硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。6-2

2012-10-24 07:25:53 | 日記(雑記)
【6-1からのつづき】


そして新しい都、つまり女王・台与の都(私見ですが、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)がそれだったんじゃないかなぁと思う)が完成して、国勢がだいぶ安定した西暦266頃、台与の女王就任が公布され、張政達はその情報を携えて、魏に戻ったとされます(266年に魏に戻ったのは史実)。
この頃には、月読はもう四十歳近く。当時の認識では初老を迎えていたと思います。そして彼の老いと共に、伊都国自体の栄華も、影を潜めつつあったのではないでしょうか。一人の傑出した天才は、そう続いて同じ家系に生まれるものではないし、主に中国大陸で吹き荒れた戦渦は、海外交易方面で栄えてきた国々に、多大な悪影響を及ぼしたのは明らかですから。

また逆にこの頃、農業や国内交易(主に出雲王国との交易)で力を蓄えてきた不弥国(福岡県の飯塚市、宗像市、そして北九州市あたりにまで拡大していたと思う)、そして投馬国(大分県から宮崎県北部辺りのどこか)などの勢力が、伊都国に代わり台頭してきていたと、私は推測しています。

台与の女王就任を祝って、連合国内では臣民あげての様々な祭りごと(今で言う祝賀式典みたいな感じの、当時では神聖な儀式)が行われたと思います。その情報は当然、狗奴国にも届くはずです。
狗古智卑狗は、機運が熟したと捉えたんじゃないでしょうか。きっとすぐに、行動に取り掛かったことでしょう。
長年いがみ合ってきた二国が、倭国の新女王という新しい風と、そして、狗奴国の王子という伝統ある力によって結ばれ、二国が結束を硬くすることはすなわち、二国の更なる発展に繋がり、果ては本州、つまり出雲王国などへの侵攻も、可能になる。
そういった旨の親書を、新女王即位の祝いの品と共に使者に持たせて、倭国に送ったのだろうと、私は推測します。

狗奴国の王族はもしかしたら不服だったかもしれませんが、実権は狗古智卑狗にありますし、実際、国を広げるためには、倭国を何とかしないと始まらないのも事実です。ですから、多少の抵抗はあっても、この案は狗奴国内では通ったと思われます。

一方、倭国は、戦後直後に比べれば、国力が回復してきていただろうとは思いますが、全盛期の繁栄に比べれば、衰えのほうが目立ってきていたと考えられます。不弥国や投馬国といった新勢力も、全盛期の伊都国に比べれば、まだその足元にも及ばない程度の繁栄だったはずです。
長年、倭国政権の柱石を担ってきた裏の支配者・月読も、自国の衰えや自身の体力の衰えから、卑弥呼を傀儡として意のままに国を動かしていた頃とは違い、政治に関する優れた直感や洞察力、判断力、決断力、そして何より、他者を従える「絶対的な権力」が、徐々に弱ってき始めていた頃だと考えられます。
そんな時に持ち込まれた和合案=政略結婚話。
倭国内でも、最初は意見が割れたと思います。しかし、むげに提案を撥ね付けて、狗奴国が戦争を仕掛けてきたら、過去、今よりも国力があったにも関わらず敗戦に近い経験を持つ倭国は、今度こそ負けて、領土を全て乗っ取られてしまうかもしれません。それに、不弥国や投馬国などの新勢力は、国内交易の中で、出雲地方や吉備地方、近畿地方の土地の魅力を知っているはずです。それと同時に、避けて通れない出雲王国という巨大な壁がそこにあることも、彼らは知っていたはずです。
出雲地方の豊富な鉄源。そして、その先にある、農耕に適した広い大地。倭国が、それらを手にするには、大陸や半島からの鉄の輸入がままならなくなった今、狗奴国の鉄をあてにする他、ありません。
というわけで、主に、本州の土地を欲した新勢力の押しの一手で、この提案は受諾されたものと考えられます。当然、月読の意思がそこにないと、台与は動きませんから、月読も賛成だったのだと思われます。鉄は長年に渡って、月読の欲しいものリストナンバーワンだったはずですし(笑)、本州への領土拡大も視野に入れれば、悪い話ではないですからね。自分がいる限りは、狗奴国の王子に国を乗っ取らせない自信もあったのだろうと思います。

恐らく時期的には、西暦267~270年くらいだったんじゃないでしょうか。
台与は、好き好んでなったわけでもない女王という立場のせいで、強制的に、好き好んだわけでもない男性の妻にされてしまいました。(と、私は推測してますw)

王家の娘とはいえ、弥生時代はまだ、対偶婚(男女が好きあって相互の同意で結婚する)が、主流だったといいます。
女王にされてからは、自由もへったくれもない生活だったでしょうが、即位当時十三歳だったという年齢を考えれば、もしかしたら、その時既に思いを寄せていた男性がいたかもしれません。もしくは、この政略結婚話が持ち上がった時、既に彼女は三十代前半だったわけですから、卑弥呼が昔、月読と通じていたように、好きな男性と密かに愛を育んでいたかもしれません。それどころか、台与は多少占いが出来ても、卑弥呼とは違ってシャーマン=巫女ではなかったのですから、既に結婚していた可能性だってあります。
それをすべて、父親によって無理やり座らされた女王という椅子のために、彼女が捨てなくてはいけなかったのかと思うと、後の戦国時代のお姫様達もそうですが、何だか哀れに感じてしまいます。
せめて、狗奴国から送られてきた王子(当時の結婚は妻の家に夫が入る)が、いい人であったならいいと願いますが、お墓が並んで作られていないことを考えると、何とも言えないなぁと思います。まあ、平原遺跡台与のお墓だと思っているのは、私の個人的な推測に過ぎないので、本当のことは分からないですけどね。って言ったら、それこそこの話自体、私の推測、推察、妄想で出来ている、殆ど何の根拠もないものなんですけどね(笑)。

私の考えでは、四世紀に入る前に、恐らく台与は亡くなっています。
それが、病気だったか、はたまた暗殺だったかは、今となっては誰にも分かりませんが、私は殺されたんだろうと思います。

台与狗奴国の王子と結婚したことで、倭国は、女王と王がいる国になりました。勿論それでも、それまでのように、政治は、諸国の王達の間でなされていただろうと思いますが、最終決定権はやはり、女王(の占い)にあったと思います。それが伝統ですし、力が衰えたとは言え、月読はまだ健在なのですから、彼がいる限り、その形は変わらなかったと思います。

人は歳を取ると、頑固になりやすい生き物です。そして、人によっては、偏屈にもなりやすい。当然、月読だって、本州への勢力拡大は本意だった思いますが、長年権力の座にあった彼は、自分こそが、その主力になって事を動かしていくべきだと考えていたのでしょう。しかし、新勢力は当然、自分達のほうが勢いもあるし、世事にも敏感だと思っているでしょうから、女王の名の下に利権をすべて自分のものとして考える月読のやり方は、新勢力に、今の政治のあり方に対する不満を抱かせる結果になっていきます。
正しいと信じる意見を真っ向から述べたところで、聞き遂げられることは殆どなかったことと思います。恐らく、月読は歳を取ったことで、自分より下だと思っている若い勢力に対し、特に頑迷固陋な態度を取っていたのではないでしょうか。なまじ頭が良いだけに、自分が一番正しいと、思い込んでしまっていたとも考えられます。
そうしてどんどん、不満が募っていき、新勢力にとって、月読は煙たいだけの存在になってしまったのでしょう。
自分達が自由に意見を出し合い、政治を行うには、月読をその裏の場所から引き摺り下ろすしかありません。
月読の傀儡政治の生命線は、台与です。彼女が女王でなくなれば、現役の伊都国王でもない月読はもう、政治に口を挟む権利はなくなります。
そもそも、新勢力が、狗奴国との政略結婚を推し進めたのは、狗奴国の鉄源を得るため。それを手に入れた今、月読の傀儡である女王にはもう何の利用価値もないですし、女王を廃しても、彼らには、王がいます。狗奴国といった心強い後ろ盾を持つ、この新しい国王が、新勢力の希望となるのは、長年、月読の傀儡政治に支配されていた倭国の内情を考えれば、当然の結果だったとも言えるでしょう。もし、狗古智卑狗がそこまで考慮に入れて、この政略結婚の話を持ちかけたのだとしたら、狗古智卑狗の頭の良さは、月読以上だったということになります。もしかしたら、それは、官という身分に生まれた天才と、王という身分に生まれた天才の性質の大きな差だったのかもしれません。

とはいえ、新勢力の中にも、女王を廃することは恐れ多いと考える人達もいたでしょう。倭国の臣民にとって、台与月読の娘でありながら、卑弥呼の宋女とされた正当な女王です。その作り上げられた正当性ゆえに、それまで誰もが、大なり小なり月読の傀儡政治に不満を抱きながらも、誰一人として直接異議を唱えることが出来なかったと考えられます。月読は恐らく、そこまで考えて、台与卑弥呼の宋女と発表したのでしょう。
ですから、女王を廃する動きは、主に新勢力の急進派の間で進められたと考えていいと思います。倭国同盟時代の昔から、同盟に名を連ねていた国の王には、卑弥呼の流れを汲む女王を廃することなど、恐れ多くてとても出来ないことだと思います。不弥国は(あくまで私見ですが)、倭国同盟の基礎を築いたといってもいい奴国の隣に位置することを考慮しても、同盟時代から名を連ねていたと考えられます。ですので、私の考えでは、その急進派の多くは、投馬国に存在していたことになります。
一方、月読も、自分の権力に翳りをさす不穏な影に気づいていたと思います。しかし、彼は、自分が命を狙われることはあっても、卑弥呼の流れを汲む正当な女王として、恭しく奉り立てた台与が狙われるとは、夢にも思っていなかったのでしょう。その根拠のない自信と驕りと油断。若い日の彼ならば、けして犯さなかっただろう、この決定的な間違いこそが、彼が政治家として衰えたという証拠だとも言えます。

そうして、女王・卑弥呼に続き、女王・台与も殺されました。
倭国の女王は、その名の響きが持つ栄華とは裏腹に、二人とも、非業の死を遂げたわけです。

台与は、恐らく毒を盛られたのではないかと、私は考えています。疑う者がいたところで、当時は検死なんてあるわけないし、死因は病気だとされたのでしょう。そして、彼女は、古くからの習わしで、生まれ育った場所の近く、つまり、伊都国王家代々の土地(建前上、卑弥呼の宋女でも、伊都国が養女としていたのだから、育った場所は伊都国で問題ないはずです)に埋葬されたのだと、私は思っています。
また、その十年以内には、月読も亡くなっていると考えます。台与の死月読の死。これによって、倭国同盟時代からその名を周囲に知らしめ、初期倭国の全盛期を支えた伊都国王家は、表舞台から消えてゆくことになります。

ただし。
私が考える仮説(妄想)によると、台与は生前、子供を産んでいます。狗奴国の王子、つまり、倭国王となった彼の息子を。
そして、月読にも、正室や側室との間に設けた子供とは別に、子供がいます。卑弥呼が産んだ彼の息子です。

伊都国王家が没落しても、彼らの血は子供達を通して、脈々と時代の中で生き続けていくわけです。


そうして、時代は「謎の四世紀」へと突入していくわけですが。
今回はこのへんで区切ったほうが、キリがいいでしょう。もう充分、長くなっちゃいましたしね(笑)。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、謎の四世紀。百済と倭国を結ぶ七支刀の謎と、ここにきてやっとこさ(笑)、古代出雲王国や近畿の王国の話に繋がっていきます。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。


○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○

<伊都国王女の墓>

福岡県糸島市にある平原遺跡は、弥生時代後期のものと考えられる遺跡で、方形周溝墓3基と、円形周溝墓2基で構成されており、その1号墓が、王族のものとして考えられている。
1号墓は、東西約14メートル、南北約10.5メートルの長方形の方形周溝墓で、出土した遺物などから、弥生時代後期頃に造られたと推定される。墓の周囲には幅1.5メートルから3.3メートル、深さ30センチから10センチ程の周溝があり、中心部には、長さ3メートル、幅90センチメートルの割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせ棺とした物)が埋納されていた。
副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉や、メノウ製管玉などの玉類が、多数発見されている。銅鏡の中には直径46.5cmの内行花文鏡が5枚あり、これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものである。また、ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も、弥生時代としては日本一で、伊都国王家の墓に相応しい内容となっている。
この墓に葬られた人物は女性、つまり、女王ではないかと考えられている。その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、ネックレスやブレスレットなどの装身具が多いこと、中国で女性が身につける「じとう」といわれるイヤリングが副葬されていることが、挙げられる。ちなみに、この1号墓から出土された副葬品は、すべて国宝に認定されている。
また、平原遺跡は多くの謎に包まれた遺跡で、そのひとつは発見された銅鏡が全て割られていたということ。発掘主任者である原田氏(考古学者)によると、故意ではなく事故で割れたものとの見解がされているが、王家のそれも女王かとも思われる人物の副葬品(しかも当時、銅鏡はとても貴重なものだった。普通なら慎重なほど丁寧に、墓に納められるはずのもの)なのに、そんなミスが許されるのだろうかと、ちょっと思う。
また、1号墓の東側には、直径70cmの大柱が立てられていた。この柱は、長さが20mにも及ぶと推定される巨大なもので、長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられていたことが、判明している。しかしながら、この大柱が何のために立てられたのかは、今のところはっきりと解明されていない。大柱は王墓から見て東に位置することから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものと考える専門家もいるそう。
また、発掘主任である原田氏はこの墓を玉依毘売命(イツセや、イワレビコ(神武天皇)の母)、大日孁貴(アマテラスと同一視されている神)のものとしている。私も台与が、イワレビコのモデルになった人の母だと考えるので、ちゃんとした考古学者の先生が、このお墓を玉依毘売命のものとしてくれるのは嬉しい。


<1号墓の主な出土品>

・大型内行花文鏡(別称、内行花文八葉鏡。直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡)、5面
・内行花文鏡、2面
・方格規矩鏡、32面
・四螭文鏡、1面
・メノウ製管玉、12個
・ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉、3個
・ガラス丸玉、約500個
・ガラス小玉、一括(約500)
・ガラス管玉、一括(30以上)
・ガラス連玉、一括(約866)
・耳璫(じとう=耳飾、耳珠)、3
・素環頭大刀、1振
・鉄鏃、10
・鉄ヤリガンナ、1
・鉄のみ、1
・鉄斧、1

以上。

<平原遺跡、方形周溝墓(1号墓)> 写真提供:Heartoftheworld


ここに眠っている人は、本当は誰で、どんな暮らしをしていたのだろうなぁ…。


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2 Comments

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Unknown (赤猫)
2012-10-25 17:16:00
すげーな。こんだけ面白くまとめられるとは。俺もこんなにまとめれたら牛鬼も巨石もヒバゴンもツチノコも伊勢神宮も書くことができるのに…。

マジのんさんかっけーです。
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Unknown (のん)
2012-10-25 20:45:09
ほんと? マジかっけー? やっほいww

色々調べなおしながら、頭の中の歴史(←自分勝手な解釈のw)の整理を言葉でしてるだけなので、後々読み返すと、バカ丸出しで、我ながらちょっと恥を知れと、自分で思うところがあったりするんですけど(苦笑)、少しでも面白がってもらえるなら、嬉しいですvv

赤猫さんは、奈良だから、綺麗ででっかい古墳とかがいっぱいの環境で育ったんでしょう? いいなぁvv 

牛鬼も巨石もヒバゴンもツチノコも伊勢神宮も、書いてくださいよ~!
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