さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

ルンルン地蔵寺2

2019-11-17 23:18:13 | 活動報告
昨日の続きです。

地蔵寺を訪ねるのに、なぜ、志度浦に行ったか、と言うと、
地蔵寺と縁がある志度寺にこんな縁起絵が伝わっているからです。



鎌倉時代後期に描かれたと言われる「御衣木縁起絵」。
この絵の下3分の1に描かれているのが志度浦で、
この海に流れてきた霊木を、この辺りに住んでいた凡薗子という
尼さんが引き上げ、仏師に観音様を彫らせ、小さなお堂を建てたのが
志度寺の始まりだというお話。

書けば長くなりますが、鎌倉時代後期に描かれたというのに、
琵琶湖~宇治川~巨椋池~淀川~志度浦という広い地域の
地形の特徴をよく捉えて、一枚の絵に上手に収めていることに
感心してしまいます。
そして、薗子尼が住んでいた所が後に地蔵寺になったので、
地蔵寺は志度寺の奥の院と言われています。

志度浦で、この絵の説明をするのが、この日の私の最初の試練なのでした。

その後、志度寺でお参りをして



地蔵寺にUターンです。


途中で、志度城に寄って、また私のガイド😅 

室町時代、管領細川氏が讃岐の守護でしたが、
細川氏配下の安富盛長が、
15世紀半ばに津田に雨瀧城を築いて、志度に出城を置いたのが
志度城の始まりです。

応仁の乱の時、細川氏は東軍の大将でしたから、
讃岐の武将たちも大活躍したらしいですが、
とにかく戦いに明け暮れた時代で、

1583年、長宗我部元親が雨瀧城を落としたとき、志度城も落城したようです。

そのころ、志度城に居たのが、摂津から来た多田和泉守で、多田家は、
領主が
安富→生駒→松平
と変わっても、代々、村の役人を務め、
五代目権右衛門の時に、長尾の豪族、寒川氏の娘と結婚したときに
寒川性を名乗るようになりました。

そして、その息子の寒川金兵衛と言う人が、たいへん信仰心の厚い人で
多くのお寺に寄進し、地蔵寺の再建にも貢献しました。
また、当時の地蔵寺の住職、蜜英さんは権右衛門の五男で、金兵衛さんの異母兄弟です。

こんなふうに、地蔵寺に行く前に、盛りだくさんの内容で、
さらに途中で、ゲスト参加の方から町のことをガイドしていただくという
ラッキーもあり。
書くことがたくさんありすぎるので、
地蔵寺のご紹介はまた明日。😅 



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閻魔様の日

2019-09-17 22:59:37 | 活動報告
毎月17日は志度寺閻魔堂ご開帳の日です。

中に入って間近に拝観できます。

閻魔堂と対になっている奪衣婆堂も中が見られます。



枯山水のお庭はいつでも見られます。


この手水舎が取り壊されていました。
改めて見ると、今にも崩れそうな様子ですが、
でも、壊されてしまうと寂しい。

また志度寺に新たなエピソードが。

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ルンルン♪

2019-09-10 21:13:25 | 活動報告

「おへんろつかさ・志度班」の秋の行事のチラシができあがってきました。



このチラシを、地蔵寺さん、さっそくお寺の前の掲示板に貼りだしてくれています。




地蔵寺さんの持仏堂はこの夏完成したばかり。
本堂にある六十六体の仏像も群像としては、日本に2例しかない貴重なもので、それを見せていただけるだけでも、ありがたい~~😍 

私はもう3回くらい見せて頂いていますが、今回は、じっくりと、遠慮なく、解説もしていただきながら、楽しみたいと思っています。

ご近所の方にもたくさん来てほしいな。

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微雲窟自性院常楽寺

2019-08-29 22:13:00 | 活動報告
お久しぶりです。
お盆の間、夏バテと風邪で臥せっていました。いや、仕事はしていたんですが。
「お遍路つかさの会」に入って、張り切りすぎていました。今、ちょっと、何というか、「三歩進んで二歩下がった」感じです。
 仕事も家庭もあります。ゴールのない歴史のお勉強、焦らず、のんびり、コツコツとやることにしました。

で、お勉強再開の第一歩はこちら。



志度寺の山門に向かって、右側にあるお寺、自性院さんのご住職様は、

真言宗善通寺派管長
総本山善通寺法主
樫原禅澄さんです。

そんな偉い人のお話を、日曜日の夜、ふらっと、聞きに行けるなんて、
志度って、すごいですねえ。

御本尊は不動明王だそうですが、
本堂の真ん中に祀ってあるのは、人形(ひとがた)の像だったので、「誰かな?」
と思ったのですが、
弘法大師
だったみたいです。
本堂の場所が、元は志度寺の御影堂(みえどう・弘法大師をまつる)の跡とも伝えられているからだそうです。

境内には、平賀源内のお墓もあります。

さて、お寺でありがたいお話を聞きながら、
改めて、
「仏教って、良く生きるための方便を教えてくれるもの」
という思いを強くしました。

で、この一文を書いてから、「方便」の意味を確認したら、
なんと!
まさに「方便」、仏教用語でありました。

本当に、日本人と仏教って、すごく密接につながっているんですね。

まだ法律が整っていなかった時代、例えば、大化改新の頃、中大兄皇子と鎌足は、政治改革のため(?)政敵を次々と殺し、その後、天皇家にツタのように絡まった藤原家は、権力を握り続けるために陰謀の限りを尽くします。
また、その時代は、父親が同じでも母親が違えば結婚できるという、とても小中学校の教科書には書けないような男女関係がまかり通る時代でもありました。

そんな、今の時代から見れば、倫理も正義も道徳ももうメチャメチャな時代から、日本人は、仏教と共に進化しながら今の倫理観を構築してきたのかな、と思うのです。

だから今、仏教の勉強をするのって、宗教として、と言うより「自分がよりよく生きるため、あるいは楽になるため」に仏教のことを知りたい、という感じでしょうか。

まさに、「悟りを開く」?











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四国徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)

2019-08-06 21:47:36 | 活動報告
江戸時代に発行された四国遍路のガイドブック。
なんと、志度図書館で借りられました!


文庫本ですけどね。
本書の元になった本は、初版本の改版にあたる本で、1687年に出版。
{読み下し文}{現代語訳}に地図までついているので、現代のお遍路さんが持って歩くのも面白そうですね。

八栗寺、志度寺に関するページを見てみると



「薗子尼の寺有」って、書いてある。😁 

それから、
1 摂津国大坂より讃岐国丸亀、志度、高松へ渡海する時は、北堀江1丁目の田嶋屋伝兵衛方にて渡り方を尋ねてください。銀二匁が丸亀までの船賃です。

と書いてあります。

地図もあって



昔の遍路道がわかります。
今、信念さんのお墓がある洲崎寺の横を通っていますね。




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