硝子のスプーン

そこにありました。

神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。補足。

2012-10-25 19:18:11 | 日記(雑記)
ちょっと早めに帰れたので、色々振り返って試行錯誤した結果、「神話になる前の日本古代史について、ちょっと考えてみた。7」からは、出雲王国の初期時代(邑連合時代)まで、時間を遡って、出雲王国についての考えをまとめようと思います。
「6」までで、九州方面は、四世紀に入りかけてるけど、こちらはまた、紀元前からに戻ります。
なので、ここでひとまず、古代の九州勢力についての私の考えの総まとめと補足をしておこうかと思います。
書物や遺跡などの歴史的資料と時代背景、そして、そこに生きていただろう人間の心情を、私なりに考え考えまとめてきましたが、後々見直すと結構、抜けているところがありましたので(笑)。

<仮説まとめ年表> 
※主に、倭国に関することのみ記述。
※※あくまで、仮説年表(笑)
太字黒の箇所が、史書などに記された出来事。黒文字が推測による仮説。青文字が、推測から来る想像(妄想)。


BC1000年頃~ 中国大陸や朝鮮半島を通じて、北部九州の一部に稲作が伝わる。

           北部九州日本海沿岸の一部の邑(集落)で、渡来系弥生人の技術により稲作が本格的に開始される。
           同時に、鉄器や青銅器なども、持ち込まれる。

           土地や水をめぐって、縄文系文化人と弥生系文化人の摩擦が生じ、争いが始まる。

           北部九州の一部の邑と邑の間で、倭国同盟が結ばれる。

BC 600年頃~ 北部九州の一部、渡来人との関わりの深い邑で、鉄が普及する。

BC 400年頃~ 北部九州一帯で、本格的に稲作が始まる。

           縄文系文化人と弥生系文化人、また、同じ弥生系文化人の間でも、争いが激化する。
           北部九州各地で、環濠集落が作られ始める

           北部九州一帯で、鉄が普及する。加工等も開始される。

BC 100年頃~ 邑同士の争いの末、倭国同盟が北部九州一の勢力として君臨する。

AD 57年頃~ 倭国同盟の盟主として、奴国王が楽浪郡に使者を送る。漢倭奴国王の金印が賜与される。

AD 100年頃~ 海外交易等の成功により富を得た伊都国王が、奴国王に代わり、盟主となる。

AD 107年頃~ 伊都国王・帥升等が使者を遣わし、後漢の安帝に生口160人を献上する。

           気候の変化(寒冷化)により、稲作などの収穫率が減少傾向に入る。

           後漢が衰退しはじめる。

AD 140年頃~  伊都国王・帥升が没し、伊都国の王族内で後継者争いが始まる。

           第二次渡来ブーム(造語)。

           土地問題と食糧問題が深刻化する。

           伊都国王家の後継者争いの長期化、また食糧難などで、倭国同盟が一時的に衰退する。

           倭国大乱。(非同盟国の決起による侵攻。または、同盟国内の農民一揆?)

           月読が、伊都国王になる。

AD 189年頃~  卑弥呼が女王に共立され、邪馬台国に都が置かれる。(倭国連合国の誕生)

           伊都国王が一大率になる。

           女王の名の下、倭国内の反抗勢力(土蜘蛛など)の征伐が、本格的に始められる。

AD 204年頃~  女王の名の下、帯方郡にて、公孫氏に朝貢する。

           この頃くらいから、出雲王国などとの国内交易も頻繁に行われる。

           倭国、全盛期に入る。

AD 236年頃~  月読が、海外情勢の新情報を持って、邪馬台国に滞在。卑弥呼と愛人関係になる。

AD 239年頃~  女王の名の下、難升米らを遣わし、魏の明帝に朝貢する。
           卑弥呼には親魏倭王の称号と共に金印紫綬の仮授、難升米、牛利には、率善中郎将と率善校尉の官位と銀印青綬が賜与される。

           月読、譲位。居を伊都国から、邪馬台国に移す。

AD 240年頃~  帯方郡太守・弓遵の使者、梯雋らが金印や下賜品を持って、倭国を訪れる。

           伊都国、全盛期に入る。

AD 243年頃~  伊聲耆、掖邪狗ら八人を使者とし、魏に朝貢する。掖邪狗らに、率善中郎将の印綬。

           月読の傀儡政治が目立ち始め、月読派と邪馬台国王派で、国内勢力が二つに分かれる。

           卑弥呼、月読の子(男児)を出産。

           狗奴国への侵攻の準備が本格的に始まる。

AD 245年頃~  魏より、難升米に黄幢(黄旗。高官の証)が仮授される。

           狗奴国との戦争開始。

           邪馬台国王が、侵攻作戦上で、何か重大な失態を犯す。(大事な拠点を奪われたとか)

           卑弥呼と月読の仲が冷えてくる。                

AD 247年頃~  載斯、烏越らを帯方郡に派遣し、魏に助太刀を頼む。

           3月24日、北部九州で皆既日食。
           卑弥呼、後に太陽神として関連付けられる祈祷を行う。(不安に怯える民の前に姿を見せて、祈祷している間に、日食が終わったとか)

AD 248年頃~  卑弥呼、死去。月読による殺害。宮殿が、ほぼ全焼する。

           女王の名の下、狗奴国と休戦協定を結ぶ。

           伊都国王が、暫定的に倭国王に就任。

           卑弥呼の墓塚が作られ始める。(表向きは、大勢の戦死者のためのものとする)

           敗戦の責を問われ、邪馬台国王が乱を起こす(造語:邪馬台国王の乱)。

           邪馬台国王を南九州(襲の国)へ追放。

           倭国王退位。

           9月5日、北部九州で皆既日食。
           月読の策で、台与が卑弥呼を装い、祈祷する。(民からは、はっきり見えない遠い、高い場所で。ばれるかな?)

           月読と口裏を合わせた一部の諸公が、台与を「卑弥呼の宋女」として女王に推薦する。

           台与、女王に共立される。また、卑弥呼の息子は卑弥呼の身内として、台与に育てられる。

           遷都が決定する。

           帯方郡太守・王頎の部下、張政らが詔書、黄幢を持って倭国を訪れる。

           卑弥呼の墓塚が完成し、葬儀が行われる。(表向きは、戦死者のため)

AD 249年頃~  新しい都作りが開始される。

AD 260年頃~  交易の不況などにより、伊都国が徐々に衰退に向かう。

           不弥国や投馬国などの新勢力が、伊都国に代わり、台頭してくる。

AD 263年頃~  中国で、蜀漢が滅びる。

AD 265年頃~  都の完成。新女王の即位を公布。

           中国で、魏が滅びる。

AD 266年頃~  張政らが、帰国。
           女王台与の名の下、掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らを送り届け、男女の奴隷三十人などを献上する。

AD 267年頃~  狗奴国の狗古智卑狗から、王と女王などの和合提案が持ちかけられる。

AD 268年頃~  倭国、狗奴国との和合案を承諾。倭国の有権者の姫達数人が、人質として先に狗奴国に送られる。

AD 270年頃~  台与、狗奴国の王子と結婚。これにより、両国が合併。
           狗奴国王子の従者として、狗古智卑狗の後継者的存在の官が倭国入りし、彼が政治に参加する。

           台与、狗奴国の王子の子を出産。

           倭国、並びに狗奴国、鉄と地の利で、国営が再び軌道に乗り始める。

           月読の傀儡政治に、新勢力の不満が集中し始める。

           新勢力派と、狗古智卑狗の後継者的存在の結びつきが強くなる。

           台与、二人目の子を出産。

           新勢力の急進派の間で、女王を廃し、狗奴国王子を王に望む声が高まる。

AD 280年頃~  台与、死去。(新勢力の急進派による殺害。)  

           狗奴国の王子が、倭国王に就任。(月読の傀儡政治の終わり)

           中国で、西晋によって、呉が滅ぶ。三国時代が終焉する。

AD 281年頃~  台与の墓が完成。葬儀が行われる。

           月読、死去。(←ちょ、60歳越すんだけど、この人。長生きすぎるよね…)

AD 283年頃~  新勢力による倭国の本州侵攻計画の準備が、本格的に進められる。

AD 285年頃~  第一次偵察部隊が、下関海峡、瀬戸内海を渡って、山口・広島方面へ。



<補足>
※皆既日食の一件で、卑弥呼は太陽さえも操れる偉大な女王として、民の心に刻まれてしまっている。
※倭国王(狗奴国王子)は、台与との結婚前に狗奴国に妻がおり、そこでも子をなしている。
※倭国王(狗奴国王子)は、台与との結婚と同時に、不弥国、投馬国などの姫も、妻(側室)に迎えている。
※卑弥呼の息子は、あくまで、卑弥呼の血筋の者とだけされており、息子とは公表されていない。
※出雲王国は勿論、近畿方面にも、大和王国が存在するものとする。
※この頃の規模は、出雲王国≒倭国連合国>大和王国、か、出雲王国>倭国連合≒大和王国と、考える。


<記紀神話の登場人物との比定>
※ただし、神話上の人物は、色んな伝承からなる偉大な人物の複合体と考えるため、血縁関係、出身地(生誕地?)、並びに年代とかは深く考えない。
また、複数のモデルから作られているのが決定的な人の場合(寿命が何百年とかそういう登場人物)、後の出雲編や大和編で出てくる人たちの中にも、それに当てはまる人達がいると考える。

■卑弥呼→ アマテラス? 神功天皇?
■月読→ タカムスビ? オモイカネ? ツキヨミ?
■邪馬台国王→ イサオ(熊襲の王)の祖父? スサノオ(高天原追放編のみ)?
■台与→ タマヨリヒメ?
■狗古智卑狗→ タカギ(タカムスビ)? カミムスビ?
■卑彌弓呼(狗奴国王)→ オシホミミ?
■狗奴国王子(倭国王)→ ニニギ? オシホミミ?
■狗奴国王子の息子で、二代目の倭国王(台与の長男)→ ニニギ? 景行天皇? 
■狗奴国王子の息子で、狗奴国王子(側室の子)→ ホデリ? 景行天皇?
■狗奴国王子の息子で、狗奴国王子(側室の子)→ ホオリ? 景行天皇?
■狗奴国王子の息子で、倭国王子(側室の子)→ イツセ?
■狗奴国王子の息子で、倭国王子(側室の子)→イナヒ? ミケヌ?
■狗奴国王子の息子で、倭国王子(台与の次男)→ イワレビコ(神武天皇)? 
■卑弥呼の息子→ アメノホヒ? アマツヒコネ? 
■狗古智卑狗の後継者的な官→ 武内宿禰?



やっぱり、無理があるかなぁ……。
伊都国は間違いなく、渡来系の人の国だったと思うし、狗奴国も、恐らく、渡来系だと考えられるから、「海から渡ってきた人達=天津族」という認識が生まれても、おかしくないとは思うんだけど……。

とにかく、一旦、九州勢力とお別れして、出雲編に、頭を切り替えます。
この先もお付き合いくださる方は、どうぞ宜しくお願い致します。

最新の画像もっと見る

8 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2012-10-27 11:32:11
う~んと…【仮説年表】の事なのですけれど、中国の文献や遺跡等の「史料」に記述された内容と、そこから導き出される「推察」、それと、その推察からの更なる「想像」、この3つについて ある程度区別が付くように、文字のフォントを変える等の方法で読んでいる側にも分かりやすくして頂けると助かりますぅ。。のんさんご自身が後で見なおされる時にも都合がいいと思います。せっかくきちんと史料にも当たっておられるので、全てが「想像」と受け取られないためにも。もったいないです。

あと、弥生人って平均年齢は30前後じゃなかったっけ。。月読の60はさすがにキツイかも。
返信する
Unknown (のん)
2012-10-28 02:37:15
遅くなってごめんなさーい!
ご提案通り、分けてみました。少しは見やすくなりやしたでしょうか??

やっぱ、月読、長生きしすぎですよね~~…。でも、一応、50~60代くらいだろうと思われる弥生人の骨が見つかってるそうなので、有り得なくもないかなぁ…と思いつつ、いやでもなぁ…うーん…。と、思いつつ(笑)。
一般庶民よりは、いいもの食べて、いい環境で寝起きしてたはずだから、ある程度は長生き出来たとしても、やっぱ60歳越えは、厳しいですよねぇ…。(悩)
伊都国王墓から発見された骨が、何歳くらいのものか、学者さんが発表してくれたら、推理しやすくなるのに~~~(悩)
返信する
Unknown ()
2012-10-28 19:35:49
ありがとう~♪分かりやすくなりました。
お忙しいのに、急かしたみたいでごめんね。

>50~60代くらいだろうと思われる弥生人の骨

神戸の新方遺跡の女性の人骨のことかな…。あれは良く残っているからね~発掘報告書は見たことがないのだけれど、保存状態が良好で年代測定ができる人骨が、伊都国の王墓(と推定される墓)からも出てるの?

のんさん仰るところの月読の立場なら、接待も多くて「ビフ酒」wやってそうだし、ストレスも多大だろうし、こういう野心家って長生きだろうか…卑弥呼が「年長大」だったのは、やっぱ深窓で抑制のきいた生活をしていたからのようにも思うな~お坊さんとか長生きの人多いし。。違うかw

あと、卑弥呼の時代の前伊都国王を「月読」とした根拠をどこかに記述されていました?私の見落としなら申し訳ないのですが。
返信する
Unknown (のん)
2012-10-29 07:44:06
卑弥呼の時代の前伊都国王を月読とした根拠、というのは、神話のツキヨミノミコトに比定した根拠ってことですか?? それとも、卑弥呼の時代に月読が既に家督を譲ってて、前伊都国王になってるとする仮説の根拠???
神話のツキヨミのモデルの一人と比定するのは、アマテラスのモデルの一人が、卑弥呼だとする場合、アマテラスとツキヨミノミコトの関係が、卑弥呼と月読にどことなく似ているなぁと思うからなのですが…。古事記の場合→アマテラス(太陽)が目立っていて、ツキヨミ(月)はあまり出てこない。光と影=表と裏の関係。日本書紀の場合→失敗を犯して、アマテラスを怒らせ、距離を取られている。
卑弥呼の時代に月読が既に前伊都国王だとするのは、伊都国王だと、公務が忙しくて邪馬台国(卑弥呼の傍)にいられないだろうと思うからです。

>50~60代くらいだろうと思われる弥生人の骨
よくよく見直したら、弥生人じゃなくて、縄文人だったです……。『月間考古学ジャーナル』(←私も毎月購読してるわけじゃないですが、結構面白いですよ~vv)で、読んだ記事なんですけど、骨から年齢を調べる調査法を、従来の「恥骨結合面」からの推測ではなく、「腸骨耳状面」を検討対象として調べなおしたところ、岩手県の蝦島貝塚や千葉県の祇園原貝塚など、九つの遺跡から出土した86体の人骨のうち、65歳以上が三割を占めたそうです。この結果を発表したのは、長岡朋人氏という学者さんで、多分、検索すればネットとかでも、長岡氏の記事を読めると思いますvv 興味あったら、是非vv

ビフ酒ww 私もしたいビフ酒ww←コラ。
弥生人の食生活っていうのが、米(稲作の生産量は、弥生時代はまだまだ低いとされてます)だけじゃ無理なので、 縄文時代から作られていた大麦や小麦、ヒエやアワ、後、縄文から続くドングリなどの堅果類などを米と混ぜ合わせたものが、主食だっただろうと言われています。副食の中心は魚介類で、地域の海によって捕れるものが変わってきますが、暖流域ではタイ、サメ、イルカなどが採られるほか、二枚貝、サザエ、アワビなども盛んに採られていたとされています。実際今も九州では、タイはよく取れますし、サザエやアワビなんかも、山のようにとれます。(余談ですが、うち、父方の家系が代々漁師なんです…。おかげで、魚介類関係が、親戚から山のように送られてきます。実を言うと、あんまり魚好きじゃないから、おすそ分け出来るものなら、したいくらいありますよ、ほんと…(涙))
肉類は、九州の場合、イノシシやタヌキなどが主流だと思います。シカは見ないけど、イノシシやタヌキは、普通に今も山にいますし。←どんだけ田舎やねんww ただ、肉よりも魚が中心だったのは、間違いないです。
あと、ウリ科の植物や果物が栽培され始めたのも、弥生時代からなので、果物類も食べてたらしいです。
そして、魏志倭人伝によると、倭国の人は、冬でも夏でも、野菜を食べてたらしいですから、青物も食べてたはずです。縄文・弥生時代から食べられていただろう野菜は、大根、かぶ、大豆、れんこん、ごぼう、ねぎ、里芋…らしいですが、私は、アカザ、ヒユ、ナズナなどの雑草系(実際、古代中国の農民は畑の周りに生えた雑草を主に食べてたらしいです。畑のものは王に献上するから自分達は食べられなかったそうで…酷い話ですわ)や、日本に原種がある小松菜(の古代種?)なんかじゃなかったのかなぁって思います。
伊都国王は裕福だったから、庶民にくらべれば、米多めの麦飯を食べて、毎日取れたての鮮魚が食卓に上がって、雑草系の青物も食べて、たまにイノシシなんかのご馳走があって、季節ごとの果物なんかも、食べれたはずです。栄養状態は、庶民に比べて遥かによかったと思います。だから、一般庶民よりは、長生きできたんじゃないかなぁと思うのですが……。うーん……。分からないww

って、べらべら喋ってたら(書いてたら)、めっちゃ長くなってました(汗)。これでも随分消したんですが、まだ長いですね(大汗)。ごめんなさい。適当に流し読みしてくださいね、ごめんなさい。

出雲の歴史を調べなおそうと思って、色々読んだり見たりしてたら、面白くて、つい、読むほうにはまっちゃって、なかなか「7」にいけなくて、困ったものです(大笑)。
返信する
Unknown ()
2012-10-29 21:39:07
「神話のツキヨミノミコトに比定した根拠」です。のんさんの書いておられる古代史の中で「前伊都国王」は重要人物なので、どこかにこの説明がほしかったので。あと、長文コメ返、全然OKですwコメントのやりとりは、記事の補足にもなると思いますし、私への分についてはご遠慮なく。

魚、送って~(笑)
確かに、伊都国王は庶民に比べれば長生きだった可能性は高いですよね。問題は60を越えるところまで生きたかどうか。

長岡氏の記事、ネットで読みました。貝塚付近に埋葬される縄文人の方が、骨が残りやすくてデーターを取りやすいのでしょうね。確かに30代で皆が寿命となると、生活が立ちいかなくなる面が出てくるかもね。この記事を読んだ印象でしかないけれど、50代以上が3割程度いない集団は存続が難しくなる可能性があるのかも。。
高齢の弥生人骨が出土した新方遺跡の概要は、「新方遺跡(1999.11.14)(PDF形式:509KB)」 を検索すれば読めるよ。

でもね~月間考古学ジャーナルって…こんな雑誌読んでますって、気になる男性にいきなり言わないようにね。。w
返信する
お疲れ様です。 (山浦)
2012-10-30 01:16:24
夜分にこんばんは、山浦です。拝読させていただきましたよ。
私の戯言一言でここまで想像を膨らますとは、脱帽です。以前から度々、ただのキレイなお姉さんではないなと感じていましたが、やはり只者ではなかったか。
本日教えてもらった時点で、すぐにでも読みたかったのですが、平田の件がなかなか片付かず、帰宅が今晩も22時を過ぎました。少しは老体を労われと、今度あいつらに会ったら言ってやってください。
『九州説の皆さんのための古代史掲示板』には行かれましたか? 私は知っての通り、口下手筆下手なので、読者の立場でしか参加できませんが、あなたなら発言者の立場で参加できるのでは? 勝手に期待しております。
それから、秘密は守るのでご心配なさらぬよう。二人だけの秘密だなんて光栄至極です。廣瀬らへんが聞いたら、羨ましがってうるさそうです。
返信する
Unknown (のん)
2012-10-31 04:45:10
雪さんv

>気になる男性にいきなり言わないようにね。。w
大丈夫です、私、アニメに限らずオタクなことは、普通隠してますからw 実際、結構長い付き合いなのに、私がオタなこと知らない人達もいますしw

魚、もらってください、是非ご家族でどうぞ(笑)。もう、青とか白の発泡スチロールの箱がクール宅急便で届くたび、「うわあ…きやがった…」と、中身見る前から内心で超失礼&罰当たりなことを思ってしまう有様ですよ…。←コラ。
一回海老が好きっていう話を親戚のおじちゃんにしたら、生きた海老(←ぴくぴく動いてる)が届いて、マジで泣きそうになりましたよ。こんなん、さばけるかーっ!と…。実家に持っていって、母に頼んだら母も無理で、結局父を頼ったという苦い思い出があります。美味しく刺身で食べましたけどね。←オイ。

新方遺跡、読みました~! 新方遺跡にも、弥生時代前期に、頭、もしくは顔を西向きにして埋葬されている人達がいて、新しい驚きでした。やっぱり、私達が思ってるよりずっと、海上の行き来だけじゃなく、陸上の行き来も盛んだったんじゃないですかねぇ~。ううむ、楽しい。←? 絶対戻ってこれる&絶対安全という保証つきで、古代(縄文から飛鳥まで)に、タイムトラベルしてみたい~~ww
返信する
Unknown (のん)
2012-10-31 05:15:57
山浦さんv

いらしてくださったんですね! お疲れ様です。昨晩は早めにご帰宅できたでしょうか。今度お伺いさせていただいた時に、廣瀬さん達にお会いできたら、山浦さんに残業させるんじゃありません!って、叱っておきます(笑)。

只者どころか、予想を越えて、馬鹿者オタクだったこと、驚かれたでしょう。すみません、騙すつもりはなかったんです……(苦笑)。秘密厳守で、何卒よろしくお願い致します。 

『九州説の皆さんのための古代史掲示板』、行きました。あそこで発言するなんて、とてもじゃないですけど、私には無理ですよ! みなさん、学者さんですかと思うほど詳しいし、どこまでも深く調べていらっしゃるし。私なんか、鼻息で飛ばされてしまいますって。
私なんぞより、山浦さんのほうが何万倍も遥かに、遺跡も歴史もお詳しいのだから、謙遜なさらず発言されてくださいまし。山浦さんのお考えを聞いて、目から鱗が落ちる人は、私以外にも沢山いると思います。その人たちのためにも是非。

二人だけの秘密だなんて、今度お会いしたとき、顔がにやけてしまうじゃないですか、もう(笑)。また中島さんあたりに、「遊んでないで真面目に仕事しなさい!」って、怒られちゃいますね、二人して(笑)。
返信する