あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いします
新年早々、帰省していた孫のインフルエンザを貰ってしまい、寝込んでいます。
まじかに迫った「松井英介さん講演会」(1月11日)焦っていますが、身動きがつかず、皆さんの励みにお任せするばかりです。
前回の「崎山比早子さん講演会」では、やはり皆さんのお世話になり、旧年もお世話になりっぱなし、今年もその線で行くことになりそうです。
どうか宜しくお願いします。
崎山さんとの交流会では、大いに盛り上がり「高木学校通信」の原稿依頼を受けてしまいました。
私の酔った勢いでしゃべった馬鹿話が、崎山さんをよほど楽しませたらしく「山本さん、そのまま原稿にしてください」との事。
1200字にまとめるのには苦労しましたが、無事投稿。
「高木学校通信」届きました。以下に転載します。
メルトダウンブルースデモ隊が行く 山本祐子
今日は11月8日第2土曜日、脱原発四万十行動月例デモの日だ。四万十川にかかる赤鉄橋下に集まり、「メルトダウンブルース」を歌いながら町を一周。四電中村支店前では、思い思いのスピーチをして、全行程約1時間。ユーチューブで「メルトダウンブルース」は全国区になったが、デモ隊の人数は今も変わらず10余人。それでも、デモ隊の約半数は1時間半掛けてやってくる。少数精鋭だ。私は四電中村支店には、毎月お手紙を持参して料金を払いに来る。「私係り」の課長がいつも応対。応接室でお手紙を読み上げ、約30分の雑談。「東電はガスコンバインドサイクルで黒字なのを知っていますか?」とか「ハンナ、アーレントはもうご覧になりましたか?」など話題は和やかだ。帰る時には来月の約束までしてくれる様になった。「山本さん、来月も着ていただけますか?」「はい、もちろんです。」こんな事やデモをやって何になるのかと思う時もある。しかし、28年前のチェルノブイリ原発事故の時、反原発は大いに盛り上がったが、時間と共に生活の忙しさにまぎれて、忘れられた様に静かになった。そして、福島の事故が起こったのだ。私はどんな小さな事でも続けようと思う。私自身が忘れない様に。28年前には、私達家族も一生の大転換を迎えた。小出裕章さんの一言「放射能で汚染された食品を豊かな日本の人達は拒否してはいけない。何故ならば、拒否された食品は第3世界の貧しい子供達の口に入るからだ。」これが私の胸に刺さった。私の大好きな4人の娘達に、どんな欠片でも放射能を食べさせるなんてできない。しかし…安全な食品を選ぶ毎に心が痛む。京都の生まれ育ちで、土も触った事がない私だったが決心した。「もう、自分で作るしかない。自給自足だ!」夫は会社を後輩に譲り、移住地を探しに出かけた。その一年後、高知県西部の山間で、私達一家は自給自足の生活を始めた。約7年間の山暮らしから、今は四万十市に引っ越して20年になるが、米、野菜、卵、果実など食料自給率は85%を維持している。4人の娘達もそれぞれ独立したが、3.11の時、2人が東京に住んでいた。3.11の3日後、14日夜7時のNHKニュースで「2号機に水が無い」とアナウンスされた。「それって?メルトダウン!」すぐに「今すぐ!!西へ!」と指令を出したが生きた心地がしない。「大阪行き最終の新幹線に乗った。」と聞いてどうにか安心。私はこのニュースで東京は大パニックになると思ったのだが….何故かならなかった。なんと翌日15日には、静岡の地震で新幹線はストップ。後で分かったが、15日は東京に放射能が降った日だった。こんな危ない思いを私たちは何時までするのか、福島の子供達をどうするのか、答えは分かっているはずだ。さあ、デモに出かけよう、この町の人達に福島を忘れさせない為に。