(その2より続き)
最後は、40歳代の半ばに、苦しくなって
夜中に飛び起きるという強烈な不整脈に
襲われ、生きるための支えが欲しくて
「仏教」と縁を持ったことです。
そしてその教えを日常的に生かすように
してきたことで、その後の30数年間は
生きるのが楽でした。
たとえば「生」「老」「病」「死」は
「四苦」といわれます。
「苦」は苦しいではなく、原語ではドウクハと
いって思い通りにならないという意味です。
つまり、人生は思い通りにならないものと
受け取れということです。
この思い通りにならないものを思い通りに
しようとするから苦しくなるわけで、
思い通りにならないものなら、思い通りに
ならなくてよいと明らめることです。
また「こだわらず、とらわれず、
あるがまま受けよ」です。
これは色即是空、空即是色の
「空」の精神です。具体的には、
「老い」にはこだわらず寄り添い、
「病」にはとらわれず連れ添う、
「健康」には振り回されず「医療」には
限定利用を心がけ「死に時」がきたら
妙にあらかわずに受けるということです。
発達したといわれる「医療」にどんなに
すがっても「死」を回避することは
できません。
私達には、生来、穏やかに死ねるしくみが
備わっているのです。
それを邪魔するのが、ただ死ぬことだけを
先送りする「延命医療」と”延命介護”
なのです。
生きるためには、のんだり、食べたりする
必要がありますが「死に時」がくれば、
その必要はなくなります。
その結果「のどが渇かない」
「腹がへらない」状態になるのです。
つまり「飢餓」「脱水」状態になり、
死ぬときは枯れるのです。
「飢餓」では、βーエンドルフィンという
”脳内モルヒネ”が分泌されて気持ちよくなり
「脱水」では、血が濃く煮詰まり傾眠状態に
なるのです。また、この頃になると呼吸状態も
悪くなります。呼吸は酸素を体内に採り
入れ、体内の炭酸ガスを排出する作業です。
死が迫りまると時々何十秒か息の根が
止まったり、あえぐような呼吸をしますので
酸欠状態になります。
酸欠状態でもβーエンドルフィンが
分泌されます。
あえぐような状態を見ると本人が
苦しんでいると受け取るかもしれませんが、
顔は全くゆがんでいません。
ですから、苦しいわけではなく死にゆく
全く普通の状態なのです。
そして炭酸ガスを排出されませんから
貯まります。これには麻酔作用があります。
つまり、死に際の「飢餓」も「脱水」も
「酸欠状態」も「炭酸ガスの貯溜」も
穏やかに死ぬための自然のしくみと
いうことなのです。
かつて、年輩の葬儀社の方から聞いたことがあります。
昔は遺体が枯れていたので納棺が楽だった。
しかし、今は病院で死の当日まで点滴注射
などして水ぶくれになっているので
重くて納棺に難儀すると。
「同和園」では1滴の水も入らなくなっても
すぐ息を引きとることはなく平均で
7日~10日でこの間スヤスヤ寝ています。
平均ですから2-3日の人もいましたし、
12ー13日の人もいました。
点滴注射も酸素吸入もしない「がん」の
自然死の場合も同様の過程を辿ります。
(もちろん、発見時、手遅れで痛みはありません。)
なぜ手遅れで見つかるのかといえば
痛まないからです。
痛みがあれば早くに見つかっていた
はずです。
ではなぜ見つからないかといえば、
近頃食べる量が減ってやせてきた、
顔色もよくない、どこか悪いのではないかと
家族が心配するので病院を受診しました。
その結果、手遅れの胃がんや肺がんや
大腸がんが見つかりました。しかし、
病院では、もはや手の打ちようが
ないといわれます。家族も年も年ですし、
ボケてもいますので、このまま、老人ホームで
看取ってもらえないかという話になります。
しかし、わたしも病院ではのたうち回って
死んでいった「がん」患者しか知りません。
ですから素人集団の老人ホームで
看取れるかと最初はビビりました。
でも3例、5例と見ていくと
みんな穏やかな最期を迎えるのです。
それからは、今、痛んでいないから、
最後まで痛まないと思いますよといって
受け入れるようになったのです。
今自宅で死にたいと思っている人は
6割ぐらいいるといわれています。
(その4へ続く)