原爆が投下された時、父は16才だった。
学徒動員として呉市の
海軍工廠で働いていた。
広島市が「新型爆弾」で
壊滅状態だと知らされ
郷里の山県郡 旧・豊平町へ
帰還命令が下った。
電車で広島駅に降り立った父は
あの日の惨状を目撃している。
比治山まで何もなかったとだけ
話したことがある。
横川駅で山口県の大学から
帰る途中の兄と出会い、
トラックの荷台に乗って
旧・千代田町まで帰りつき
そこから徒歩だったと言った。
徒歩では2時間近くかかっただろう。
父は最晩年、病気療養していた。
ある日、目を見開いて
恐怖にひきつった目で
空(くう)を見ていた。
呼び掛けても聞こえていない。
目の前で手をひらひらさせると
瞬きをしたが相変わらず
何かを凝視していた。
父は明らかに別次元を捉えていた。
父は今、原爆投下直後の惨状を
見ている・・と感じた。
「お父さ~ん!
お浄土を見てね!」と声を掛ける。
恐怖する瞳から涙が
すーっと一筋こぼれ落ちたのを
私は生涯忘れることができない。
父が無くなってだいぶ後だが
母と原爆資料館に入ったことがある。
原爆投下で破壊され、
焼き尽くされた広島市の惨状が
全壁面に再現されていた。
母も私も具合が悪くなり
外に出てもしばし放心状態だった。
私はその後、数日不調に見舞われた。
整体を受けながら涙が止まらない。
「心当たりは?」と聞かれて
ヒロシマの地獄絵図を見たことを
改めて思い出した。
原爆資料館で「むごいことしたで」
ぽつりと吐いた母の言葉が
重たかった。
むごいことをした人間の業と
むごい目に合う人間の業とを
父も母も強烈に受け止めたと
娘の私は思った。
これほどの人間の業が
何かに贖われるだろうか?と
絶望的な悲しみを両親は抱いて、
それでも人間としての尊厳を
失わず生きるようにと暗に
私に教えてくれた。
そのことが尊いと私は思う。
人は尊いと。
人生は尊いと。
この星で生きるに値することを
私は歌を通じて自分の
魂に宿る愛に点火していく。
この熱が誰かに伝わると信じて。
この信頼が世界に伝わると
希望を持って。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます