okinatchiの四次元徘徊記

 毎日の出来事を書き綴ります。

8月15日

2016-08-15 18:58:58 | 日記
  8月15日 曇り、晴れ、曇り。 午前6時の気温は26℃であった。起床後直ぐに住居前を5千歩ほど歩いた。午前10時半頃に友人宅につき直ぐに友人を車椅子に乗せ友人の息子さんも一緒に目黒道路まで出て、流しのタクシーを拾いKo公園近くの焼肉屋Jyoに行く。3人で美味しい焼肉を食べてタクシーで友人宅に戻り、午後3時過ぎに帰途につく。

 71年前の今日、正午に天皇陛下の重大放送があるから全国民が聞くようにとのラジオの予告が朝から繰り返されていた。東北地方のY県立T中学校4年生で15歳の私は朝の8時前に学徒動員先の飛行機製作工場に行った。職場の朝礼前に作業場にいた人達は、前代未聞の天皇陛下の放送内容について各人が憶測した内容を盛んに喋りあっていた。その日の数ヶ月前頃から工場への原材料や部品などの供給が途絶する事態も多く、戦争を続けられないのでは? と、誰もが思っていただろうが、当時、そんなことを話したら、即、特別高等警察や憲兵に連れていかれるような雰囲気なので誰も本音を話せなかった。

 正午前に工場中の総ての人間が工場の空き地にきちんと整列して天皇陛下の放送を待っていた。澄んだ青空の中に太陽が輝いていた正午に天皇陛下の重大放送が始まり、スピーカーから天皇による終戦の詔勅の声が流れ始めたが、声は大きな雑音でマスキングされていて良くは聞えなかったが「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んで」という言葉を聞いて、アッ!これは戦争を止めることらしい、と思い当たった。

 その後のラジオ放送で大日本帝国がポツダム宣言を受諾し連合国に無条件降伏をしたことが判り、私達は中学校に帰校し学徒動員を解除し学業に復帰させる、との話を聞き帰宅した。学校からの帰り道で、あ~、これで当分は死ななくても良くなった、と、心にわだかまっていたシコリが消えて行くのを感じていた。

 帰宅したら戦争が終わったことで祖母が近来になく和やかで明るい顔つきをしていた。戦争が終わった実感は、その日の夕方から灯火管制がなくなり、どの家からも明かりが外に漏れていることで強く感じた。当時の日本国民は「我が国は、古来、他国に負けたことがない」と教え込まれており、誰一人として戦争に負けるとどうなるか? が判らず誰も為すすべもなく、従って町は平穏を保っていた。

  終戦の 思い出浮かぶ 8 15  徘(徊)人 okinatchi