「空海の風景」
司馬遼太郎の「空海の風景」を紹介した動画を見つけました。
空海は佐伯氏出身なのですが、この「佐伯氏」がどのような氏なのか
気になっていました。
以前、私はこんな記事を書いています。
「日本書紀」では、東北の蝦夷・毛人を、俘虜としてまず、熱田神宮に献上。そこで大騒ぎし、非常に無礼ということで、熱田神宮から三輪山へと移動。
そこでも問題を起こしてしまったので、今度は瀬戸内海沿岸の、兵庫・広島・徳島・愛媛・香川へと左遷され、そこで「佐伯部」になったということです。
つまり、空海のご先祖は、東北の蝦夷?
この動画の中にこんな表現が。
空海が亡くなるときに書いた「御遺告(ごゆいごう」の中に、
「私の父は毛人征討の時に、讃岐に土地をもらった家系」
と書いてありました。
「佐伯氏」は、毛人(蝦夷)とそれを統括した国造もまとめて「佐伯」と
呼ばれたので、どっちかな?とずっと疑問に思っていたのですが、
司馬遼太郎は「空海は毛人そのもの」と言っています。
そして、違う言語を話す人種だったから、語学に堪能で、天才たり得た、と言っています。
(つづく)
漫画アプリで、「超訳 百人一首」という漫画があることを知り、
毎日少しずつ読んでいます。
今日は紀貫之
幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。
天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚としてさらに繁栄し、桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。
今、漫画アプリで、「応天の門」という菅原道真の漫画も読んでいるのですが、
お話の中でいつもドジを踏んでいる 紀長谷雄 って、
実在したんですね。(笑) しかも偉くなっている!
そして、讃岐の国司として、領民に人気のあった紀夏井が「応天門の変」で
罰せられ、土佐へ流されることに😨
「応天の門」の中で、度々、悪事を働いていた、獣のような男・紀豊城が、紀夏井の弟だったとは!😱
歴史の本を読んだだけではなかなか頭に入ってきませんが、漫画で読むと
わかりやすいです。漫画、おすすめ。
「運慶とは何者か」というテレビ番組を偶然見まして、
初めて、「運慶」のことを詳しく知りたいと思いました。
実は志度寺の仁王門にある仏像
「運慶作」と伝わっています。そうだと思っていました。
でも、この番組によると、運慶作だと言われているものは、
わずか31体で、その中に志度寺の仁王像は残念ながらありません。
こちらの番組も似た内容です。
東大寺南大門の金剛力士像

志度寺のは?

志度寺の金剛力士像は昭和49年に解体修理が行われ、
解体中に吽形の首筋の後ろから見つかった、
縦18cm横9cmほどの木札に
「作者、運慶。修理、国主左近衛少将源頼重公。云々
寛文11年(1671)」
とあったそうです。
左近衛少将源頼重公というのは、初代高松藩主松平頼重公のことですね。
江戸時代の修理が雑だったため、像の傷みが激しく、「運慶作」のお墨付きが
得られないらしいのですが、本当の所はどうなんでしょうね。
奈良仏師の運慶がなぜ志度寺に? とも思いますが、
志度寺は藤原北家の祖、藤原房前に深い縁があるお寺で、運慶たちは
藤原氏の氏寺である興福寺を活動の拠点にしていたそうですから、
全く縁がないというわけではありません。
「運慶とは何者か」というテレビ番組みたいに、この像にCTスキャンを
かけて、真相を突き止めたいですね。