ある人物が公職に適役かどうかを判断する「根拠」に、その人物の考え方や行為を根拠にすることは、人権や民主主義といった価値観からは、真っ当なことだ。どういう考えで何をしようとしているのかを聞いて判断されることはまさに、公職に就いている/公職に就こうとしている人が受けるべき洗礼だから(民主主義という価値感の下においては)。
いっぽう、性別や年齢、血液型や人種、門地出身といったものを根拠にすることは、差別主義だ。人権や民主主義といった価値観とは正反対の価値観、人権や民主主義といった価値観では最も許容できない価値判断だ(相容れない価値観の一つ、ではなく、最も正反対の価値観)。
でも差別主義者にとっては、違う。差別主義者にとっては、それ↑は真っ当なことだ。真っ当というか、自然なことだ(堂々と差別主義を提唱する人はもちろんのこと、仮に繕っていても(仮面人権主義者)、そういう人の口からは、自然にポロッと出るだろう。失言というやつですね。当人や擁護者は、そこにそんなに噛み付くな、拘るな、大したことじゃない、と言うだろうけど、多くの場合、そこにその人の本質が現れている)。
それが「価値観」というものだよね。
いっぽう、性別や年齢、血液型や人種、門地出身といったものを根拠にすることは、差別主義だ。人権や民主主義といった価値観とは正反対の価値観、人権や民主主義といった価値観では最も許容できない価値判断だ(相容れない価値観の一つ、ではなく、最も正反対の価値観)。
でも差別主義者にとっては、違う。差別主義者にとっては、それ↑は真っ当なことだ。真っ当というか、自然なことだ(堂々と差別主義を提唱する人はもちろんのこと、仮に繕っていても(仮面人権主義者)、そういう人の口からは、自然にポロッと出るだろう。失言というやつですね。当人や擁護者は、そこにそんなに噛み付くな、拘るな、大したことじゃない、と言うだろうけど、多くの場合、そこにその人の本質が現れている)。
それが「価値観」というものだよね。
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