あめつちの詩

「あめつち」に響く歌声の持ち主「にいや」こと「新屋まり」が奮闘の日々を綴る。

tomoさんの訃報に際して

2022-01-25 | 半径30メートルの事件

tomoさんの訃報を受け取って

やっぱりと思うと同時に

哀しさと寂しさとが押し寄せた。

ミュージシャンとして

たくさんの人に慕われながら

70年の人生を終えられた。

tomoさんとは「ぞうさんカフェ」

で面識があって

お話したのは2、3度だけ。

フェイスブックの愛読書蘭に

「あるヨギの自叙伝」とあったので

私と同じシュミだ→同志だと

勝手に思った。

「人生は修行の連続だ」と

思っていた。

修行すれば否修行なくしては

解脱できないと思っていた。

あれから20年経過してみれば

そうではないらしいと

薄々気づいてきたけれど。

tomoさんと名刺交換した時は

そうでもなかったのに、

半年間「ぞうさんカフェ」に

行けなかった間に熟成したのか?

お話しをしてから兄のような

同志のような、

とても身近な人に感じられた。

それは自分にとっても不可解で

tomoさんが闘病されているのを知り

去って行かれるのが怖かった。

クリスマスライブを人生最後の

ライブと位置づけておられた。

直前、昏睡状態から奇跡的に脱して

なんとパフォ-マンスをされた。

たくさんの人が応援に来ていて

素晴らしい会だった。

亡くなられる2日前、

所在なくフェイスブックを

覗いていたら急にtomoさんのことを

思った。

説明のしようがない切なさが

込み上げた。

「tomoさんが逝ってしまう」

と号泣しながら思った。

時計を見たら9時10分だった。

長くお付き合いのある人は

さぞつらいだろうと思う。

葬儀に参加できなかった。

「今ごろ音楽葬の真っ盛りかなぁ。

もう少し早く出会いたかったな。」

と思いながらお風呂に

浸かっていたら、

「もっと早く出会ったら

もっと寂しかっただろう」

そんな声がハートに聞こえて来て

ひとしきり泣く。

ベストのタイミングで人は

出会うようになっているのだろうと

思う事にした。

生きることに絶望する人、

人生に意味を見いだせない人は多い。

それでも人生は生き切るに値すると

tomoさんは身をもって教えてくれた。

「何かをなす」に拘らず

シンプル生きることに意義がある。

表現することの「厳しさ」も

教えられた。

「上手に」とか「評価される為」に

表現するというレベルを超えて、

命のあり方を表すということを

教えられた。

我々は表現者としてまだまだ甘い。

そんなこんなの気づきを頂いて

山陰に向かい手を合わせた。

あなたは最後の最後まで

かっこよい素敵な人でした。

闘病お疲れさまでした。

ありがとうございました。

心からご冥福をお祈りします。

 

 

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