KST木曽三川河口調査団 原稿発見のニュースが中日新聞、東京新聞に掲載されました。 このデータを分析して電子データ化して国立国会図書館等に寄贈したいと思っています。
いままで謎だったいくつかの事実と思いもよらなかった情報を知ることができました。
ボクが長良川と係ることになったのはこのKSTの資料の存在があったからです。この資料で長良川のことを初めて知り、河口堰の建設によって起こるであろう問題を考えて、ボクは長良川河口堰建設反対運動(全長良川流下行)を始めることになります。
伊藤先生の最後の弟子として長良川河口堰に深く関わった愛媛大学生態研究室のけじめをつけたいと思っています!
後ろに写っているのは
故森野康子に贈られた故笠木透さんからの弔辞。
郡上の円空彫り師 安福さん(故人)の護身仏
森野康子のコピー(柳ケ瀬はあなたに一番近い街)を入れた美川憲一ワインボトル!
伊藤猛夫先生の研究されたハイドロゾア用の標本びん(コレは御研究所の廃棄物から頂き!)など。自宅二階です。
テキスト版
長良川河口堰20年 着工前の生態記録 発見
本州屈指の清流といわれた長良川に河口堰(ぜき)が造られ、運用を開始して六日で二十年が経過した。着工前に、国の委託でアユの生態などを調査し た元愛媛大教授の故伊藤猛夫さんの記録帳や写真などが、松山市の自宅で見つかった。河口堰運用開始前後にアユの漁獲量は激減しており、関係者は「見つかっ た資料を川再生のヒントにしたい」としている。 (山本真嗣)
資料を遺族から譲り受けて分析しているのは、本紙生活面でエッセー「川に生きる」を連載中の魚類生態写真家、新村安雄さん(61)=岐阜市。
長良川は当時、「本流にダムのない大河」として全国的に有名で、激しい河口堰建設反対運動が起こった。建設省(当時)は反対を押し切って一九八八年に着工。九四年に完成した。
伊藤さんは、堰建設が水産業や環境に与える影響を調べるため、六三年に全国の学識経験者で結成された木曽三川河口資源調査(通称KST)団の一人。水産や生物、物理環境など六つの調査班があり、水域生態系に詳しい伊藤さんはアユ生態班の班長を務めた。
新村さんによると、アユ生態班は建設予定地周辺から上流の岐阜市付近まで川を遡上(そじょう)する稚アユを、網などで捕獲し記録。数や大きさ、捕獲地点の地形や水深、流速などを六八年まで約五年かけて調査した。
見つかった資料は、自筆の記録帳千枚程度と、スライドやネガなどの写真千数百点。捕獲したアユ一匹ずつの大きさを測ったデータや、場所ごとの捕獲 数の変化を表したグラフ、アユのすみかとなる瀬やふちの場所と広さを図示した河床状況図など。河床状況図には、土砂が堆積し失われた瀬やふちも描かれてい る。
伊藤さんは八二年に退官し、二〇一一年九月に九十四歳で亡くなった。書斎を整理していた遺族が「長良川河口 四ツ手網整理データ」「アユの採捕数の日週変化」などと背表紙をつけてビニールで保護してある資料を見つけ、伊藤さんの教え子だった新村さんに連絡した。
一九六八年に公表されたKST最終報告書では、当時は約九百六十万~二千百三十万匹の天然の稚アユが海から遡上し、初夏の解禁直前には六百四十万 匹が生息していたと推測している。岐阜県によると、同県内の長良川水系のアユ漁獲量は河口堰建設前の九二年に千二十九トンあったが、二〇一三年は約三百ト ンと三分の一に減少した。
◆変化の証拠になる
新村さんの話 伊藤さんは四国の吉野川など、ダム関連の河川調査に豊富な経験があった。長良川を遡上するアユの全体像を把握しようとしており、見つかった資料には、堰完成前の長良川がどういう川だったのかが記録されている。
アユの捕獲記録を見ると、現在よりも早い時期から、大きな稚アユが遡上してきていることが分かる。堰の建設後に長良川のアユの生態や生活史が変 わった、川がこれだけ変わったという証拠にもなる。河床状況図に記録された瀬やふちの数や広さが、どれだけ川がアユをはぐくむ力を持っているのか。そんな 環境収容力の観点から、当時と現在の川を比べてみたい。
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