さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

紀貫之

2021-06-15 23:07:05 | 活動報告
漫画アプリで、「超訳 百人一首」という漫画があることを知り、
毎日少しずつ読んでいます。
 
今日は紀貫之
 
幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。


記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。

 天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、その外戚としてさらに繁栄し、桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。 


今、漫画アプリで、「応天の門」という菅原道真の漫画も読んでいるのですが、

 
お話の中でいつもドジを踏んでいる 紀長谷雄 って、
実在したんですね。(笑) しかも偉くなっている!

そして、讃岐の国司として、領民に人気のあった紀夏井が「応天門の変」で
罰せられ、土佐へ流されることに😨 
「応天の門」の中で、度々、悪事を働いていた、獣のような男・紀豊城が、紀夏井の弟だったとは!😱 

歴史の本を読んだだけではなかなか頭に入ってきませんが、漫画で読むと
わかりやすいです。漫画、おすすめ。


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運慶

2021-04-04 22:06:24 | 活動報告
「運慶とは何者か」というテレビ番組を偶然見まして、
初めて、「運慶」のことを詳しく知りたいと思いました。

実は志度寺の仁王門にある仏像
「運慶作」と伝わっています。そうだと思っていました。
でも、この番組によると、運慶作だと言われているものは、
わずか31体で、その中に志度寺の仁王像は残念ながらありません。

こちらの番組も似た内容です。


東大寺南大門の金剛力士像


志度寺のは?

志度寺の金剛力士像は昭和49年に解体修理が行われ、
解体中に吽形の首筋の後ろから見つかった、
縦18cm横9cmほどの木札に
「作者、運慶。修理、国主左近衛少将源頼重公。云々
 寛文11年(1671)」
とあったそうです。

左近衛少将源頼重公というのは、初代高松藩主松平頼重公のことですね。
江戸時代の修理が雑だったため、像の傷みが激しく、「運慶作」のお墨付きが
得られないらしいのですが、本当の所はどうなんでしょうね。

奈良仏師の運慶がなぜ志度寺に? とも思いますが、
志度寺は藤原北家の祖、藤原房前に深い縁があるお寺で、運慶たちは
藤原氏の氏寺である興福寺を活動の拠点にしていたそうですから、

全く縁がないというわけではありません。

「運慶とは何者か」というテレビ番組みたいに、この像にCTスキャンを
かけて、真相を突き止めたいですね。

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志度庄

2020-12-14 22:10:05 | 活動報告
志度寺に伝わる「縁起絵」が作られた背景を調べています。

太田昌子編著「志度寺縁起絵」という本の最後の方に
「志度寺の歴史と謎」 菅原昭英 という論文があります。p277~
以下はそこからの抜粋です。



志度寺縁起文は13世紀~14世紀中頃までに成立したとされています。

志度寺縁起によると、志度寺建立は推古天皇33年(625)。
しかし、「志度」という地名が文献で確かめられるのは
九条兼実の日記「玉葉」(1181年)の頃です。

志度寺本尊、十一面観音菩薩像は10世紀後半の造立と想定。

九条兼実は藤原北家の人です。

この人の日記に出てくる「志度庄」は、この時代、
後白河法皇が建春門院平滋子に基づいて建立した最勝光院に寄進され、最勝光院を本所とし、
後の天台座主、慈円(1155~1225)が領家職でした。

慈円は、九条兼実の弟で、親鸞が9歳の時(1181年)慈円の元に入門しています。

12世紀後半、志度庄は、上皇の荘園で、天台座主が領家ということは、志度寺は天台宗と関わりがあったのかもしれません。

そして、志度寺縁起絵の一番最初のお話、「御衣木縁起」は
12世紀中頃に成立したとされる伝菅原道真撰「長谷寺縁起文」を拝借したものらしいです。
 え? この「長谷寺縁起文」、菅原道真が書いたということでしょうか?


  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[113](ウィキペディア)

長谷寺縁起に出てくる近江国の地名と大和国長谷寺を結びつける話は、10世紀に成立した「三宝絵詞」などから見え始め、それらを再編成したのが、「長谷寺縁起文」なのだそうです。

菅原道真さん、讃岐の国司だったこともありますねえ。

菅原道真 承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)。  
 仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司) 
寛平2年(890年)任地より帰京 

長谷寺縁起を書いたのは、讃岐から帰ったあとみたいですね。
菅原道真は、讃岐にいたとき、「桃太郎」や「竹取物語」を書いたとも言われているようです。

今日はここまで

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英雄たちの選択

2020-06-14 22:30:45 | 活動報告
BSプレミアムの私の大好きな番組が
YOUTUBEで見られます。

英雄たちの選択 「古代史ミステリー 乙巳の変 蘇我氏はなぜ滅ぼされたのか?」

英雄たちの選択 「古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略~半島危機と倭の五王~」
https://youtu.be/79RDMNkQu5c
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松山旅行

2020-01-23 22:58:37 | 活動報告
12月15日(日)に「おへんろつかさの会」で松山に行きました。
目的地は
「愛媛大学ミュージアム」
「古照山薬王院 大宝寺」
「松山市考古館」
でした。

もう一月以上前の話ですが、思いだしながら書きます。

愛媛大学ミュージアムはこんなところです。
  ↓

「四国遍路と弘法大師信仰」という特別展があるということで見学に。
弘法大師関連の絵図や四国巡礼の史料がたくさん展示されていましたが、
それらは撮影できず、常設のものは撮影OKということで撮ってきました。








大学内に、大学で研究した成果を発表するための展示室が
あるんですね。素晴らしい。

実は私、愛媛大学法文学部文学科卒で、日本史専攻してました。
古文書も読んでいました。
でも、私が居た頃は、「お遍路」なんて言葉、聞いたこともなかったかも?
今在校生だったら、面白いでしょうね。

ガイドの学生さん、とてもしっかりしていて、
お勉強もよくされているようでした。



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