S家の別宅

夫婦ふたりきりになりました。ふたりの生活をこれから楽しみたいなと思います。

身体の内側に沁みこんでくる文章。

2007-02-08 16:37:57 | Weblog
とても尊敬し、大好きな哲学者鷲田清一さんが書いていた新聞の記事を、次女が切り取ってしまってあったのを見せてもらう。次女が大好きな「アジアンカンフージェネレーション」(アジカン)のコンサートに行って鷲田さんが書いていたものだ。

アジカンはわたしも次女がテープに撮ってくれたのを、車の中で何度も聴いている。けれど鷲田さんが書いている文章はアジカンのことをとても的確につかみとっていた。
「このコンサートを聴きにきている彼らはきっといじめる側でもいじめられる側でもないだろう、アジカンの歌詞をもじれば傷つくことはないが、腐っている、そんな心情を歌う。宛先のない手紙のように宙を浮遊するばかりの自分は、色あせてはいないが、ポケットの中でグチャグチャになったという心を切る想い、じぶんたちのメッセージを届けるというより、人びとの沈黙のSOSをがちっと受け止めているという印象が歌にはある」

そんなふうに鷲田さんはアジカンのことを書いていた。生のつれなさ、もどかしさ、そういうものをアジカンのファンは共有しているのだろう。こうして鷲田さんが言葉に置き換えてくれると、自分がアジカンの歌を聴いて感じ取ったものの正体がリアルに輪郭を持ってくる。

鷲田さんは写真論や詩論でも文章を書いているけれど、この人の書く文章は、理解するということをこえて、いきなり心(というものがあったとしたら)をわしづかみにするぐらいのパワーがあって、そのあとジーンと沁みてくるのだ。

鷲田さんの感性に触れるいろんな作品(詩、音楽、写真etc)そういうものがジャンルを越えて人の生の温度、優しさ、厳しさ、すべてまるごとの生を呈示していることにわたしはいつも驚いてしまう。だからこの人の文章が自分の根底に沁みてくるように感じるのだ。こんな文章を書けたらいいと思う。

わたしが好きなアジカンの歌「バタフライ」の歌詞です。

尖ったナイフみたいな心で
細長く意味もない日々を削る
積もった過去とか退屈とか
燃えないゴミの日に出して そのまま

暗闇の先の霞むような光
負から正への走光性
荒んだ僕は蝶になれるかな

折れる


この折れるはすごくいい!

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