【7-1からのつづき】
5、切り取った土地を繋げて出来た場所とその順番。
土地を繋げて出来た場所というのは、上記で述べた出雲の祖となった人達の子孫の多くが、移住し定住していたところだと解釈します。また、その出来た順番ですが、これは、後に大国主(←ちなみに「大国主」は「大王」を意味する称号であるという説を信じています。また、古くから荒神谷遺跡などで行われていたと思われる「祭り」は、初代大国主の慰霊祭のようなものだったのではないかと考えています)と呼ばれる人の祖がいた民族が、島根半島に点在していた他の民族を従えていった順番だと解釈します。
つまり、杵築の岬周辺に居を構えた民族が、和合か侵略かで、狭田の国周辺に居を構えていた民族と合体し、その合体した民族が、今度は闇見の国周辺の民族を合体させ、それがまた、美保崎周辺にいた民族を……というように、徐々に徐々に支配地諸とも、民族自体も大きく成長していき、初期の出雲国が作られていったものと考えられます。つまり、出雲王国は、島根半島から始まったと言えるのではないでしょうか。
6、切り取った土地を繋げて出来た場所の中で、国と明記された所と、国と明記されていない所
国明記の有無は、出雲国風土記が編集された時代、すなわち大和王権時代の初期には、大和王権に属している地域と、属していない地域=大和王権から見ての「反乱分子」が存在したという暗喩だと解釈できます。
杵築の岬周辺には出雲大社があって、どう考えても、大国主の一族と関わりが深いですし、美保崎はヤチホコとヌナカワヒメの子供であるミホススミがいた場所であり(記紀では、オオクニヌシの子となっているコトシロヌシが国譲りの際にのんびり釣りをしていた場所ですがw)、また美保崎が越の倭人が移住してきて作られた土地ならば、当然諏訪大社に祭られているタケミナカタとも何らかの関係があると考えられるし(多くの方が言われているように、タケミナカタのモデルになった人は出雲国の人ではないと私も思う。ただ、新潟の糸魚川市に残る伝承では、オオクニヌシとヌナカワヒメとの間に生まれた子がタケミナカタで、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったといわれているから、タケミナカタのモデルは、出雲王国とは別の国(越国?)の王子で、出雲王(=大国主)と何かしらの結びつき(従属関係か、血の繋がらない親戚関係=叔母の夫が出雲国の王とか)があったのではないかと思う)、タケミナカタのモデルになった人が、大和王権に抵抗していたなら、美保崎に彼の無念を嘆く人達=反乱分子がいたとしても、おかしくないと考えます。
さて、最後に、1の八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと。以下、ミズオミツ)ですが。
ミズオミツは、国引きをした出雲の創始神で、八雲立つ出雲の地の名づけ親でもあります。
彼は、風土記にのみ登場する神様で、古事記では、スサノオの系譜にある「淤美豆奴命(オミズヌ)」に比定される神様です。しかしながら、このオミズヌは、ミズオミツを主祭神とする長浜神社(島根県出雲市、創立:和銅三年(西暦710年))では、ミズオミツと同名を踏襲した彼の子供とされています。
ミズオミツは、その名前から解釈できるように、水の神様でしょう。それも、八(古代日本において、八は最高位を占める聖数。中国で紀元前十世紀頃にまとめられた易経に関係するとされる)と束(古代の容積単位)という漢字が使われていることから、とても規模の大きな水の神様。国引き神話のベースから察するに、これは、島根半島が陸続きになる直接の原因となった、神戸川の大洪水を神格化したものではないかと思います。そうすると、オミズヌは、その洪水によって出来た支流のひとつ、もしくは、氾濫が収まった後の静かになった川の流れを神格化したものだろうと推測できます。
<二人のスサノオ>
では何故、古事記ではスサノオが、そのオミズヌの祖神となっているのか。
私なりの解釈ですが、それを説明するにはまず、記紀に記された出雲神話と、風土記に記された出雲神話の違いを明記するべきでしょう。
大変ややこしいのですが、記紀のスサノオを「建速須佐」、風土記のスサノオを「神須佐」、そのそれぞれ(もしくはどちらかの)のモデルになったんじゃないかと私が考える人物を「須佐之男」とします。
記紀神話の三分の一を占める出雲神話で、荒々しい(華々しい?)活躍を見せる建速須佐は、出雲の祖神とされ、その見せ場の一つとして「八俣遠呂智伝説」があります。建速須佐が、まるでギリシャ神話のペルセウスのごとく大活躍して、高志之八俣遠呂知を退治するという有名な話ですが、これは、『風土記』にはありません。この神話に比定出来るものとして、『風土記』には、意宇郡母里郷(現:島根県安来市)の地名起源説に「越八口(コシノオロチ)」の話がありますが、それを退治したのは、大穴持命(=所造天下大神=大国主神)です。(※この他にも、『風土記』の神話で一番登場回数が多く、一番活躍するのは大穴持命で、彼のモデルになった人(←これも直系子孫を含む複合モデルかもしれませんが)が、出雲地方の邑邑(半島以外の場所)を制定し、巨大な出雲王国を作った人物、その名の通り、所造天下=天の下(=国)を造った出雲の大神、大王、大国主であることは、疑いようがありません)
一方、神須佐は、出雲国風土記の中では、登場回数が僅か四箇所しかなく、どれも短いエピソードのみです。たとえば、意宇郡の安来郷は、神須佐がここにきて心が落ち着くと言ったので「安来」という地名がついたとか、飯石郡の須佐郷では「この地はよいところなので、自分の名前をつけよう」といって鎮座したからここを「須佐」と呼ぶとか、大原郡では「佐世郷」の条に佐世の木の葉を頭に刺して踊ったとか、大原郡条の御室山では、御室をつくったとか、そういう平和的で、どこか牧歌的でもあるエピソードばかりで、建速須佐の荒々しいイメージとはかけ離れています(ただし、神須佐の息子達には、剣や矛をイメージさせる名前がついていますが)。
ですが、私は、建速須佐による八俣遠呂智退治も、全くの嘘、捏造というわけではないんじゃないかと思います。恐らく、元になった何かしらの伝承、大穴持命の越八口退治の伝承とはまた別の伝承が古代の出雲に何かあって、それを、建速須佐という天津神を作り出し、彼を出雲(国津神)の始祖神として祀り上げる必要があった人物達が利用し、形を捻じ曲げ、今日の記紀神話の「建速須佐による八俣遠呂智退治話」を作ったんじゃないかと思うのです。そして、その元となった伝承はひとつではなく、その中に、少なくとも二人の須佐之男がいたんじゃないだろうかと、疑っているわけです。
八俣遠呂智を山神・水神の化身とし、建速須佐によるその退治話の真相は、川の氾濫の防止、つまり、治山治水であるという説は、とても有名なので、ご存知の方も多いでしょう。この説では、櫛名田比売(くしなだひめ)を稲田(もしくは、稲田を水害から守るための生贄)と見做して、建速須佐が守ったのは、洪水による稲田の被害で、苦難を余儀なくされる人々ということになります。
この櫛名田比売ですが、風土記にも、彼女と同一神と思われる久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)がいます。彼女は、出雲国飯石郡東部の盆地に伝わる地神で、その神名の意は、「神秘な霊を持って稲田を守る豊かで美しい姫」と言われています。恐らく、豊作などを祈祷する巫女的な人がいたのでしょう。一方、神須佐も、出雲国飯石郡須佐郷の地神です。
この出雲国飯石郡須佐郷を現在の地図で調べると、出雲市佐田町須佐、反辺、原田、大呂、大川、雲南市掛合町穴見辺りとなり、その土地は、神戸川流域です。
そして、久志伊奈太美等与麻奴良比売命が登場する熊谷郷は、現在の雲南市三刀屋町上熊谷、下熊谷、木次町上熊谷、下熊谷辺りで、そこは、斐伊川流域です。
神戸川と言えば、縄文時代に噴火した三瓶山の土砂が埋まって、地形を変えてしまうほどの大洪水となった歴史がありますね。その後も、豪雨などの影響で度々氾濫していたことが、史実に残っています。斐伊川も昔はよく氾濫していた川として有名です。二つの地域に関係してくるのは、やはり治水です。
どちらの地域の古代人も、川の氾濫には悩まされていたと思います。畑はダメになるし、ひどい時は家はもちろん、命そのものまで流されかねません。それを何らかの原始的な方法(貯水池並びに排水路を作るとか、土を盛り上げて土手を作るとか)で被害を最小限で防ぐ術を、最初に実行した人が神戸川付近に住んでいた須佐之男ではないでしょうか。
歴史通説では、日本で本格的な治水工事が始まったのは3世紀の古墳時代からだとされていますが、中国では4000年前から本格的な治水工事が行われていました。まあ、日本と中国では環境が違うとしても、実際その地で難儀している人達にとって、それは死活問題であり、人間は幸い考える力と生き残ろうとする本能を持っているわけで、祈祷しても何ともならない死活問題については、自分達の手で何とかしようと考えるのが、普通なんじゃないかなぁと思うのです。勿論、後世にまで残るような立派なダムとかは、技術的にまだ作れなかったでしょうけど。
考えられる治水の方法として、これまた多くの方が言われているように、私も建速須佐の神話に出てくる「八つの酒船(樽)」方式が有力だと思います。「八つの酒船(樽)」方式というのは、たくさんの池(貯水池)を作って、水の流れをコントロールしようとする治水法です。
八は先に記述したように、八個という意味ではなく、沢山という意味。つまり、四方八方に沢山、大きな池を掘っておいて、そこから川に続く支流となる大きな溝を掘っていき(当然、水は高いところから低いところへ流れますから、くぼ地を更に掘り下げて作ったでしょう)、そこから川から流れてきた水を流し込むわけです。大雨などの影響で川が氾濫するのは、何本もの支流の水が、一ヶ所の主流に集中するためですから、その主流を一定の水量で留まるようにするには、やはり支流を作って、水の流れを分散させる必要があり、そのためには上流から中流までの間で、水の流れを変える必要があるわけです。
川が氾濫する季節が来るまでは、池の水門は閉じておき、その季節がきたら、上流から一つずつ、水門を開けていく。そうすることで、多少は川の流れをコントロール出来ていたのではないでしょうか。また、この方法でいけば、池や排水路(溝)を作るために掘り出した土を利用して、集落の近くを流れる川の堤防(土手)も作れます。
勿論シャベルカーも何もない時代ですから、池にしろ、土手にしろ、規模が小さいとしても作るのは一大事業だったでしょう。大勢の人手が必要で、それらの作業の手順を指示する人も必要です。大勢の人手は、その地に住んで実際に被害にあっていた人達だったはずです。自分達の暮らしがそれで良くなるなら、辛い土木作業も進んで懸命に行ったと考えられます。そして、その作業の手順の指示となると、やはり、発案者が一番仕組みを分かっていると思うので、発案者じゃないかなぁと思いますが、それは邑長の役割かなぁとも思いますし、発案者は邑長の横で参謀のように付き従っていたのかもしれません。もしくは、発案者がこの業績によって、後に邑長となった可能性も考えられます。
ともかく私は、この治水工事を行った人が、須佐郷の人で、神須佐のモデルの一人のような気がしてならないのですが、これだけの偉業を残して、それが『風土記』に「この地は良い土地だから自分の名前をつけよう」という簡単な文だけで終わらせられるのかという点では、やはり疑問が拭えません。
あまりに大昔のこと過ぎて、伝承の中に埋もれてしまったのかなとも思うし(古代出雲の民にとっては、大穴持命が国造の英雄であって、一地域の地神である神須佐の功績は、後の大穴持命の活躍によって影が薄れた可能性もあると思う)、風土記の編集の時に、上からの圧力で故意的に消されたのかなとも思うし、まだまだ、この考えには考察、検証が足りません。私が地元の人間なら、その地に古くから伝わる話を祖父母から、生活の中で聞かされて育っているはずだから、何かしらヒントになるものがあっただろうに、私の一族は悔しいくらい大昔から九州に勢ぞろいしていて、出雲地方の古い伝承のことを知っている人が一人もいない(そして誰も風土記すら読まない…)のが、歯痒くて仕方ない(笑)。
とりあえず今は、この仮説で先を続けます。
この溜め池技術は、斐伊川付近の古代人にもすぐ伝わり、実行され、結果、二つの領域の畑が被害を受けることも少なくなって、稲田は美しいまま保たれた。昔は、巫女の占いや祈祷が外れると、その巫女を殺すという恐ろしい風潮(←巫女の魂を贄として捧げることで、新しい巫女にもっと強い力が授かるという考えが基になっている)があったといいます。川の氾濫の被害が最小限に抑えられたことで、命が助かった巫女もいたのではないでしょうか。そこから、スサノオ(須佐郷の男)とクシナダミトヨマヌラヒメ(稲田を守る美しい豊な神)が結びつき、二人が夫婦とされる神話の元になったのではないかと考えるわけです。
また、この考えでいくと、穏やかな流れを取り戻した川を神格化したものがオミズヌなら、オミズヌがスサノオの系譜に入っていても、おかしくないと思うのです。
さて、もう一人の須佐之男ですが。
彼は神戸川ではなく、斐伊川周辺に存在した人だと思われます。そして、恐らく、海からきた渡来人の集団の首長。
と、その話に続く前に、どうやら時間がきてしまった模様でございます。残念。
続きはまた、今夜か明日にでも書こうと思います。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次は、もう一人の須佐之男、渡来人であっただろうと私が思う彼についての話から、古代出雲国を考えていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願いします。
時間がないので、オマケの雑学豆知識もつけられませんで、申し訳ない。
5、切り取った土地を繋げて出来た場所とその順番。
土地を繋げて出来た場所というのは、上記で述べた出雲の祖となった人達の子孫の多くが、移住し定住していたところだと解釈します。また、その出来た順番ですが、これは、後に大国主(←ちなみに「大国主」は「大王」を意味する称号であるという説を信じています。また、古くから荒神谷遺跡などで行われていたと思われる「祭り」は、初代大国主の慰霊祭のようなものだったのではないかと考えています)と呼ばれる人の祖がいた民族が、島根半島に点在していた他の民族を従えていった順番だと解釈します。
つまり、杵築の岬周辺に居を構えた民族が、和合か侵略かで、狭田の国周辺に居を構えていた民族と合体し、その合体した民族が、今度は闇見の国周辺の民族を合体させ、それがまた、美保崎周辺にいた民族を……というように、徐々に徐々に支配地諸とも、民族自体も大きく成長していき、初期の出雲国が作られていったものと考えられます。つまり、出雲王国は、島根半島から始まったと言えるのではないでしょうか。
6、切り取った土地を繋げて出来た場所の中で、国と明記された所と、国と明記されていない所
国明記の有無は、出雲国風土記が編集された時代、すなわち大和王権時代の初期には、大和王権に属している地域と、属していない地域=大和王権から見ての「反乱分子」が存在したという暗喩だと解釈できます。
杵築の岬周辺には出雲大社があって、どう考えても、大国主の一族と関わりが深いですし、美保崎はヤチホコとヌナカワヒメの子供であるミホススミがいた場所であり(記紀では、オオクニヌシの子となっているコトシロヌシが国譲りの際にのんびり釣りをしていた場所ですがw)、また美保崎が越の倭人が移住してきて作られた土地ならば、当然諏訪大社に祭られているタケミナカタとも何らかの関係があると考えられるし(多くの方が言われているように、タケミナカタのモデルになった人は出雲国の人ではないと私も思う。ただ、新潟の糸魚川市に残る伝承では、オオクニヌシとヌナカワヒメとの間に生まれた子がタケミナカタで、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったといわれているから、タケミナカタのモデルは、出雲王国とは別の国(越国?)の王子で、出雲王(=大国主)と何かしらの結びつき(従属関係か、血の繋がらない親戚関係=叔母の夫が出雲国の王とか)があったのではないかと思う)、タケミナカタのモデルになった人が、大和王権に抵抗していたなら、美保崎に彼の無念を嘆く人達=反乱分子がいたとしても、おかしくないと考えます。
さて、最後に、1の八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと。以下、ミズオミツ)ですが。
ミズオミツは、国引きをした出雲の創始神で、八雲立つ出雲の地の名づけ親でもあります。
彼は、風土記にのみ登場する神様で、古事記では、スサノオの系譜にある「淤美豆奴命(オミズヌ)」に比定される神様です。しかしながら、このオミズヌは、ミズオミツを主祭神とする長浜神社(島根県出雲市、創立:和銅三年(西暦710年))では、ミズオミツと同名を踏襲した彼の子供とされています。
ミズオミツは、その名前から解釈できるように、水の神様でしょう。それも、八(古代日本において、八は最高位を占める聖数。中国で紀元前十世紀頃にまとめられた易経に関係するとされる)と束(古代の容積単位)という漢字が使われていることから、とても規模の大きな水の神様。国引き神話のベースから察するに、これは、島根半島が陸続きになる直接の原因となった、神戸川の大洪水を神格化したものではないかと思います。そうすると、オミズヌは、その洪水によって出来た支流のひとつ、もしくは、氾濫が収まった後の静かになった川の流れを神格化したものだろうと推測できます。
<二人のスサノオ>
では何故、古事記ではスサノオが、そのオミズヌの祖神となっているのか。
私なりの解釈ですが、それを説明するにはまず、記紀に記された出雲神話と、風土記に記された出雲神話の違いを明記するべきでしょう。
大変ややこしいのですが、記紀のスサノオを「建速須佐」、風土記のスサノオを「神須佐」、そのそれぞれ(もしくはどちらかの)のモデルになったんじゃないかと私が考える人物を「須佐之男」とします。
記紀神話の三分の一を占める出雲神話で、荒々しい(華々しい?)活躍を見せる建速須佐は、出雲の祖神とされ、その見せ場の一つとして「八俣遠呂智伝説」があります。建速須佐が、まるでギリシャ神話のペルセウスのごとく大活躍して、高志之八俣遠呂知を退治するという有名な話ですが、これは、『風土記』にはありません。この神話に比定出来るものとして、『風土記』には、意宇郡母里郷(現:島根県安来市)の地名起源説に「越八口(コシノオロチ)」の話がありますが、それを退治したのは、大穴持命(=所造天下大神=大国主神)です。(※この他にも、『風土記』の神話で一番登場回数が多く、一番活躍するのは大穴持命で、彼のモデルになった人(←これも直系子孫を含む複合モデルかもしれませんが)が、出雲地方の邑邑(半島以外の場所)を制定し、巨大な出雲王国を作った人物、その名の通り、所造天下=天の下(=国)を造った出雲の大神、大王、大国主であることは、疑いようがありません)
一方、神須佐は、出雲国風土記の中では、登場回数が僅か四箇所しかなく、どれも短いエピソードのみです。たとえば、意宇郡の安来郷は、神須佐がここにきて心が落ち着くと言ったので「安来」という地名がついたとか、飯石郡の須佐郷では「この地はよいところなので、自分の名前をつけよう」といって鎮座したからここを「須佐」と呼ぶとか、大原郡では「佐世郷」の条に佐世の木の葉を頭に刺して踊ったとか、大原郡条の御室山では、御室をつくったとか、そういう平和的で、どこか牧歌的でもあるエピソードばかりで、建速須佐の荒々しいイメージとはかけ離れています(ただし、神須佐の息子達には、剣や矛をイメージさせる名前がついていますが)。
ですが、私は、建速須佐による八俣遠呂智退治も、全くの嘘、捏造というわけではないんじゃないかと思います。恐らく、元になった何かしらの伝承、大穴持命の越八口退治の伝承とはまた別の伝承が古代の出雲に何かあって、それを、建速須佐という天津神を作り出し、彼を出雲(国津神)の始祖神として祀り上げる必要があった人物達が利用し、形を捻じ曲げ、今日の記紀神話の「建速須佐による八俣遠呂智退治話」を作ったんじゃないかと思うのです。そして、その元となった伝承はひとつではなく、その中に、少なくとも二人の須佐之男がいたんじゃないだろうかと、疑っているわけです。
八俣遠呂智を山神・水神の化身とし、建速須佐によるその退治話の真相は、川の氾濫の防止、つまり、治山治水であるという説は、とても有名なので、ご存知の方も多いでしょう。この説では、櫛名田比売(くしなだひめ)を稲田(もしくは、稲田を水害から守るための生贄)と見做して、建速須佐が守ったのは、洪水による稲田の被害で、苦難を余儀なくされる人々ということになります。
この櫛名田比売ですが、風土記にも、彼女と同一神と思われる久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)がいます。彼女は、出雲国飯石郡東部の盆地に伝わる地神で、その神名の意は、「神秘な霊を持って稲田を守る豊かで美しい姫」と言われています。恐らく、豊作などを祈祷する巫女的な人がいたのでしょう。一方、神須佐も、出雲国飯石郡須佐郷の地神です。
この出雲国飯石郡須佐郷を現在の地図で調べると、出雲市佐田町須佐、反辺、原田、大呂、大川、雲南市掛合町穴見辺りとなり、その土地は、神戸川流域です。
そして、久志伊奈太美等与麻奴良比売命が登場する熊谷郷は、現在の雲南市三刀屋町上熊谷、下熊谷、木次町上熊谷、下熊谷辺りで、そこは、斐伊川流域です。
神戸川と言えば、縄文時代に噴火した三瓶山の土砂が埋まって、地形を変えてしまうほどの大洪水となった歴史がありますね。その後も、豪雨などの影響で度々氾濫していたことが、史実に残っています。斐伊川も昔はよく氾濫していた川として有名です。二つの地域に関係してくるのは、やはり治水です。
どちらの地域の古代人も、川の氾濫には悩まされていたと思います。畑はダメになるし、ひどい時は家はもちろん、命そのものまで流されかねません。それを何らかの原始的な方法(貯水池並びに排水路を作るとか、土を盛り上げて土手を作るとか)で被害を最小限で防ぐ術を、最初に実行した人が神戸川付近に住んでいた須佐之男ではないでしょうか。
歴史通説では、日本で本格的な治水工事が始まったのは3世紀の古墳時代からだとされていますが、中国では4000年前から本格的な治水工事が行われていました。まあ、日本と中国では環境が違うとしても、実際その地で難儀している人達にとって、それは死活問題であり、人間は幸い考える力と生き残ろうとする本能を持っているわけで、祈祷しても何ともならない死活問題については、自分達の手で何とかしようと考えるのが、普通なんじゃないかなぁと思うのです。勿論、後世にまで残るような立派なダムとかは、技術的にまだ作れなかったでしょうけど。
考えられる治水の方法として、これまた多くの方が言われているように、私も建速須佐の神話に出てくる「八つの酒船(樽)」方式が有力だと思います。「八つの酒船(樽)」方式というのは、たくさんの池(貯水池)を作って、水の流れをコントロールしようとする治水法です。
八は先に記述したように、八個という意味ではなく、沢山という意味。つまり、四方八方に沢山、大きな池を掘っておいて、そこから川に続く支流となる大きな溝を掘っていき(当然、水は高いところから低いところへ流れますから、くぼ地を更に掘り下げて作ったでしょう)、そこから川から流れてきた水を流し込むわけです。大雨などの影響で川が氾濫するのは、何本もの支流の水が、一ヶ所の主流に集中するためですから、その主流を一定の水量で留まるようにするには、やはり支流を作って、水の流れを分散させる必要があり、そのためには上流から中流までの間で、水の流れを変える必要があるわけです。
川が氾濫する季節が来るまでは、池の水門は閉じておき、その季節がきたら、上流から一つずつ、水門を開けていく。そうすることで、多少は川の流れをコントロール出来ていたのではないでしょうか。また、この方法でいけば、池や排水路(溝)を作るために掘り出した土を利用して、集落の近くを流れる川の堤防(土手)も作れます。
勿論シャベルカーも何もない時代ですから、池にしろ、土手にしろ、規模が小さいとしても作るのは一大事業だったでしょう。大勢の人手が必要で、それらの作業の手順を指示する人も必要です。大勢の人手は、その地に住んで実際に被害にあっていた人達だったはずです。自分達の暮らしがそれで良くなるなら、辛い土木作業も進んで懸命に行ったと考えられます。そして、その作業の手順の指示となると、やはり、発案者が一番仕組みを分かっていると思うので、発案者じゃないかなぁと思いますが、それは邑長の役割かなぁとも思いますし、発案者は邑長の横で参謀のように付き従っていたのかもしれません。もしくは、発案者がこの業績によって、後に邑長となった可能性も考えられます。
ともかく私は、この治水工事を行った人が、須佐郷の人で、神須佐のモデルの一人のような気がしてならないのですが、これだけの偉業を残して、それが『風土記』に「この地は良い土地だから自分の名前をつけよう」という簡単な文だけで終わらせられるのかという点では、やはり疑問が拭えません。
あまりに大昔のこと過ぎて、伝承の中に埋もれてしまったのかなとも思うし(古代出雲の民にとっては、大穴持命が国造の英雄であって、一地域の地神である神須佐の功績は、後の大穴持命の活躍によって影が薄れた可能性もあると思う)、風土記の編集の時に、上からの圧力で故意的に消されたのかなとも思うし、まだまだ、この考えには考察、検証が足りません。私が地元の人間なら、その地に古くから伝わる話を祖父母から、生活の中で聞かされて育っているはずだから、何かしらヒントになるものがあっただろうに、私の一族は悔しいくらい大昔から九州に勢ぞろいしていて、出雲地方の古い伝承のことを知っている人が一人もいない(そして誰も風土記すら読まない…)のが、歯痒くて仕方ない(笑)。
とりあえず今は、この仮説で先を続けます。
この溜め池技術は、斐伊川付近の古代人にもすぐ伝わり、実行され、結果、二つの領域の畑が被害を受けることも少なくなって、稲田は美しいまま保たれた。昔は、巫女の占いや祈祷が外れると、その巫女を殺すという恐ろしい風潮(←巫女の魂を贄として捧げることで、新しい巫女にもっと強い力が授かるという考えが基になっている)があったといいます。川の氾濫の被害が最小限に抑えられたことで、命が助かった巫女もいたのではないでしょうか。そこから、スサノオ(須佐郷の男)とクシナダミトヨマヌラヒメ(稲田を守る美しい豊な神)が結びつき、二人が夫婦とされる神話の元になったのではないかと考えるわけです。
また、この考えでいくと、穏やかな流れを取り戻した川を神格化したものがオミズヌなら、オミズヌがスサノオの系譜に入っていても、おかしくないと思うのです。
さて、もう一人の須佐之男ですが。
彼は神戸川ではなく、斐伊川周辺に存在した人だと思われます。そして、恐らく、海からきた渡来人の集団の首長。
と、その話に続く前に、どうやら時間がきてしまった模様でございます。残念。
続きはまた、今夜か明日にでも書こうと思います。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次は、もう一人の須佐之男、渡来人であっただろうと私が思う彼についての話から、古代出雲国を考えていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願いします。
時間がないので、オマケの雑学豆知識もつけられませんで、申し訳ない。