慶良間の阿嘉島に米軍が上陸して70年、民宿さくばるのおばさんに聞いたその日のことを書いておきます。
もう、20年上前の、多分春のこと、阿嘉島の民宿「さくばる」というところに泊まっていた時のことです。
午後部屋でのんびりしているとおばさんが部屋をノックしてこんなことを言います。
「にいむらさん。運転できる?」 できるというと 急いで軽トラを運転してくれと頼まれました。
「にいむらさん 急いで」 なんのことかわからず、おばさんを乗せて阿嘉島の林道へ、少し登って、
港から見えない枝道にはいると。ここにしばらくいるという。
「?」 なんなの?
「いま、座間味から県のひとが車のナンバーしらべにくるの」
そのころ、阿嘉島を始めとして慶良間諸島の島々の自動車、二輪車はみんな未登録。時々摘発に県の役人と警察がやってくるのだという。
ここまでは前振りです。
二人で、息を潜めて!木立の間から港の方を伺っているとおばさんがこんな話を始めました。
「むかし、戦争のとき、阿嘉島に最初にアメリカ軍の戦車がやってきた。」
その時のことを思い出したのだという。
今の港の場所はサンゴ(ミドリイシ)の大群落だったらしい。その場所をバキバキと上陸用の戦車が隊列を組んで上陸してきたのだという。
「みんな、こんなふうに山に隠れたのよねぇ!」
おばさんたちは島の反対方向まで逃げたらしい。でも結局みんな見つかって、集落にあつめられたのだそうだ。
「阿嘉島でもひと死んだよ」と話していた。
この新聞にあるように、集団自決の強要もあったようだが、その話はされなかった。
ボクは、本島のお巡りさんの船が島を出て行くまで、おばさんと軽トラに並んで、木立から見える青い空をみていた。
慶良間諸島米軍上陸70年 沖縄戦悲劇の始まり
太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍が最初に沖縄県・慶良間(けらま)諸島に上陸してから26日で70年を迎えた。同諸島では当時、親族同士で命を絶つ「集団自決」が相次いだ。村民の約1割が集団自決で亡くなった座間味(ざまみ)村では同日午前、慰霊祭が営まれ、遺族らが黙とうをささげた。
米軍は1945年3月26日、座間味島などに上陸、同年4月1日には沖縄本島に上陸した。日本軍の組織的抵抗は同年6月23日まで続いた。沖縄戦の戦没者は日米で計約20万人とされる。
同村などによると、同諸島での集団自決による死者数は計617人に上る。
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