既に3ヶ月近くが経過してしまいましたが;、1月最後の週末に、北陸は能登半島にある街・七尾と加賀百万石のお膝元である金沢へ、冬の日本海の味覚を求める旅をしてきました。
冬こそ日本海!1月いっぱいが旬というブリを筆頭に、日本海から揚がる海の幸の宝庫である、北陸。
何度訪れても、そこは美味しい魅力の虜になること間違いなし!!
1泊2日という超駆け足な食べ歩きとなった今回の旅もまた、そんな素敵な冬の北陸に、味覚が魅了された旅となりました^^
まずは、能登の表玄関の街・七尾(ななお)までの道程を辿ります。
<京都→米原>
<米原→七尾>
※ ダイヤ改正により、実際に乗車した列車の時刻と異なっています。
1月の最終土曜日、朝の京都駅新幹線上りホーム。
今回の旅は、ここからのスタートです!
名古屋・東京方面へと向かう、上りの東海道新幹線で、京都の次の駅である米原へ向かいます。
9時9分発の、「こだま642号」東京行に乗車します。
本当は、これより約30分前に京都を出発する在来線の普通電車に乗車する予定であったのですが、自宅を出るのが遅れてしまい、乗り遅れました(爆)
特急料金の1,680円の出費は少し痛かったですが、新幹線がなければ、米原で乗り換える特急には間に合いませんでした…新幹線の有難さを実感です~^^
京都からおよそ70km離れた米原まで、「こだま642号」は僅か19分で走破!
定刻の9時28分に、無事米原に到着しました。
新幹線サマサマですw
本来乗車するはずであった、在来線の普通電車は、米原には9時44分着なので、17分も早く到着してしまいました。
米原で、北陸本線を走る特急「しらさぎ3号」に乗り換えます。
約30分の乗り換え時間なので、気持ちにも余裕を持って乗り場のホームへと移動することができます♪
「しらさぎ3号」富山・和倉温泉行も9時55分の定刻どおりに到着しました。
「しらさぎ3号」の始発駅である名古屋から乗車してきた同道者と、車内で落ち合いました。
「しらさぎ3号」は、米原から進行方向が変わり、名古屋から走ってきた先頭車が最後尾となって、9時59分の定刻に出発、北陸本線へと進入して北陸路を疾走します。
米原を出発して2時間47分…約240km強の距離を駆け抜けてきた和倉温泉行の「しらさぎ3号」は12時47分(定刻)、七尾に到着しました。
「しらさぎ3号」は、金沢で富山行と和倉温泉行とに分割されます。
最初の目的地である七尾は、和倉温泉の一つ手前の駅なので、今回は和倉温泉行の編成の方に乗車していました。
七尾駅構内、ホームの傍らにひっそり置かれていた、帝政ロシア製のレール!
この看板の手前に置かれている、何の変哲もなさそうな、錆びた1本のレールがどうやら「それ」らしいです。。。
1898年(明治31年)にロシア帝国(Российская империя / Rossiyskaya imperiya)で製作されて、昭和49年(1974年)まで使用に耐えていたとは…!!
流石は「おそロシア」製だけのことはありますねw
…というか、昔のものは、本当に長持ちしますね…このレールも、丁寧にシッカリと作られていたのでしょう。
こぢんまりとした佇まいの、七尾駅。
駅構内も地方都市の玄関口として程良い広さで、どこかホッと一息つける、優しげな雰囲気に包まれた駅でした(^-^)
ひとまず、予約してあった駅前のホテルへ、荷物を預かってもらうために向かいます。
七尾駅前に立っていた、長谷川等伯の像。
松林図屏風等の作者にして桃山時代を代表する絵師の一人である長谷川等伯は、天文8年(1539年)に七尾で誕生しました。
地元の彫刻家によって平成7年(1995年)に建てられたこの像は、七尾を旅立とうとする等伯の姿を模ったものとのことです。
故郷を旅立つにあたって、等伯の心に去来したものは何であったのでしょうね。
…遠く過ぎ去った歴史の彼方へ少しだけ思いを馳せた後は、お昼過ぎという時間ということもあって空腹である現実に意識が引き戻されましたw
像の背後にあるホテルへ荷物を預けて、早速お昼の食事処を目指して、七尾の街へと繰り出しました!
冬こそ日本海!1月いっぱいが旬というブリを筆頭に、日本海から揚がる海の幸の宝庫である、北陸。
何度訪れても、そこは美味しい魅力の虜になること間違いなし!!
1泊2日という超駆け足な食べ歩きとなった今回の旅もまた、そんな素敵な冬の北陸に、味覚が魅了された旅となりました^^
まずは、能登の表玄関の街・七尾(ななお)までの道程を辿ります。
<京都→米原>
<米原→七尾>
※ ダイヤ改正により、実際に乗車した列車の時刻と異なっています。
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1月の最終土曜日、朝の京都駅新幹線上りホーム。
今回の旅は、ここからのスタートです!
名古屋・東京方面へと向かう、上りの東海道新幹線で、京都の次の駅である米原へ向かいます。
9時9分発の、「こだま642号」東京行に乗車します。
本当は、これより約30分前に京都を出発する在来線の普通電車に乗車する予定であったのですが、自宅を出るのが遅れてしまい、乗り遅れました(爆)
特急料金の1,680円の出費は少し痛かったですが、新幹線がなければ、米原で乗り換える特急には間に合いませんでした…新幹線の有難さを実感です~^^
京都からおよそ70km離れた米原まで、「こだま642号」は僅か19分で走破!
定刻の9時28分に、無事米原に到着しました。
新幹線サマサマですw
本来乗車するはずであった、在来線の普通電車は、米原には9時44分着なので、17分も早く到着してしまいました。
米原で、北陸本線を走る特急「しらさぎ3号」に乗り換えます。
約30分の乗り換え時間なので、気持ちにも余裕を持って乗り場のホームへと移動することができます♪
「しらさぎ3号」富山・和倉温泉行も9時55分の定刻どおりに到着しました。
「しらさぎ3号」の始発駅である名古屋から乗車してきた同道者と、車内で落ち合いました。
「しらさぎ3号」は、米原から進行方向が変わり、名古屋から走ってきた先頭車が最後尾となって、9時59分の定刻に出発、北陸本線へと進入して北陸路を疾走します。
米原を出発して2時間47分…約240km強の距離を駆け抜けてきた和倉温泉行の「しらさぎ3号」は12時47分(定刻)、七尾に到着しました。
「しらさぎ3号」は、金沢で富山行と和倉温泉行とに分割されます。
最初の目的地である七尾は、和倉温泉の一つ手前の駅なので、今回は和倉温泉行の編成の方に乗車していました。
七尾駅構内、ホームの傍らにひっそり置かれていた、帝政ロシア製のレール!
この看板の手前に置かれている、何の変哲もなさそうな、錆びた1本のレールがどうやら「それ」らしいです。。。
1898年(明治31年)にロシア帝国(Российская империя / Rossiyskaya imperiya)で製作されて、昭和49年(1974年)まで使用に耐えていたとは…!!
流石は「おそロシア」製だけのことはありますねw
…というか、昔のものは、本当に長持ちしますね…このレールも、丁寧にシッカリと作られていたのでしょう。
こぢんまりとした佇まいの、七尾駅。
駅構内も地方都市の玄関口として程良い広さで、どこかホッと一息つける、優しげな雰囲気に包まれた駅でした(^-^)
ひとまず、予約してあった駅前のホテルへ、荷物を預かってもらうために向かいます。
七尾駅前に立っていた、長谷川等伯の像。
松林図屏風等の作者にして桃山時代を代表する絵師の一人である長谷川等伯は、天文8年(1539年)に七尾で誕生しました。
地元の彫刻家によって平成7年(1995年)に建てられたこの像は、七尾を旅立とうとする等伯の姿を模ったものとのことです。
故郷を旅立つにあたって、等伯の心に去来したものは何であったのでしょうね。
…遠く過ぎ去った歴史の彼方へ少しだけ思いを馳せた後は、お昼過ぎという時間ということもあって空腹である現実に意識が引き戻されましたw
像の背後にあるホテルへ荷物を預けて、早速お昼の食事処を目指して、七尾の街へと繰り出しました!
能登半島、米原から3時間近くと結構遠いのですね。
またまた美味しいお魚が登場しそうですね♪
明日はまたまた小浜にお魚買いに行ってきます!
紹介されていたすし良さんにも行く予定です。
能登半島は、思っていたよりも大きな半島でした。
電車ですと、特急でも金沢から50分近く掛かりました;
時間的に、七尾到着がお昼時にかかっていたのでお腹も空いてきて、早く昼食のお店へ行きたくて堪りませんでしたw
明日小浜とのこと、イイなぁ!
お天気は良さそうで、色々なお魚が揚がりそうですね♪
すし良さんで、若狭の幸をご堪能なさってくださいね~^^
フランスにいたら画像を前にまたしても悶絶状態になっていたと思うけれど、今は日本だからちょっと余裕で見られるかも(笑)
長谷川 等伯、知りませんでした。
もし養子に行っていなければ、彼は自分の絵の才能に気がつくことはなかったかもしれませんね。
長谷川 等伯は幸い文化度の高い能登に生まれたから良かったけれど、今のように情報が発達していないこの時代、多くの才能が花開かずに終わってしまったのでしょうね。
お手軽に訪れられる位の、近過ぎず遠過ぎずの距離で旅行気分も満喫できる、素敵な北陸。
来春からは新幹線も金沢まで開通して、関東からでもグッと訪れやすくなりますね^^
もう日本にいらっしゃるのですね。
春の日本を存分に満喫なさってください!
私も長谷川等伯は、七尾の像を見て初めて知りました。
当時は、今以上にこうした養子が盛んに行なわれていたのでしょうね。
人生も先が読めないギャンブルのようなもの、ほんのちょっとした、些細なことで人生花開いたりそうでなかったり…というのは昔も今も同じなのでしょうが、昔はタヌ子さんの仰る時代の環境から、成功のハードルはより高かったのでしょうね。