硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。7-1

2012-10-31 06:33:36 | 日記(雑記)
さて、再び古代へと意識を飛ばしていこうと思います。しつこく繰り返しますが、これは歴史学研究にも考古学研究にも明るくない私の、個人趣味による歴史推測であって、あくまで「私はそう思う」であって「絶対そう!それ以外ない!」ではないことを、よくよくご理解くださいますようお願い致します。
また、初見の方はお手数ですが、宜しければ、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。1」をご一読くださると、ありがたいです。

今回から、出雲編となるわけですが。
古代出雲王国考察の主な資料は、倭国編と違って、記紀と風土記と遺跡と出土品しかありません(←それだけあれば充分なのかもしれませんがw)。しかも記紀も風土記も、ほとんど神話の世界…。調べれば調べるほど分からなくなる一方ですが、神話はその民族の歴史書であるという持論と、「伝説はもとより史実にあらず、しかも史実以外の真相を語るものなり」という芳賀氏(国文学者)の心強いお言葉を励みに、少しずつ自分なりの解釈で、考えをまとめていこうと思います。

では、お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。


<国引き神話の解釈>

以下は、出雲国風土記「国引き神話」の概要です。

「その昔、出雲の創始神である八束水臣津野命は、「八雲立つ出雲の国は、始めに作った国だから、どうも小さく作りすぎたようだ。作り足すことにしよう」とおっしゃりました。

始めに、遙か大陸の方を眺め、「栲衾志羅紀(新羅)の三埼に余った土地がある」とおっしゃって、童女の胸のように広い(幅の広い)鋤で魚のえらを一刀両断にたつように切り取り、三本綯いの太い綱を結び、「国来い、国来い。」と、ゆっくりゆっくり引きよせて、土地を縫い合わせていかれました。そうして出来た土地が、小津の折絶(土地の切れ目)から杵築の岬(島根半島西端)です。また、その土地を繋ぎとめた杭は、出雲国と石見国の境にある三瓶山になり、綱は薗の長浜(稲佐の浜)になりました。

次に、「北門の佐伎の国に余った土地がある」とおっしゃって、同じように、「国来い、国来い。」と、ゆっくりゆっくり引きよせて縫い合わせていかれました。そうして出来た土地が、多久の折絶から狭田の国(宍道湖の北側の山)です。

次に、「北門の良波の国に余った土地がある」とおっしゃって、同じように、「国来い、国来い。」と、ゆっくりゆっくり引きよせて縫い合わせて行かれました。そうして出来た土地が、宇波の折絶から闇見の国(松江市東北部)です。

最後に、「高志(北陸)の都都の三崎(能登半島の珠洲)に余った土地がある」とおっしゃって、同じように、「国来い、国来い。」と、ゆっくりゆっくり引きよせて縫い合わせて行かれました。そうして出来た土地が、美保崎(島根半島の東端)です。また、投げた綱は弓ヶ浜になり、杭は、伯耆国にある大山になりました。

こうして、4回に及ぶ国土拡張で出雲の国は住みよい大きな国になりました。
八束水臣津野命は、「これで国引きを終えた」とおっしゃって、また、意宇の杜に杖を突き立てて、「意恵!(おえ!)」とおっしゃったということです。」


国引き神話は、出雲国風土記の意宇郡の冒頭で語られる話です。
これは、世界のあらゆる民族とその土地の歴史を語った伝承の中でも一級品に値する、素晴らしいものだと私は思います。
ものすごく頭の良い人なら、この伝承だけで、出雲の土地の成り立ちと、その民族の成り立ちが、すべて分かってしまうんじゃないでしょうか。
それくらい多くの内容を含んでいると思うんです、この国引き神話と呼ばれる伝承は。

まず、この神話のベースを理解するには、地質学的なことからはいらないといけないのですが、困ったことに、私は地質学がさっぱり分かりません(笑)。
なので、ほぼ本に書いてあることそのまんまですが、なるべく簡単に、説明させていただきます。

島根半島と中国山地の間には、出雲平野が広がり、ここは縄文時代は内湾でした。
ところが、三瓶山が噴火した5000年前と4000年前に火山噴出物によって海が一気に埋められて、広い平野が出現すると共に、島根半島は陸続きになりました。そのことは、出雲平野の地盤を作る地層から知ることができるそうです。
神戸川下流部(出雲平野西部)の地下表層には、三瓶火山の噴出物が広く厚く分布していて、出雲市の三田谷I遺跡や古志本郷遺跡をはじめ、多くの発掘調査でその地層が認められ、三瓶火山の活動時に発生した洪水でもたらされた土砂であることが分かっています。また、その地層は二層あり、それぞれが三瓶火山の第6活動期、第7活動期の時期に、流域に供給された火山噴出物によって大規模な洪水が発生し、多量の土砂を海岸部に供給したことを物語ってもいるそうです。

つまり、出雲の国引き神話のベースは、島根半島の形成史を語る伝承なわけです。
約5000年~4000年前(縄文時代中期)以前からその付近に住み、そこ(島根半島)に何が起こったのか、実際の経験によって知っていた人達が、子孫へ語り継ぎ、またその子孫が子孫へと語り継ぎ、残してきた大地の歴史。上手い言葉が出てきませんが、本当に感嘆してしまいます。

そして、そのベースの上に、民族の歴史が幾重にも重ねられているといわれております。幾重にも重ねられている故に、人によって解釈が異なる部分もあるでしょうが、とりあえず、その解釈の重要な鍵になるものを、順にあげていきますと。

1、八束水臣津野命
2、栲衾志羅紀
3、鋤
4、土地を切り取られた場所とその順番
5、切り取った土地を繋げて出来た場所とその順番
6、切り取った土地を繋げて出来た場所の中で、国と明記された所と、国と明記されていない所



1の「八束水臣津野命」の話は、少し長くかかりそうなので後に回して、2の「栲衾志羅紀」についてから。

2、栲衾志羅紀。
「栲衾志羅紀」というのは、朝鮮半島にあった新羅のこと(栲衾は、白や新羅にかかる枕詞。ちなみに奈良時代の人は、新羅のことを「しらき」と言っていたそう)。
国引き神話は、その内容から考えるに「気が遠くなるほど大昔」からの伝承のはずなので、伝承が生まれた当時は、まだ新羅は出来ていなかったんじゃないかとも思いますが、恐らく原典=伝承に、朝鮮半島の東部を意味する言葉があったのでしょう。『出雲国風土記』が編集されたのが、西暦713~733年頃で、新羅という国号が正式に定まったのは、西暦503年とされていますから、733年当時の編集者か執筆者かが、当時の人に分かりやすいように書き換えたと考えられます(※新羅王が高麗に帰順して、新羅という国が事実上消えたのは、935年)。おかげで、私達も分かりやすいです。
通説ではこれは、古代の出雲国を作り上げた人達の中に、朝鮮半島東部からの渡来人の集団がいたということを意味していると言われています。私も、同意です。
海を渡って日本に来る場合、中国や朝鮮半島の南部からは、九州に辿りつく可能性が高いですが、朝鮮半島の東部からは、対馬海流の影響で、九州よりも本州につきやすいことは、明白です。そういった渡来人の集団が、漂流などで偶然、出雲地方に着いたのか、はたまた意図的に、その地を目指してやってきたのか、それはまた別の話ですが。


3の鋤。
これは、この土地に鉄がある(取れる)こと、また古くから(=大和王権成立以前から)鉄器が使われていたことを示しているのだと、一般に解釈されています。
私もそう思います。また、当時(縄文時代)の鋤が鉄製だったかどうかは怪しいですが、それはともかく、鋤などの道具は大陸から渡ってきた文化なので、「鋤」から連想される「農具」、つまり「農耕」が、この地では、朝鮮半島東部の渡来人の集団によって、本格的に始まったと推測できます。ただし、彼らがもたらした農耕は、水稲ではなく、陸稲のほうだと思います。水稲は中国ルートであることがほぼ判明してきているので、朝鮮半島東部の彼らの功績ではないはずです。それでも、狩猟が主だった縄文時代の人たちにとっては、大地を耕し種を蒔きそれを育てて収穫するということは、驚くべき新文化だったと思いますが。


4の土地を切り取られた場所とその順番。
国を大きくするために切り取った土地は、すなわち、出雲国を形成する国邑の民の祖となった人達が元いた土地のことと解釈できます。

国引き神話で、一番に切り取られるのは、新羅。そこからきた朝鮮民族が、出雲国の基礎を築いたと言えるでしょう。

次が、北門の佐伎(さき)の国。佐伎の国がどこかは不明ですが、北門は北の水門(みなと)の意であることから、島根半島より北で水門を持つ国ということは分かります。いろんな方がその条件を元に推測されている比定地の中でも、一番有力なのが、島根県隠岐郡の海士町崎周辺ではないでしょうか。
また、佐伎という言葉を調べていくと、兵庫県朝来市にある、佐伎都比古命、佐伎都比古阿流知命、大国主命を祭神とする「佐伎都比古阿流知命神社」に行き当たります。そこの創祭年代や由緒は不詳なのですが、『延喜式』に「佐伎都比古阿流知命神社二座」と書かれているそうなので、元は、この二柱をお祭りする神社だったのでしょう。
この二柱の神は、『日本書紀』にある、「昔、一人の人が船に乗って但馬国にやって来た。『どこの国の人か』と尋ねると、『新羅の国の王子、名を天日槍(あめのひぼこ)という』と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り、但馬諸助を産んだ」という一文の、この但馬国の前津耳が佐伎都比古命であり、佐伎都比古阿流知命は、その妻であるそうです。また一説では、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるとも言われているようですが、ここで注目したいのは、新羅の国の王子である天日槍(以下、ヒボコ)。
ヒボコの伝承を、ものすっごい簡単に説明すると、夫婦喧嘩して親の国に帰ってしまった妻・アカルヒメを追いかけて日本にきた新羅の王子・ヒボコが、結局妻には会えず、妻を捜す道中で知り合った現地の娘と結婚して子孫を残した、というものです。
古事記と日本書紀では、かなり記述が違うのですが(古事記においては、ヒボコとアカルヒメの子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(日本書紀では田道間守。但馬清彦の息子)であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が、息長帯比売命(神功皇后)の母。日本書紀では、結婚したのは新羅王子のヒボコでなく、意富加羅国王の子のツヌガアラシトとされている。また古事記では、ヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出るが、日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はヒボコの末裔の葛城高顙媛であるため、古事記と日本書紀では、系譜(話の時系列)が逆)、面白いのは、『播磨国風土記』に、このヒボコが、神代の渡来神・天日槍命として登場して、葦原志挙乎命・伊和大神(どちらも大国主と同一視される)と土地を奪い合った神として描かれていること(これまた、記紀とは年代や争いの有無などが異なりますが)。そして、更に面白いのは、『筑前国風土記』(逸文)にも、彼について断片的な言及があり、怡土(いと=糸島地域の昔の呼び名。そして、糸島地域は、伊都国があったとされる場所)の縣主の祖先の五十跡手(いとで)が、仲哀天皇に自らを高麗の意呂山に天孫ったヒボコの子孫であると名乗っていることです。
新羅、意富加羅国、高麗と、ヒボコの出身地とされる国は、時代関係も含め、めちゃくちゃですが、どれも朝鮮半島にあった国であることは共通しています。
また、ヒボコから逃げた妻のアカルヒメについても、なかなか興味深い記述が、『摂津国風土記』(逸文)に残っています。なんでも、応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいたけれど、この場所ではすぐに夫に見つかってしまうとして、その島を離れ、難波の島(比売島)に移ったとか。
これらの話をきちんと読み解ける能力があれば、色々繋がってきて謎が解決できそうですが、残念ながら私の頭ではそれは無理(笑)。なので、今は出雲国の成り立ちだけに専念すべく、それらの考察は、ちょっと横に置くとして。まとめると、佐伎の国と呼ばれた土地にいた人は、渡来人ヒボコ、または、ヒボコに関係付けられる渡来人(つまり朝鮮半島の東部の人達)と何か関係がありそうな気がするということです。
隠岐の島は、考古学的な見地から、縄文早期や前期には既に人々が住みつき、本土と活発な交流があったと言われています。また、出雲国を考えるにあたって、鉄と同じくらい外せない存在である、黒曜石。この隠岐から産出される黒曜石の分布は、朝鮮半島やロシアにまで及んでいるそうです。私は、出雲国の隠岐は、倭国の対馬や壱岐のような存在(海路で来る人たちが最初に目指すところ)だったのではないかと思います。地理的に見ても隠岐は、渡来人と何かしら深い関係があると考えてもおかしくないと思います。

三番目は、北門の良浪(よなみ)の国。これまた、場所の特定は不明です。不明なだけに、沢山の地名・国名があがっています。丹波の国、隠岐の島、朝鮮半島の国、ウラジオストックなどなど。
私は、いわゆる「古田史学」のシンパではないですが(とはいえ勿論、古田氏含め、どの研究者さんたちのことも、等しく尊敬してます)、このウラジオストック説に関しては、古田氏の考えに概ね賛同しています。
黒曜石目当てに、ウラジオストックの古代人達が、隠岐島の倭人と交易していく中で、現地妻を持って子をなしたり、怪我や病気などの理由で長期滞在、もしくは定住する人(いわゆる帰化人)も中には出てきて、その人たちもまた妻を貰って子をなしたりして、数世代後(ひ孫とか)には、倭人と何ら変わりない見た目となった(←優性遺伝子(=伝わりやすい遺伝子)が、黒人>黄色人種>白人となっているし、母親の遺伝子が父親のそれよりも、遺伝には強く関係する傾向があると聞いたから、結構すぐに見た目は変わらなくなったんじゃないだろうか…)彼らの子孫が住んでいた地域が、良浪の国と呼ばれていたんじゃないかと思うわけで、つまり、良浪の国は隠岐の島のどこかで、そこの人達のルーツは、ウラジオストックにあると考えているわけでございます。

最後の高志(北陸)の都都の三崎は、能登半島の珠洲で問題ないかと思います。ヒスイや黒曜石の輸出(または輸入)関係で、出雲地方と能登半島の倭人は、古代から何かと繋がりが深かったのでしょう。後にヤチホコ(大国主の別名)も、高志国のヌナカワヒメを妻にしようと出かけてますし。出雲の神宝のひとつだっただろうと考えられる「玉(勾玉?)」には、石削り(?)の技術(加工技術)が、かかせませんしね。
ちなみに私は今のところ、出雲の神宝は、玉(黒曜石の勾玉?)と弓矢(鏃に鉄を使用したもの?)と剣(矛?)だったと考えているのですが、これについては新しい文献を読むたび考えが変わるので、全く一貫性統がありません(笑)。黒曜石を使った何かがあるという点だけは、ずっと変わらないのですが…。一方、倭国の神宝は、鏡だったと思います。これは一貫してます。

4の全体をまとめると、出雲国を形成する国邑の民の祖となった人達の大半が、「朝鮮半島東部、またはロシアからの渡来人」であることになります。これは倭国にも見える特徴です。倭国の場合は、「朝鮮半島南部、または中国からの渡来人」になりますが。古代の文化の殆どが海の向こうの国の影響を受けていることを鑑みても、このことは、内陸部より先にこの地で、文化が発展していたという証にもなるのではないかと思います。



【7-2へつづく】

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2 Comments

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古代史は石渡信一郎から始まる (むらかみからむ)
2012-11-11 16:54:27
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
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Unknown (のん)
2012-11-11 21:12:06
本をお書きになるのですか?
頑張ってくださいね。
個々それぞれの考え、信じる内容は自由です。
長文コメを頂いて申し訳ないですが、私の記事と殆ど何の関係もないですよね? 注意書きを読んでくださっていますか? これではまるで、ご自身の宣伝です。宣伝ならば、自分のブログで行ってくださいませ。
執筆頑張ってください。
返信する