【3-1からのつづき】
<倭国の女王・卑弥呼の謎>
「その國、本また男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、すなわちともに一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。王となりしより以来、見る者少なく有り、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」
『魏志倭人伝』が、卑弥呼について我々に残してくれた情報です。
これによると、卑弥呼は鬼道を用いてよく民衆を惑わしたようですが、鬼道が一体どういう性質のものだったのか、実際には何もかも不明です。道教のひとつとして考える説もあれば、神道であるとする説もあるし、シャーマニズムだとする説もあります。私個人的には、古神道とシャーマニズムの融合だったんだろうと思いますが、何にせよ、彼女は何かしら常人と違う、稀有な能力の持ち主=霊媒者だったと考えるのが、通説かと思います。
当時の日本では、呪いが盛んでした。当時というか、遡れば旧石器時代から、死者を葬る際の独特の風習がありましたし、縄文時代は特に、呪術が盛んだった時代だと考えていいと思います。私達の祖先は古くから、精霊崇拝、また自然崇拝の信仰を持っており、それは今現代の私達の中にも根強く残っているほどですが、古代の倭人にとって、精霊や自然がもたらすとされる神秘的な力は、現代の私達には到底理解が出来ないほど、精神的にも政治的にも、深く強い影響力を持っていたと言われています。
卑弥呼が、倭国同盟の諸国内でも、もっぱら有名な、能力の高い霊媒者、つまり巫女だったと想像して、その時代の精霊信仰の度合いを考えれば、卑弥呼が君臣民の差なく広く人々から、恐れ敬われていただろうことが想定できます。
世に言う「倭国大乱」の末、倭国同盟の諸侯は最終的に、自分達とは関係ないところ(権力争いに無関係な人物)から王を選ぶという答えに落ち着き、高名な巫女である卑弥呼をその地位につけることで、同盟内諸国間での争いを避け、また長く続いた混迷期で離れてしまった臣民の心を「畏れ」を持って統治しようとしたのではないでしょうか。
そして、卑弥呼を女王として、その下に連なることで倭国同盟は、ここにきてやっと、「倭国連合国」、略して「倭国」へと姿を変えたのです。
卑弥呼を女王として共立した後の倭国は、政治的な組織や統治の仕組みを、駆け足で整えていきます。
それぞれの国には官と副官が置かれ(一部例外有り)、伊都国には二人の副官が存在し、また、伊都国には諸国を検察し恐れられる一大率という重要な官が置かれました。
一大率を仰せつかっていたのは、伊都国王で、帯方郡からの使者は、伊都国に留まることになっており、伊都国王は中国の都や帯方郡、朝鮮半島の国々に使者を出し、訪れた外国使者を港に迎え、文書や文物を誤りなく女王に伝える役目を担っていました。
なんか、おかしいと思いませんか?
まぁ、それは追々後述していくとして、その他、刑罰の制度も整い、租税、賦役を徴収する制度もあって、その税物を収める倉庫もあったようです。また、物資を交易する市があって、大倭という役人がそれを監督していたとの記述もあります。あと、もしかしたら、これより以前からあったのかもしれませんが、ここにきて身分の差も、大人、下戸、、生口と、はっきりと上下が区別されて記されていています。
また、倭国は海外との交易にも意欲的だったようで、公孫氏が西暦204年に、漢から楽浪郡の一部を乗っ取り帯方郡を設置してから、238年に魏に乗っ取られるまで、34年という短い期間にもかかわらず、倭国が公孫氏にも帯方郡を通して朝貢していたらしいことが、『魏書 韓伝』に、記述されています。
そして、公孫氏が魏に滅ぼされたその翌年の六月。倭国は、帯方郡を通して、今度は魏に使者を送っているのです。なんと迅速な行動でしょうか。素晴らしい外交手腕です。当時の交通手段や情報伝達速度を考えると、その素早さに驚きが隠せません。
帯方郡の太守だった劉夏もこれには感心したのか、使者達に官吏をつけて都まで送ってあげています。そして、肝心の魏帝の反応は、『魏志倭人伝』によると、
「その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉りもって到る。汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によきものを賜うなり』と。」
とあるように、異例の厚遇を受けていることが分かります。当時まだ、呉や蜀と覇権争いをしていた魏は、倭国が呉の東方にある国と意識して、戦略的に重要な国だと位置づけていたらしいですが、それにしても、倭国が献上じたのは、男性の生口四人と女性の生口六人と染めた布だけだったのに、下賜されたものの豪華さと来たら。今の時代なら、立派な貢がせちゃんですよ。
またこの時、卑弥呼には、「親魏倭王」の称号が贈られ、翌年の240年、帯方郡太守の弓遵が、皇帝の詔書と「親魏倭王の金印」、銅鏡などの下賜品を携えて倭国を訪れています。そして、『倭人伝』によれば「倭王に拝仮し、」と記されていますから、太守は倭王に直接会ったということになります。
再びですが、少し、「あれ?」と思いませんか?
卑弥呼は、女王となって以来、滅多に人前に姿を見せないとされているのに、魏の使者だから特別待遇で面会したのでしょうか? もし、太守が本当に、卑弥呼に会ったとするのなら、卑弥呼は今でいうところの「首脳外交」をこなしているわけで、俗に言われているように、神秘のベールの奥に隠れた謎の存在というわけでもなかったのかもしれません。それか、もしくは、太守が会った倭王は、女王卑弥呼とは違う人物だったか。なんて、ちょっと突飛過ぎますよね。でも、若き日の私は真剣にそれを疑っていました(笑)。
何にせよ、彼女が中国の言葉に通じていたとは思えませんから、当然、通訳がついたでしょう。それは当然、一大率である伊都国王だったでしょう。
また、一大率である伊都国王は、この時に限らず、卑弥呼と度々言葉を交わしているはずです。諸国の検察結果の報告もあったはずだし、交易で手に入れた文書や文物を誤りなく女王に伝える役目もあるんですから、話すなり何なりしなくては仕事になりません。書類だけを女官に渡す方法もありますが、はたして卑弥呼は字が読めたでしょうか? 私の考えでは、いいえ、です。
『倭人伝』によれば、この時代の倭人はまだ、簡単な衣服を作ることさえ出来ないんです。男子は布を袈裟みたいに体に巻きつけていただけですし、女性は単被の布に、穴をあけてそこから頭を出していただけ。しかもみんな、まだ裸足。そんな文化レベルで、識字率だけはあったするのは、ちょっと無理でしょう。だから当時の倭国で字が読めたのは、特権階級の、それも上層部にいるごく一部に限られていたと思います。
それに、国家の大事とも言える国内外の情報を、裏で誰と繋がっているか分からない女官を通して人伝にしていたとは、ちょっと考えにくいです。卑弥呼の時代でも、南の狗奴国のように従わず敵対する勢力がいたわけですから、万が一でも、彼らに有利でこちらに不利な情報が漏れてしまっては、一大事です。だから、彼は卑弥呼と直接、言葉を交わしていたはずなのです。
ここまで読めばお分かりになるでしょうが、倭国成立以来、伊都国王が妙に優位な立場にいると思いませんか? 確かに、伊都国王家には代々富みもあるだろうし、その王ともなれば、王子時代から大陸の文化にも通じていて、語学にも学問にも明るかったでしょうけども……。
さてここで、卑弥呼について残された情報を、『魏志倭人伝』を含む中国の書物から、重要箇所だけ拾い上げていきましょう。
『魏志倭人伝』
「年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。」
『後漢書』
「年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。」
『梁書』
「有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。」
『北史』
「無夫、有二男子、給王飲食、通傳言語。」
『隋書』
「有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。」
少なくとも、二人の男性の影が、卑弥呼の私生活から、垣間見えますよね。
一人は、政治を助けている弟。一人は、食事の給仕や言葉を伝える男性。
はたして、この二人は、誰だったんでしょうか。
卑弥呼には、弟がいたのでしょうか。国の政治を助けられるほど、有能な弟が。
卑弥呼政権には間違いなく、卑弥呼に代わって政治を行う存在がいたのは確かです。いくら卑弥呼が有能な巫女でも、中国の例に倣って国の仕組みを纏め上げる知識はなかったはずで、また、あれほど機敏に世界情勢に反応、対応できるほどの外交手腕が、卑弥呼自身の判断だけで行われたとは、私には思えません。外交に長けた誰かのアドバイスを受けているはずです。
そして、不思議なのは、食事の給仕や言葉を伝える一人の男性の存在。この男性の存在が示すものは、何なのでしょう。
食事の給仕は、女官ではいけないのでしょうか。彼女達は身分が低いからダメなのでしょうか。だったら、どこかの王族の姫を世話係として仕えさせるのが妥当ではないでしょうか。卑弥呼が巫女であるのなら、そういう性質を持つ女性は、未通であることが大事なはずです。男性はなるべく遠ざけねばならないはず。そう当然のように思ってしまうのは、現代人の概念に縛られすぎでしょうか(笑)。
また給仕だけでなく、言葉を伝えたともされるこの男性は、一体、誰の言葉を伝えていたのでしょう。卑弥呼の言葉を臣下に? それとも、臣下の言葉を卑弥呼に? それとも……?
と、謎を提起するだけして、一旦区切りますね(笑)。
また、気がついたら、長くなってしまいました。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、この謎の男性達にスポットをあてていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○
<魏志倭人伝が伝える、卑弥呼の時代の倭国の様子>
■「倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣」
=その地は温暖で、冬も夏も野菜を食べ、みんな裸足で歩いている。
結構、ヘルシーな生活をしていたっぽい。
■「食飲用籩豆、手食」
=飲食用の膳(皿ではなく、食べ物を乗せる台)を使い、手で食べる。
子供の頃、手で食べてみて、物凄い食べにくいと思った。箸って素晴らしいと思う。
■「其地無牛馬虎豹羊鵲。」
=その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鶏がいない。
猫は???
■「其風俗不淫」
=その風俗は淫乱ではない。
良いことだ。てか、何を見てそう思ったんだろう。そっちのほうが気になるw
■「其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶」」
=そこの風習では行動を起こすときには、その事柄を言い、骨を焼いて卜占で吉凶を占う。
占いが好きなのは、きっと古代からDNAに刻まれているせい。
■「其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒」
=集会での立ち振る舞いに、父子男女の差別がなく、人々は酒を嗜む。
素晴らしい。
■「其人壽考、或百年、或八九十年」
=そこの人は長生きで、或いは百年、また或いは、八、九十年生きる。
99.9%、嘘だw 確か縄文時代の平均寿命が、14~16歳だったはず。いくらなんでも一気に長寿になりすぎww
■「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌」
=高貴な人は皆、四、五人の婦人を持ち、或いは庶民でも二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。
元祖やまとなでしこ。
■「不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族」
=窃盗をせず、訴訟は少ない。法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族と親戚を滅す。
重罪、こえー…。ガタブルガタブル。
■「其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴」
=死ねば、棺はあるが墓はなく、土に埋めて塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、喪中は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。埋葬が終われば、家人は皆川で禊ぎをする。
葬式の風景(親戚が飲んで騒ぐ)は、現代とあんまり変わらないように思うw
■「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。」
=海を渡って中国に来るが、常に一人を頭髪を櫛で梳らず、蚤や蝨を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼ぶ。もし航海が吉祥に恵まれれば、その者に生口や財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す。その持衰の不謹慎が災いを招いたためという。
鬼か、お前らは!(((( ;゜д゜)))アワワワワ
<倭国の女王・卑弥呼の謎>
「その國、本また男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、すなわちともに一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。王となりしより以来、見る者少なく有り、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」
『魏志倭人伝』が、卑弥呼について我々に残してくれた情報です。
これによると、卑弥呼は鬼道を用いてよく民衆を惑わしたようですが、鬼道が一体どういう性質のものだったのか、実際には何もかも不明です。道教のひとつとして考える説もあれば、神道であるとする説もあるし、シャーマニズムだとする説もあります。私個人的には、古神道とシャーマニズムの融合だったんだろうと思いますが、何にせよ、彼女は何かしら常人と違う、稀有な能力の持ち主=霊媒者だったと考えるのが、通説かと思います。
当時の日本では、呪いが盛んでした。当時というか、遡れば旧石器時代から、死者を葬る際の独特の風習がありましたし、縄文時代は特に、呪術が盛んだった時代だと考えていいと思います。私達の祖先は古くから、精霊崇拝、また自然崇拝の信仰を持っており、それは今現代の私達の中にも根強く残っているほどですが、古代の倭人にとって、精霊や自然がもたらすとされる神秘的な力は、現代の私達には到底理解が出来ないほど、精神的にも政治的にも、深く強い影響力を持っていたと言われています。
卑弥呼が、倭国同盟の諸国内でも、もっぱら有名な、能力の高い霊媒者、つまり巫女だったと想像して、その時代の精霊信仰の度合いを考えれば、卑弥呼が君臣民の差なく広く人々から、恐れ敬われていただろうことが想定できます。
世に言う「倭国大乱」の末、倭国同盟の諸侯は最終的に、自分達とは関係ないところ(権力争いに無関係な人物)から王を選ぶという答えに落ち着き、高名な巫女である卑弥呼をその地位につけることで、同盟内諸国間での争いを避け、また長く続いた混迷期で離れてしまった臣民の心を「畏れ」を持って統治しようとしたのではないでしょうか。
そして、卑弥呼を女王として、その下に連なることで倭国同盟は、ここにきてやっと、「倭国連合国」、略して「倭国」へと姿を変えたのです。
卑弥呼を女王として共立した後の倭国は、政治的な組織や統治の仕組みを、駆け足で整えていきます。
それぞれの国には官と副官が置かれ(一部例外有り)、伊都国には二人の副官が存在し、また、伊都国には諸国を検察し恐れられる一大率という重要な官が置かれました。
一大率を仰せつかっていたのは、伊都国王で、帯方郡からの使者は、伊都国に留まることになっており、伊都国王は中国の都や帯方郡、朝鮮半島の国々に使者を出し、訪れた外国使者を港に迎え、文書や文物を誤りなく女王に伝える役目を担っていました。
なんか、おかしいと思いませんか?
まぁ、それは追々後述していくとして、その他、刑罰の制度も整い、租税、賦役を徴収する制度もあって、その税物を収める倉庫もあったようです。また、物資を交易する市があって、大倭という役人がそれを監督していたとの記述もあります。あと、もしかしたら、これより以前からあったのかもしれませんが、ここにきて身分の差も、大人、下戸、、生口と、はっきりと上下が区別されて記されていています。
また、倭国は海外との交易にも意欲的だったようで、公孫氏が西暦204年に、漢から楽浪郡の一部を乗っ取り帯方郡を設置してから、238年に魏に乗っ取られるまで、34年という短い期間にもかかわらず、倭国が公孫氏にも帯方郡を通して朝貢していたらしいことが、『魏書 韓伝』に、記述されています。
そして、公孫氏が魏に滅ぼされたその翌年の六月。倭国は、帯方郡を通して、今度は魏に使者を送っているのです。なんと迅速な行動でしょうか。素晴らしい外交手腕です。当時の交通手段や情報伝達速度を考えると、その素早さに驚きが隠せません。
帯方郡の太守だった劉夏もこれには感心したのか、使者達に官吏をつけて都まで送ってあげています。そして、肝心の魏帝の反応は、『魏志倭人伝』によると、
「その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉りもって到る。汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によきものを賜うなり』と。」
とあるように、異例の厚遇を受けていることが分かります。当時まだ、呉や蜀と覇権争いをしていた魏は、倭国が呉の東方にある国と意識して、戦略的に重要な国だと位置づけていたらしいですが、それにしても、倭国が献上じたのは、男性の生口四人と女性の生口六人と染めた布だけだったのに、下賜されたものの豪華さと来たら。今の時代なら、立派な貢がせちゃんですよ。
またこの時、卑弥呼には、「親魏倭王」の称号が贈られ、翌年の240年、帯方郡太守の弓遵が、皇帝の詔書と「親魏倭王の金印」、銅鏡などの下賜品を携えて倭国を訪れています。そして、『倭人伝』によれば「倭王に拝仮し、」と記されていますから、太守は倭王に直接会ったということになります。
再びですが、少し、「あれ?」と思いませんか?
卑弥呼は、女王となって以来、滅多に人前に姿を見せないとされているのに、魏の使者だから特別待遇で面会したのでしょうか? もし、太守が本当に、卑弥呼に会ったとするのなら、卑弥呼は今でいうところの「首脳外交」をこなしているわけで、俗に言われているように、神秘のベールの奥に隠れた謎の存在というわけでもなかったのかもしれません。それか、もしくは、太守が会った倭王は、女王卑弥呼とは違う人物だったか。なんて、ちょっと突飛過ぎますよね。でも、若き日の私は真剣にそれを疑っていました(笑)。
何にせよ、彼女が中国の言葉に通じていたとは思えませんから、当然、通訳がついたでしょう。それは当然、一大率である伊都国王だったでしょう。
また、一大率である伊都国王は、この時に限らず、卑弥呼と度々言葉を交わしているはずです。諸国の検察結果の報告もあったはずだし、交易で手に入れた文書や文物を誤りなく女王に伝える役目もあるんですから、話すなり何なりしなくては仕事になりません。書類だけを女官に渡す方法もありますが、はたして卑弥呼は字が読めたでしょうか? 私の考えでは、いいえ、です。
『倭人伝』によれば、この時代の倭人はまだ、簡単な衣服を作ることさえ出来ないんです。男子は布を袈裟みたいに体に巻きつけていただけですし、女性は単被の布に、穴をあけてそこから頭を出していただけ。しかもみんな、まだ裸足。そんな文化レベルで、識字率だけはあったするのは、ちょっと無理でしょう。だから当時の倭国で字が読めたのは、特権階級の、それも上層部にいるごく一部に限られていたと思います。
それに、国家の大事とも言える国内外の情報を、裏で誰と繋がっているか分からない女官を通して人伝にしていたとは、ちょっと考えにくいです。卑弥呼の時代でも、南の狗奴国のように従わず敵対する勢力がいたわけですから、万が一でも、彼らに有利でこちらに不利な情報が漏れてしまっては、一大事です。だから、彼は卑弥呼と直接、言葉を交わしていたはずなのです。
ここまで読めばお分かりになるでしょうが、倭国成立以来、伊都国王が妙に優位な立場にいると思いませんか? 確かに、伊都国王家には代々富みもあるだろうし、その王ともなれば、王子時代から大陸の文化にも通じていて、語学にも学問にも明るかったでしょうけども……。
さてここで、卑弥呼について残された情報を、『魏志倭人伝』を含む中国の書物から、重要箇所だけ拾い上げていきましょう。
『魏志倭人伝』
「年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。」
『後漢書』
「年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。」
『梁書』
「有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。」
『北史』
「無夫、有二男子、給王飲食、通傳言語。」
『隋書』
「有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。」
少なくとも、二人の男性の影が、卑弥呼の私生活から、垣間見えますよね。
一人は、政治を助けている弟。一人は、食事の給仕や言葉を伝える男性。
はたして、この二人は、誰だったんでしょうか。
卑弥呼には、弟がいたのでしょうか。国の政治を助けられるほど、有能な弟が。
卑弥呼政権には間違いなく、卑弥呼に代わって政治を行う存在がいたのは確かです。いくら卑弥呼が有能な巫女でも、中国の例に倣って国の仕組みを纏め上げる知識はなかったはずで、また、あれほど機敏に世界情勢に反応、対応できるほどの外交手腕が、卑弥呼自身の判断だけで行われたとは、私には思えません。外交に長けた誰かのアドバイスを受けているはずです。
そして、不思議なのは、食事の給仕や言葉を伝える一人の男性の存在。この男性の存在が示すものは、何なのでしょう。
食事の給仕は、女官ではいけないのでしょうか。彼女達は身分が低いからダメなのでしょうか。だったら、どこかの王族の姫を世話係として仕えさせるのが妥当ではないでしょうか。卑弥呼が巫女であるのなら、そういう性質を持つ女性は、未通であることが大事なはずです。男性はなるべく遠ざけねばならないはず。そう当然のように思ってしまうのは、現代人の概念に縛られすぎでしょうか(笑)。
また給仕だけでなく、言葉を伝えたともされるこの男性は、一体、誰の言葉を伝えていたのでしょう。卑弥呼の言葉を臣下に? それとも、臣下の言葉を卑弥呼に? それとも……?
と、謎を提起するだけして、一旦区切りますね(笑)。
また、気がついたら、長くなってしまいました。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。
次回は、この謎の男性達にスポットをあてていきたいと思います。
お付き合いくださる方は、どうぞよろしくお願い致します。
○●○ちょっと一息、歴史雑学豆知識○●○
<魏志倭人伝が伝える、卑弥呼の時代の倭国の様子>
■「倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣」
=その地は温暖で、冬も夏も野菜を食べ、みんな裸足で歩いている。
結構、ヘルシーな生活をしていたっぽい。
■「食飲用籩豆、手食」
=飲食用の膳(皿ではなく、食べ物を乗せる台)を使い、手で食べる。
子供の頃、手で食べてみて、物凄い食べにくいと思った。箸って素晴らしいと思う。
■「其地無牛馬虎豹羊鵲。」
=その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鶏がいない。
猫は???
■「其風俗不淫」
=その風俗は淫乱ではない。
良いことだ。てか、何を見てそう思ったんだろう。そっちのほうが気になるw
■「其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶」」
=そこの風習では行動を起こすときには、その事柄を言い、骨を焼いて卜占で吉凶を占う。
占いが好きなのは、きっと古代からDNAに刻まれているせい。
■「其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒」
=集会での立ち振る舞いに、父子男女の差別がなく、人々は酒を嗜む。
素晴らしい。
■「其人壽考、或百年、或八九十年」
=そこの人は長生きで、或いは百年、また或いは、八、九十年生きる。
99.9%、嘘だw 確か縄文時代の平均寿命が、14~16歳だったはず。いくらなんでも一気に長寿になりすぎww
■「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌」
=高貴な人は皆、四、五人の婦人を持ち、或いは庶民でも二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。
元祖やまとなでしこ。
■「不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族」
=窃盗をせず、訴訟は少ない。法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族と親戚を滅す。
重罪、こえー…。ガタブルガタブル。
■「其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴」
=死ねば、棺はあるが墓はなく、土に埋めて塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、喪中は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。埋葬が終われば、家人は皆川で禊ぎをする。
葬式の風景(親戚が飲んで騒ぐ)は、現代とあんまり変わらないように思うw
■「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。」
=海を渡って中国に来るが、常に一人を頭髪を櫛で梳らず、蚤や蝨を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼ぶ。もし航海が吉祥に恵まれれば、その者に生口や財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す。その持衰の不謹慎が災いを招いたためという。
鬼か、お前らは!(((( ;゜д゜)))アワワワワ