誰に育てられるわけでもなく、
本当は、自分で自分を育てるんですね(^O^)/
そうしたプロ意識をもてば、何に関わろうとも、
いつか楽しくなる日が来るでしょう??
具体的には、人さまに、食べていただけるレベル、
人さまにご提供したときに、喜んでいただけるレベル、
家族一族以外のどなたかへ、なのです。
全てにおいて、対価をいただけるレベルを目指す。
自分だったら、骨身を削り、汗を流して得た賃金で、
そのことに対して、喜んでお支払はできますか?
そんなわたしになっていますか?
そこまで、誰に言われなくても、磨き上げる日々にしていくことで、
感動する言葉や、体験を、いただくときが、やってくるでしょう?
昔わたしの母は、我が家とお隣の市で一人、サロンをしていましたが、
それは毎日毎日お客さまに、美味しいものを、いただいておりました。
本当によく忙しく、夕飯前のぎりぎりの時間に帰宅していた母は、
父と全く同じタイミングでたどり着いてたとしても、
父が食卓に着席するときには、夕飯の一品目を出していた。
母は(味が変わるため)作り置きのできない人で、
電子レンジがダメで、売られているお惣菜もほぼ食べられない人なので、
毎食事前に、調理をしていたのです。
そのときは、娘だから、身近すぎてわからなかったのですが、
こんなにできる人に出会ったことがありません。
いろんな‘‘エステティシャン’’や接客業で人を見てきて、
‘お心付け’を毎度ほどいただく若い女性に出会ったことがありましたが、
毎日毎日、家族が喜ぶであろうお土産をいただく人に、
出会ったことが、ありません。
母は本当に、無私で、働いてきました。
今でもキセキ的出会いを繰り返す母は、人の生死にも関わり、
徳という、傘を、家族に分けてくださっている。
だからこそ、できないことがあり、
どうもわたしみたいな一般人が、支えるべくそばにいるようで。。
人にはそれぞれ、役割がごさいますが、
それでもわたしも、何かのプロにならねば、家族のためとならず。
:::::::::::::::::::::::::::::::
例えばお豆、種として土に返せば、すごい発芽率で、育つ。
お米だってそうですが。
そうして一粒から成る、お豆の多さには、毎年、驚かされます。
「自然」は、与えられた場で、その可能性を十分に生かし、
遺伝子に沿ってか、毎日毎日こつこつと成長して、
あるとき誰かの役にたつべく、
たくさんの、本当にたくさんの「実」を実らせてくれるのです。
先日きづき、「「これって‘‘プロ’’じゃないの??」」って・・・。
人は、支えてもらわねば、また、教えていただかないと、
何々してもらわないと、育たない、なんていう言い訳しているけれど、
「自然」は言い訳なんてせず、周りの「環境」を活かし調和し、
自分を、‘使っていただけるよう’
その場で、育てているんだなあって思うのでした。
わたしの立てさせていただいた「支柱」はひとところ倒れ、
よく‘サポート’できたなあっていう、
達成感をいただくにはまだ足りなかったようですが、
自然の恵みと教えを、たっぷりと感じさせていただいている次第です。
人のお役に立てるまで、喜んでいただけるようになるまで、
自分を育てる、
環境{与えられる場・人さま・自然}との調和の中で、ということ。
言い訳を一切せずに、ということです。
母も一切言い訳をせず、家族には、ガマンを学ばせ、
利他で働いてきました。
ここまで学ばせていただき、あとはどうするか?
ぼちぼちと進むか否か、わたし次第です。。(*^_^*)
本当は、自分で自分を育てるんですね(^O^)/
そうしたプロ意識をもてば、何に関わろうとも、
いつか楽しくなる日が来るでしょう??
具体的には、人さまに、食べていただけるレベル、
人さまにご提供したときに、喜んでいただけるレベル、
家族一族以外のどなたかへ、なのです。
全てにおいて、対価をいただけるレベルを目指す。
自分だったら、骨身を削り、汗を流して得た賃金で、
そのことに対して、喜んでお支払はできますか?
そんなわたしになっていますか?
そこまで、誰に言われなくても、磨き上げる日々にしていくことで、
感動する言葉や、体験を、いただくときが、やってくるでしょう?
昔わたしの母は、我が家とお隣の市で一人、サロンをしていましたが、
それは毎日毎日お客さまに、美味しいものを、いただいておりました。
本当によく忙しく、夕飯前のぎりぎりの時間に帰宅していた母は、
父と全く同じタイミングでたどり着いてたとしても、
父が食卓に着席するときには、夕飯の一品目を出していた。
母は(味が変わるため)作り置きのできない人で、
電子レンジがダメで、売られているお惣菜もほぼ食べられない人なので、
毎食事前に、調理をしていたのです。
そのときは、娘だから、身近すぎてわからなかったのですが、
こんなにできる人に出会ったことがありません。
いろんな‘‘エステティシャン’’や接客業で人を見てきて、
‘お心付け’を毎度ほどいただく若い女性に出会ったことがありましたが、
毎日毎日、家族が喜ぶであろうお土産をいただく人に、
出会ったことが、ありません。
母は本当に、無私で、働いてきました。
今でもキセキ的出会いを繰り返す母は、人の生死にも関わり、
徳という、傘を、家族に分けてくださっている。
だからこそ、できないことがあり、
どうもわたしみたいな一般人が、支えるべくそばにいるようで。。
人にはそれぞれ、役割がごさいますが、
それでもわたしも、何かのプロにならねば、家族のためとならず。
:::::::::::::::::::::::::::::::
例えばお豆、種として土に返せば、すごい発芽率で、育つ。
お米だってそうですが。
そうして一粒から成る、お豆の多さには、毎年、驚かされます。
「自然」は、与えられた場で、その可能性を十分に生かし、
遺伝子に沿ってか、毎日毎日こつこつと成長して、
あるとき誰かの役にたつべく、
たくさんの、本当にたくさんの「実」を実らせてくれるのです。
先日きづき、「「これって‘‘プロ’’じゃないの??」」って・・・。
人は、支えてもらわねば、また、教えていただかないと、
何々してもらわないと、育たない、なんていう言い訳しているけれど、
「自然」は言い訳なんてせず、周りの「環境」を活かし調和し、
自分を、‘使っていただけるよう’
その場で、育てているんだなあって思うのでした。
わたしの立てさせていただいた「支柱」はひとところ倒れ、
よく‘サポート’できたなあっていう、
達成感をいただくにはまだ足りなかったようですが、
自然の恵みと教えを、たっぷりと感じさせていただいている次第です。
人のお役に立てるまで、喜んでいただけるようになるまで、
自分を育てる、
環境{与えられる場・人さま・自然}との調和の中で、ということ。
言い訳を一切せずに、ということです。
母も一切言い訳をせず、家族には、ガマンを学ばせ、
利他で働いてきました。
ここまで学ばせていただき、あとはどうするか?
ぼちぼちと進むか否か、わたし次第です。。(*^_^*)
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