時も、こいつは瞬きの間に、自分の表情を隠してしまった。
 あまりに素早いその動作に、思わず舌打ちが出そうになる。

 ……無駄な処世術を身につけやがって…。

 あまりにも、三年前のまだガキだったマリアと色々違いすぎて、胸やけすらおこしそうになる。

「船に帰れないなら、早いとこツバキさんとこに行ったほうがいいヨ。むしろ、そうするべきネ」
 ついと東の方向を見て、マリアは答えた。
 その目は遥か遠くを見つめていて、途端さっきと同じ胸やけがおきそうになる。
「なんでだよ?」
「朝がくる頃には、騒がしくなってしまうかもしれないネ。そうなったら多分、リムシティ全域に厳戒令が布かれるはずヨ」
「厳戒令?」
「そうヨ。そしたらもう、お前ら般ピーは出歩くことが不可能ネ。だから今のうちにツバキさんところに行って、しっかりツバキさんを守るがいいネ」
 真っ直ぐと俺を見た目は、さっきとは全然違う瞳だ。
 その中にはもう、怯えも弱さも見つけられない。

 ……でも、三日前に会った時と同様に、こいつのその表情は、酷く、頼りなげに見える。

「質問の答えになってないんじゃねぇの?」
「ミスター・グランバード」
「あ?」
「だから、名前、ネ。これで満足カ?」
「あのなぁ、お前。ガキの喧嘩じゃあるまいし」
「ガキだって言ったのは、そっちネ」
 フンッと鼻息すら聞こえてきそうな勢いで横を向くと、それきりもうマリアはこっちを見ようともしない。
 人のこと言えた義理じゃないが、本当にガキのようだ。
 いや、こういう馬鹿みてぇに頑固なところは、昔から変わっていないのかもしれない。
 毒気を一気に抜かれたような気がして、少しだけ脱力しながら、マリアを見る。
 そう言えば、トゥルーがやたら、こいつのことを心配していた。
 スレイがこいつのことを、必要以上に心配するのはいつものことだけど、トゥルーのあの表情は、ちょっと気になる。

(マリア、なんかちょっと変だったんだ――――)

 こうして見れば、何も変なところなんて見当たらない。
 相変わらず減らず口だし、言ってることが的外れだし。
 ただ三年前より、もっと、不可解な行動が多くなったくらいだろう。
「…そういえば、お前と一緒にいたあの白髪の男、ラビっつったっけ? お前のことやけに心配してたけど、あいつが第一の種子ってやつか?」
 そう言った瞬間、マリアの体に妙な緊張が走る。
 普通なら気がつかないかもしれないくらいの、本当に微かな変化だが。

 普通なら。
 そう、一緒に暮らしたりして四六時中一緒にいた事なんかがなかったりしたら、きっと、気がつかなかったかもしれない、マリアの、小さな変化。

「マリア?」
「…そうヨ。ラビが第一の種子。でも、そんなことはアル中ハゲには関係ないネ」
「……まぁ、確かにそうだけど。…今回の件が終わったら、お前ら、どうすんだ?」
「…別にどうもしないネ。向こうに戻るだけヨ」
「アトレイユの研究施設にか…?」
「そうヨ。ことが終わったら、すぐにリムシティを発って、また元通りの生活ヨ」
 マリアが普通にすればするほど、さっきの態度が浮き彫りになっていく気がして。
 あの質問になんか変なところでもあっただろうかと、思わず眉間に皺が寄ってしまう。
 こいつは俺が、アデル博士が死んだのを知っていることを知らない。だから、「元通り」と嘯くのは分かる。
 だけど、もう一人の種子について触れた途端、瞬間的に見せたあの、妙な緊張。
 あれは、なんだ――――?

(このまま放っておいちゃいけない気がする……)

 不意に湧き上がってきたトゥルーの声に、不自然なほどに心拍数が上がるのが分かる。

 なんだ?

 昔から、こういう胸騒ぎにろくな結果はなかった。
 気がついたときには遅かった、なんてこともザラに…―――。

「もう、行くネ。ハゲもさっさと、ツバキさんとこ行けヨ」
 聞こえてきた声に、思わず手を伸ばし、マリアの細い腕を掴む。
 掴んだはいいが、言うべき言葉が出てこない。
 でも、まだこの手を離すべきじゃないと、本能がそう告げている。
 そして適当に話を繋げようと出した話題に、

 僅かに、

「…その飴」
「……え…?」
「いつも舐めてんだな。こないだ会った時も舐めてただろ? 最近のお気に入りってやつ?」
「……うん……」

 僅かに、もう一度、確かに、マリアの体に緊張が走った。


 なんだ?

 マリアから何かしらの信号が出ているのに、そこに辿りつけない思考に苛々する。


「もう、行かなきゃ」
 こっちがほんの少し力を抜いた瞬間に、マリアが手の中からするりと腕を抜く。
「バイバイ」
 それだけ言って、くるりと向きを変えたと思ったらそのまま、こっちの返事も聞かず、マリアは走り出して行ってしまった。
 その小さくなっていく姿を見ながら、消えない焦燥感に気ばかりが焦る。
 ついさっき頭に浮かんだ、自分の思考にチっと大きく舌打ちを鳴らす。

 気がついたときには遅かった、なんてこともザラに…―――。

 なんて。
 そんな。

 マリアが、死ぬ訳でもあるまいし。


 思わず辿りついた自分の馬鹿な思考に、再び大きく舌打ちする。
 あいつ一人だって、出鱈目に強いっつーのに、もう一人同じような力を持った仲間がいて、そいつと二人互いに守りあっているのだ。
 有り得ないが、仮に、もし本当にゼイオンが生きていたとして、また、あいつに何かを仕掛けてきているとしても、あいつの傍にはそいつがいて、おまけに機動隊の奴らだっている。三年前とは何もかもが違う。
 何より、あいつにはゾロがついている。この国で一番の力を持った男が、ついているのだ。
 今回のことで、アトレイユ政府がどう動こうと、ゾロがその力でマリアを守る。
 ゾロが俺にアトレイユ政府の話をしたのは、そういう意味合いだったはずだ。ゾロは絶対に、俺を裏切らない。裏切れない。だから。
 そうだ、だから。

 あいつが死ぬ、なんて、そんなことある訳がない。




 それでも、鳴り止まない鼓動は、どうしてなのか。
 バイバイと言ったあいつの顔を、どうしても思い出せないのはどうしてか。
 その吐き気すらしてくる考えに、自然冷や汗が流れてくる。
 沢山の疑問に対する気味の悪さからか、それとも、秋の夜気がもたらす寒さのせいなのか。

 消えない悪寒だけが、真実を語っている気がした。





(NEXT⇒指きりで約束を)

「LIKE A FAIRY TALE」 14

2012-06-19 17:45:31 | 小説「Garuda」御伽噺編
14.【 背伸びをしてみても 】   (マリア)


 あの日、アナタの涙を見た時、私がどんな気持ちになったか、分かる?


 三年前、いやだと言い張った私に対し、ファルコは一粒の涙で、全ての決着をつけてしまった。
 本当に苦しそうに、「頼む」と言ったファルコを見て、私は愕然としてしまったのだ。

 こんなんじゃない――――――、と。

 私がファルコに望んだのは、こんな表情でも、こんな言葉でもない。
 こんなのが欲しかったんじゃない。

 そのとき、もう私はファルコの傍にいられないんだと実感した。いてはいけないのだと、悟った。
 受け入れたくない事実に、後から後から涙が溢れてくる。
 けれど、背を向けたファルコに、私はもう、声を出すことは出来なかった。
 ファルコが出て行ったドアをただ見つめたまま、いつまでも、声もなく泣き続けていた。
 あの時のファルコの涙を思い出すたびに、とても胸が痛む。
 苦しくて、哀しくて―――――……。



 ――――あぁ、しまった。また失敗した。
 目の前で固まっているファルコを見て、ぼんやりとそう思った。
 モノクロの視界の中で、ファルコは、あの時と同じ、酷く戸惑ったような表情を浮かべている。

 色を失くして怖くなって、自分の弱さを思い知って、幸福そうな家族の姿に哀しくなって。
 そうやって人が失意のどん底にいる時に、余りにいいタイミングで現れたりするから。
 余りにいいタイミングで、どうしたなんて訊いてくるから。
 だからつい、思ったことをそのままぶつけてしまった。 

 結局、私はまた、自分の弱さでファルコを傷つけてしまったのだ。
 もうこれ以上、傷つけたくなかったのに。
 傷ついて欲しくなかったのに。

「……なんてネ」
「………あぁ?」
「ちょっと悲劇のヒロインっぽく、センチメンタルジャーニーしてみたかっただけネ。純粋な乙女心ってヤツヨ」
「…………」
「ハゲが、いつまでシケた顔してるネ。いい加減、その気持ちの悪い顔やめるヨ」
「…………」
「大体そうやって眉間に皺を寄せたところで、微塵も締まった顔にならないんだから、無駄な努力というものヨ?」
「…………」
「どうしたネ、プルプル震えたりして? ついに、本物のアル中に進化したのカ? ハゲで貧乏で加齢臭出まくりで水虫でアル中って、どこまでダメダメ道を極める気ネ」
「……っんだと、この、バカ娘!! 何だってんだてめぇ! ちょっと心配してやったってのにその態度は! つーか、おまっ、世話になった人への礼儀とか礼儀とか礼儀とか、ちったぁ持てやこのクソガキが!!」
「世話になった人なんか、ここにはいないネ。ダメ人間が一人いるだけヨ。てか、むしろ、そっちこそ私に礼儀を尽くすべきネ。どんだけ面倒みてやったと思ってるカ」
「何なの、どおしちゃったのマリアちゃん! 何処にあの純真さを置いてきちゃったわけ? 反抗期すっ飛ばして、すっかりグレ街道まっしぐらですかてめぇ!」
「違うネ。大人になっただけヨ。お前もいい加減、大人になれヨ」

 最後にフっと不敵に笑ってみせれば、ファルコが怒りに頬を引き攣らせた。

 よかった。これでもう、さっきの嫌な感じは消えた。
 あんなファルコはもう、見たくはない。あんなファルコを見るくらいなら、怒って顔を痙攣させてるファルコのほうがずっとマシだ。
 ファルコには、あんな苦しそうな、辛そうな顔はして欲しくない。
 だって、私は、

 ―――ああ、そうだ。
 
 私は、


 込み上げてきた感情に胸が詰まると同時に、ズクンとお腹に痛みが走る。
 慌てて、けれど何でもない顔を装って、飴を取り出し口に放りこんだ。そのまま、立ち上がろうとして感じた間接の痛みに、心の中だけで舌打ちをついて、また座りなおす。
「…いいからハゲは、ふらふらしてないで早く帰るネ。大体、夜はあまり出歩くなって警告したの、もう忘れたのカ、耄碌ジジイ」
「お前こそ、こんな時間に何やってんだよ。ガキはもうとっくに、おウチに帰ってなきゃいけない時間だろうが」
「私は、もうガキじゃないネ」
「ばーか。自分のことガキじゃないって言うやつに限って、ケツに殻がついてたりすんだよ」
「カラ? 何の話ネ?」
「まだまだマリアちゃんも子供ってこと。いいからほら、いつまでもんなとこに座ってねぇで、さっさと帰れ」
「やーネ。ここでまだやることがあるネ、私には。これでも色々と忙しいのヨ。万年二日酔いと違って」
 本当はやることなんかないし、出来るなら今すぐ帰りたいけど、体が言うことを利かないのだから仕方ない。まさかこの人の前で、ろくに立ち上がることすら出来ないなんて、そんな情けない姿を晒すわけにはいかない、絶対に。

 苦し紛れに口から出た言葉は、それでも目の前の人にはきちんと効いたようで、ファルコはぴたりと口を噤んでしまった。
 何となく居心地が悪い。
 これだけ憎まれ口を叩いているのに、どうして立ち去ってくれないのか、この人は。
 一刻も早く痛み止めが効いてくれることを願いながら、無駄にモノクロの街や空を見たりした後で、ついに沈黙に耐えられなくなって、こちらから口を開いてしまった。
「…何してるネ?」
「そりゃこっちの台詞なんだけど」
「私は用事があるって言ったはずヨ? 暇人は、さっさと帰るネ」
「…帰るに帰れねぇんだよ」
 顔を見ぬまま言った私に、ファルコがふぅっと小さく息を吐き、少しだけ距離を空けて隣に座りながら、ダルそうに頭をガシガシ掻く。
 早まる鼓動に心臓が悲鳴をあげているのが分かる。手が震えているのがバレないよう、必死に体に力を込めた。
「昨日のことで、スレイ達が怒り狂ってるからな」
「昨日?」
「お前が来たとき、留守にしてたことで」
「…あぁ」
「悪かったな。折角だったのに」
「別に…。スレイ達の顔見に行っただけだし…」
 考えないようにしてたのに。やけに静かな声で、ファルコがそんならしくないことを言うから。
 やけにじっと見てくるから。
 どうしていいかわからなくなって俯いたまま、聞きたくもない事が、口から出てしまう。
「…………ツバキさんのとこに行ってたのカ?」
「……あー…うん、まあ…」

 瞬間、体を襲う痛みとは違う痛みが、胸を貫いた。

「…あのよ、」
「勿体ないネ」
 続けて何か言おうとするファルコの声を、気がつけば、遮るように口を動かしていた。
「あ?」
「勿体ないって言ったのヨ。万年二日酔いのダメ人間には、ツバキさんみたいな人」
「……」
「だから、ちゃんと大事にするネ。ふらふら飲み歩いてばっかいないで、ツバキさんのこと、ちゃんと、守るネ」

 何を言ってるのだろう、私は。
 こんなこと私が言わなくたって、ファルコはきっと、きちんとツバキさんを守るに決まってるのに。
 目に見える行動じゃなくても、気がつけばそっと、誰よりも深い場所で、優しく守ってくれる。
 そういう人だって、私が一番よく知ってる―――――。

 だけど、そこにいるのはもう、私じゃなくて、ツバキさんなんだ。
 この人が守るのは、もう、私じゃなくて、ツバキさん。

 分かっていたはずなのに、突きつけられたその事実に、既に色の消えた世界が、更に色褪せて見える。


「………か?」
「え?」
「だから、お前は大丈夫なのかって聞いてんだ」
「だいじょ、ぶ?」
「独りで大丈夫か?」
「何…が……?」

 掠れてしまった声に、思いっきり舌打ちしたかった。
 これじゃあ、動揺しているのが丸分かりじゃないか。
 なんだってこの人はこんなにも、タイミングがいいのだ。
 こんなんじゃ、誰だってこの人を好きになってしまうに決まっている。
 そんなタイミングで、そんな優しいことを言われたら、誰だって救われてしまう、から。
 好きになろうとしなくても、好きになってしまう。
 諦めようとしても、諦めきれなくなってしまう。
 それを少しは分かっているのだろうか、この人は。

「人の心配する前に自分の心配するヨ。万年二日酔いだし、貧乏だし、グータラだし」
「あぁ?」
「そのくせ誰にでも優しくするから、すぐ面倒に巻き込まれるし、変な奴に付け込まれたりして、ツバキさんにも迷惑かけるんじゃないかって私、心配ネ。そうなってももう、私は守ってやれないヨ」

 わざとらしく、大袈裟に溜息を吐いてみせる。
 早く、いつものような、バカみたいな言い合いを繰り返すだけのバカな私達に戻りたかった。
 そうでないと、うっかりまた本音が毀れて、この人を傷つけてしまうかもしれない、から。

「お前に守ってもらわなきゃいけねぇほど、俺はヤワじゃねぇよ」

 聞こえてきた声色に安心して顔を向けると、ファルコはさっきまでの気だるげな顔じゃなくて、怖いくらい真面目な顔をしていた。

「それに俺は誰にでも優しく出来るような、そんな高尚な人間じゃねぇ」

 その顔を見て思わず、してしまった顔は、きっと笑えるくらい間抜けだったに違いない。
 この人の目にはどうしてこんなに力があるのだろう。金色からモノクロに変わっても尚、強く、綺麗で。それに比べて、今の私の目は、この人にはどう見えているのだろうか。
 知らず、知らずのうちに、座ったまま後ずさる。
「逃げるなよ、マリア」
「……逃げる?」
「逃げただろうが。ツバキといた時も」
「あれは、用事があったから急いでただけヨ。逃げてなんかないネ」
 そう言いながら、距離を取るように後退さろうとする体を叱咤して何とか、その場に踏みとどまる。
 その間に、ファルコがゆっくりと距離を詰めてくる。
「じゃあ聞いていいか?」
「何を?」

「お前、なんで俺の名前呼ばねぇんだ?」


 そう言ったファルコの顔が、ひどくぼやけて見えた。
 口調は厳しいのに、その声に私への労りがこもっているのが、分かってしまったから。

 馬鹿みたいだ。
 いつだってこうして、必死に取り繕おうとしてもこの人は、大事なことはきちんと見抜いてしまう。
 だから、いつまでたっても、私はこの人に追いつくことが出来ない。
 それどころか、必死に追いつこうとしてると、いつの間にか目の前まで迎えに来て、そっと手を差し伸べてくれる。


 ……やっぱり優しい、ネ…。


 昔と変わらない優しさに、うっかり出そうになった涙をどうにか喉の奥に引っ込める。
 慎重にゆっくりと息を吐き出して、痛みが弱まったことを確認して。

 この優しい、大好きな人を二度と傷つけないために。
 涙と一緒に引っ込めた本音は、もう絶対に出さないと決めたのだから。

 好きで好きで、切なくって苦くって、でも蕩けるみたいに甘くて。
 こんな素敵な気持ちを知ることが出来た。それだけでも生まれてきて良かったと、そう思えるから。
 この想いを私にくれた、私の大事な人を守るために。
 私は、決めたのだから。

 生まれた意味も、死ぬ理由も、はじめから、ここにある。


 頑張れ、マリア。ここが、女の意地の見せ所だ。
 小さく手を握り締めて、グイっと顔を上げる。
 きっとこの人には気づかれてしまうだろうけど。

 でもこれが、私の精一杯の―――……。





(NEXT⇒不可解な鼓動の理由)