天降神社(あもりじんじゃ)(福岡県古賀市)を掲載しました。
当社はJR古賀駅から県道534号線を大根川沿いに東におよそ5kmの薦野(こもの)地区に鎮座されています。
【鎮座地】〒811-3122 福岡県古賀市薦野1863-1 (旧筑前国 糟屋郡)
【御祭神】大己貴命(おおなむちのみこと) 大国主命の若い頃の名前。
少彦名命(すくなひこなのみこと
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
【御由緒】
創立或書に神亀元年の由見え、又嘉元三年の古文書に天降天神三所宮出見云々と、造立寶殿(此間不明)於薦野村号天降天神三所宮云々とあり、此の社丹治家の元祖丹治峯延より累世厚く崇奉りて古は年中祭典料として田地数多寄附せらる。
---中略ーーー
嘉元三年火難ありて古野より今の社地に移し此の以降の書類多し、丹治峯延は延長頃の人にして千年近き年数を経たれば其頃より繁栄の神社ならむ。
明治五年十一月三日村社に定められる。
(福岡縣神社誌より抜粋)
註:神亀元年(724)、嘉元三年(1305年)、延長年間(923~930年)
社号について
「天降神社」は平成祭データには全国で12社が登録されています。その内の半数6社が福岡県に鎮座されています。
読み方は「てんこう」2社、「あまくだり」2社、「あふり」1社、「あまおり」4社、「あもり」1社、「あまふり」2社とさまざまですが、
当社は「天降神社(あもりじんじゃ)」とあります。
註:07/20/2007、コメントにありますように、当社の前にお住まいの方から、地元では「あまふりぐう」または「あまふりじんじゃ」と呼んでいますとご指摘いただきましたので「あまふりじんじゃ」と訂正します。
註2:07/07/2010 再度、地元の方より、宮司さんによると「あもりじんじゃ」が正しいとのMailをいただきましたので訂正します。
寛延3年(1750)寄進の一の鳥居の神額には篆書で「天降宮」と記されています。
境内入口の鳥居から拝殿
拝殿には多数の絵馬が奉納されています。
拝殿と本殿 本殿
天降神社神殿の彫刻 (古賀市指定文化財)
当社は、もと古野に鎮座されていたが嘉元3年(1305)現在地に移されたと伝えられ、薦野・米多比・舎利蔵の氏神で清瀧寺が別当寺であった。
本殿を飾る木造彫刻は、町内随一の見事な彫刻である。
特に本殿入り口の海老虹梁のあいだの2基四面の飛天像が、今日あるのは、明治維新の廃仏毀釈の際、地元住民の配慮で難を免れたものである。
平成3年(1991)市指定文化財となる。
当社には、芦屋の金工大江宣秀が鋳造した梵鐘があったが、戦後所在不明である。
立花増厚寄進の宝暦7年(1757)の石燈籠一対がある。
(境内案内板より)
広い境内には、
古賀市「未来に残したい巨木」の登録された市内最大級のクスノキがあります。
樹高:約21m、周囲:約7.7m、推定樹齢:約800年
社殿全景
当社はJR古賀駅から県道534号線を大根川沿いに東におよそ5kmの薦野(こもの)地区に鎮座されています。
【鎮座地】〒811-3122 福岡県古賀市薦野1863-1 (旧筑前国 糟屋郡)
【御祭神】大己貴命(おおなむちのみこと) 大国主命の若い頃の名前。
少彦名命(すくなひこなのみこと
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
【御由緒】
創立或書に神亀元年の由見え、又嘉元三年の古文書に天降天神三所宮出見云々と、造立寶殿(此間不明)於薦野村号天降天神三所宮云々とあり、此の社丹治家の元祖丹治峯延より累世厚く崇奉りて古は年中祭典料として田地数多寄附せらる。
---中略ーーー
嘉元三年火難ありて古野より今の社地に移し此の以降の書類多し、丹治峯延は延長頃の人にして千年近き年数を経たれば其頃より繁栄の神社ならむ。
明治五年十一月三日村社に定められる。
(福岡縣神社誌より抜粋)
註:神亀元年(724)、嘉元三年(1305年)、延長年間(923~930年)
社号について
「天降神社」は平成祭データには全国で12社が登録されています。その内の半数6社が福岡県に鎮座されています。
読み方は「てんこう」2社、「あまくだり」2社、「あふり」1社、「あまおり」4社、「あもり」1社、「あまふり」2社とさまざまですが、
当社は「天降神社(あもりじんじゃ)」とあります。
註:07/20/2007、コメントにありますように、当社の前にお住まいの方から、地元では「あまふりぐう」または「あまふりじんじゃ」と呼んでいますとご指摘いただきましたので「あまふりじんじゃ」と訂正します。
註2:07/07/2010 再度、地元の方より、宮司さんによると「あもりじんじゃ」が正しいとのMailをいただきましたので訂正します。
寛延3年(1750)寄進の一の鳥居の神額には篆書で「天降宮」と記されています。
境内入口の鳥居から拝殿
拝殿には多数の絵馬が奉納されています。
拝殿と本殿 本殿
天降神社神殿の彫刻 (古賀市指定文化財)
当社は、もと古野に鎮座されていたが嘉元3年(1305)現在地に移されたと伝えられ、薦野・米多比・舎利蔵の氏神で清瀧寺が別当寺であった。
本殿を飾る木造彫刻は、町内随一の見事な彫刻である。
特に本殿入り口の海老虹梁のあいだの2基四面の飛天像が、今日あるのは、明治維新の廃仏毀釈の際、地元住民の配慮で難を免れたものである。
平成3年(1991)市指定文化財となる。
当社には、芦屋の金工大江宣秀が鋳造した梵鐘があったが、戦後所在不明である。
立花増厚寄進の宝暦7年(1757)の石燈籠一対がある。
(境内案内板より)
広い境内には、
古賀市「未来に残したい巨木」の登録された市内最大級のクスノキがあります。
樹高:約21m、周囲:約7.7m、推定樹齢:約800年
社殿全景
おそらく、平成祭データが間違っていると思います。
早速、当該ページを訂正いたしました。
疑問が解けてすっきりした気分になれました。
今後とも宜しくお願いいたします。
地元の人間はあまふりぐうとか、あまふりじんじゃと呼んでます。
あもりぐうは聞いたことがありません。
平成祭データが間違っているのではないでしょうか。