ほぼ不定期日記

散歩ばかりしている男の嘘日記

海に捧げたモノは?

2010年05月31日 | ほぼ古代妄想
横須賀市の走水という場所に走水神社がある
例によって江原某がパワースポット扱いしているようで
若い女性に人気なのだそうだが
判っているのだろうか?大丈夫だろうか?と心配になる
走水とはは古代の英雄ヤマトタケルの妻オトタチバナが
荒れる海に飛び込んだという神話の場所なのだ
それでも良いのか?
だいたい存在しなかったヤマトタケルに妻が居るはずも無く
ヤマトタケル伝説のほとんどが三国志などのパクリだったりするので
この逸話も中国にあったもののパクリなのだろうと考えるのが自然だろう
今は中国がパクッているけれど昔は中国がパクられていたのは面白いことだと思う
ところで生け贄とは古来より自ら進んで行ったものでは無い
大抵の場合 生け贄に指名されたのは美しい若者だったのは
若く無い大人の無意識の嫉妬心がそうさせたわけで
オトタチバナにせよジャンヌ・ダルクにせよ
洋の東西を問わず昔も今も生け贄は美しくなければいけないらしい
古代ローマで筋肉隆々の若者同士を戦わせたりライオンと戦わせて喜んでいたのは
腹の出っ張ったオヤジと残酷なショーが大好きな御婦人と決まっている
目の前で美しい肉体を持つ青年が傷ついたり死んだりするのを観ることで
自分が生きている実感を得ようとしたのが生け贄というショーの始まりで
イスラム圏で行われている公開処刑もこれと同じで昔はどこでもやっていた
生け贄としての公開処刑はなかなか観れない娯楽だったのだ
婦人雑誌の表紙には残酷な事件が大きい見出しになっているのを見かけるが
「あ~良かった私は幸せ」と思えるのならば あれも生け贄には違いない
儒教では家畜の首や肉を生け贄として供えて先祖に祈りを捧げている
それを見て「なんて残酷な!」と目くじらを立てるのは
「鯨を穫って食べるのは野蛮だ!」というのと同じ
異文化を受け入れない頑固さは馬鹿の証拠としか言いようが無いが
気を取り直してオトタチバナが生け贄にされた時を再現すれば・・・
まず海の神に祈りを捧げてから
身を清めさせられたオトタチバナは
首を切り落とされて殺され
神が食べやすいように身体に切り目を入れられて
海に放り込まれたのだ
「残酷で信じられない!」と思う人は何も食べずに死ねば良い
羊の首を供えるのを残酷と感じ
仏壇に供える米は残酷と感じないのは
米よりも羊の首のほうが「身につまされない」からではないか?
牛は喰えても猿は喰えないのは
自分が殺されて喰われる想像をしてしまうからではないか?
稲だって生きているのだ
稲は生涯の最後に米の実という子孫を残す
稲の子供である籾を採って皮を剥き
胚というはらわたを取り除き
茹でて食べているのは誰なのか?
稲の子供たちを大量殺戮して喰っているという自覚はあるのか?
生きている我々は生きている他者を喰って生きているのだ
それが生きている者の宿命ではないのか?
食事の前に唱える「いただきます」には
死者への感謝が込められているのだ
こういうことを謙虚というのだと思うのだが
謙虚さの無い傲慢な者はより傲慢な者に疎まれて生け贄に指名されるに違いない
と・・・こんなことを書いていること自体が傲慢と受け取られるに違いない
次に生け贄にされるのは私か?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« キリマンジャロは低かった | トップ | それにつけても・・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ほぼ古代妄想」カテゴリの最新記事