歌うサラリーマン(ボイストレーニング)

歌は、楽しいもの。うまく歌えたらもっと楽しい。そんなちょっとしたお手伝いのページ。(完全に「今日の街ネタ」化してるけど)

夢と幽霊と理不尽と

2004年11月29日 10時54分23秒 | Weblog
何の感覚もない、ただそこに時間だけが確かに存在した、という記憶だけがあった―――。

夢を見た。何も覚えていない、というところから始まる不思議な夢。「自我」があるのに、どうもいつもと違う。何かが足りない・・・体がないのである。振り返ると、記憶(と言うより、「記録」かな。誰かがどこからか僕の行動を映像に収めていたかのようなシーン)がそこにあった。

雨が降る夜道、どうも僕は事故に遭い、そこでその「記録」が終わっている。そして僕は記憶も記録も無い時間を過ごし、今自我を持って目覚めたのだ。記憶の最後を確認し終わってまた元の方向を振り向くと、今度は「今」の時間が流れていた。病院だろうか。医者が診断結果を誰かに伝えているようだ。

「死亡―――」・・・え?死亡?僕が?そもそも「誰かに」伝えられたのを横で聞いている、と言うより、僕に向かって直接伝えられた感じである。しかし、医者はベッドを覗き込んで話をしているわけではなく、普通に椅子に座っている。ようやくここで理解した。僕は「意思」だけの存在になってしまったのだ。俗に言う「幽霊」という存在。しかし、なぜか自然と受け入れていた。そして同時に、急がなくては、と思っていた。何を急ぐのか?理屈は分からないけど、自我だけしかない僕に残された時間が非常に短いものであることを、「知って」いたからだ。僕は実家に顔を出すことにした。

どうやって辿り着いたか分からないが、僕は実家の前に立っていた。建て直す前の家だったが、まあそんなことはどうでもいい。母がいた。「時間がないんだ」と言うと、全てを理解してくれたようだった。一緒に食事をしたり、果ては飛行機に乗ってどこかに行ったり(随分行動的な幽霊だ)、僕は最後の時間を楽しんだ。「ごめんね、そろそろ朦朧としてきた。多分これで最後だと思う。ありがとう。」と言うと、母はゆっくりと頷き、そして僕はまた記憶の無い時間(今度は再び目覚めることもないだろう)へと戻っていった。

・・・と言いつつ、この後目覚めることになるのだが、まあこんな夢を見たわけだ。心理学者が何を言うかは知らないが、僕は幽霊を信じることにした。人生の後に、ちょっとだけでも心休まる平安があってもいいではないか。理不尽で結構。現実の方がよっぽど理不尽なのだから。イラクをはじめ、世界中で起こっている不幸な出来事を思うと、僕はそんな感情を禁じえない。

言い出した人は偉い

2004年11月26日 10時56分12秒 | Weblog
昔からある商売の中で何気なく言われ続けていることには、とてつもない真理を感じる。いや、別に何か特別なものを見たとか、そういうことではない。広告屋さんの決め台詞は「コミュニケーション」であるが、今日は、その真意を垣間見た気になってみた。まあ、そういう関係の世界に身を置いているのだが、「消費する」という観点から自分のキモチを逆算していったら、なんと「コミュニケーション」に辿り着いたのだ。
「風が吹いたら桶屋が儲かる」ということわざがある。風が吹いたら砂が舞い、舞った砂が目に入り失明する人が増え(!)、失明した人は三味線弾きで暮らさざるを得ず(昔はそうだったんだろーなー)、三味線の「原料」である猫が減り、猫が減るとネズミが増え、増えたネズミが桶をかじり、かじられた桶は使い物にならなくなり、仕方がないから新しい桶を買う・・・という壮大なストーリーだ。ことわざが言いたいのは「思わぬことが起こるもんだ」ということなので、少々意味は違うのだが、とにかくこの四段・五段の論法によって、僕は「コミュニケーション」に辿り着いた、と言いたいのだ。わけが分からない商品やサービスにはお金を払う気にならない。ってことは、「わけが分かって」もらえればいい。売る人が生産者あるいは直接のサービス提供者であれば、なんてことはない。ただ、この世の中、そんなものはほとんど存在しないわけで、大抵の場合、人の手を四段・五段と経由して消費者の前にその姿を現すのだ。この四段・五段が「風が吹いたら~」を思い出させた、ということである。
さて、それでは消費からコミュニケーションまでの道のりを見ていくことにしよう。買うためには、その商品なりサービスがどんなものであるのか、具体的に理解する必要がある。例えばカメラ。僕なんかだと、多分大手家電屋さんに行くことだろう。店員に詳細を聞いてみる。大概の場合、当り障りのないことを言って、どのメーカーの商品もすばらしい、という結論に至るのであろう。そうして結局は消費者に責任をなすりつけるわけだが、これでは僕の願いが叶わない可能性が高い。これを解決するには、販売員がもっと商品のことを理解し、消費者のリクエストに対し、できるだけミスマッチのない商品を「提案」する必要がある。そのためには販売員教育というのが必要になるのだが、これを販売店が独自にやっていては意味がない。販売店の営業戦略というフィルターがかかるからだ。メーカーの人でもいいけど、できれば販売店にもメーカーにも利害がなく、商売色が濃いプロでもない誰か―――趣味人の集まりみたいなもんかなぁ―――が、どんな使い方ができるか、なんてことを話してくれるのが一番ありがたい。というか、それができれば販売員はいらないのだが、現実問題としてそうもいかないので、この限りなく「素人」に近い販売員が、その役割を担ってくれればいいのだ。広告よりも、パブリシティ(記事)の方が消費者心理に訴えかけてくるのは、第三者が客観的な視点で語りかけるから。それと同じ。この趣味人たちにはメーカーが使い方や特徴などを詳しく説明し、それを咀嚼して販売員に語りかけてもらう。販売員はそれを間違えずに僕らに伝える。ここには一貫して「コミュニケーション」が存在する。生産者の純粋な意図が、できるだけ分かりやすく、尚且つ捻じ曲げられないで、いかに消費者の前まで辿り着けるか。そういうことなのである。
風が吹いたら桶屋が儲かる―――ここにこんなことを書き込んだことで、僕の人生が思いもよらぬところへ引っ張っていかれたりしたら、それもまた面白いかもしれない。