[小泉信三氏の訓示]
以下は戦後の大学再開(S20,09)に際し、慶応義塾大学へ入学された森口幸雄医学博士の手記から引用
『 東京帝大学長を筆頭に手の平を返したように戦場帰還学徒元士官に「戦争犠牲者」と断じた昭和20年秋にあって、小泉塾長だけは「君らを誇りに思う」「戦犯にかけられる学生がいれば私が処刑される」とこう発言されておられたのです。以下少し長くなりますが、森口医博の全文を紹介します(私のみが所蔵するのは勿体ないと思ったからです)。
「昭和20年9月から東大、京大、早稲田と各大学が再開、それぞれの学長のスピーチが新聞やラジオで紹介された。
何処の学長も手のひらを返したように生還復学した学生に、『諸君は気の毒だった。軍国主義の犠牲となった。早くそれを忘れて学業に精進するように』という趣旨だった。それならそうと何故あのとき(1943年10月21日、出陣学徒壮行会)そう言わなかったかと思った。
そして慶応義塾が再開した。私は、小泉塾長も同様な発言をされるかと思いきや他の学長らとは真逆の話を始めた。以下3点である。
1.私は諸君に心から敬意を表します。2年前に私は『最高の価値は祖国のために命を捧げることだ』といった。その私の言葉に従って君たちは勇躍出征してくれた。これに対して賞賛し感謝する。
2.戦争に負けたことは問題ではない。ヨーロッパでは何度も戦争に勝ち負けしている。日本は負けた経験がないので大きなショックを受けているが(諸君らが)祖国の為に命を捧げる用意があったということを、一生の誇りとしてもらいたい。
こんな素晴らしい事実はない。
祖国とは何ですか、貴方たちの愛する両親、兄弟、友達が住んでいるところです。
それを守るために命を捧げることができた。この誇りは戦争に負けた事とは全然関係ない。
3.戦勝国はポツダム宣言に従って戦争犯罪者のための軍事裁判を開くだろう。そして君たちの部下の兵隊がやったことについて責任を取らされ終身刑になったり銃殺刑になるかも知れない。そのとき裁判官に次のように言ってもらいたい。「戦場に行けと小泉塾長に言われたので戦争にいった。責任は私たちにはない。責任は小泉塾長にあると言ってもらいたい。君たちの代わりに小泉は諸君のため諸君の代わりに銃殺刑のその場所に立つだろう。私は諸君の命の代わりになる準備がある」
その瞬間、みなわっと泣きました。私も声を出して泣きました。私的には戦争でひとり息子さんを24歳のわかさで亡くし(小泉信吉海軍大尉)、失意の下におありでしたが日本人としての誇りをうしなわず、私たちを抱き込んでくださったこの訓示を71年経た今も昨日のように思い出されます。この日以来、医師になるために慶応に入った私でしたが、慶応生である事に誇りを持ちました。』
追記:私が昭和29年に防大(当時な保大)に入学した時は槙智雄校長でした
戦後、時の吉田茂総理の発案で3軍統一の士官学校創立を創立することになり保安大学が久里浜に開校され、
昭和28年3月、第1期生が迎え入れ、3期生から旧軍の首都防衛の要塞があった小原台に新校舎が建設され開校しましたん
私は昭和29年に2期生として久里浜の保安隊通信学校の一部を校舎としていた保大に入校しました
その間、新校舎の建設は小原台に進み昭和30年3月に移転して3期生を新校舎で迎え入れた訳です
当初、初代学校長は吉田総理の意向で小泉信三氏に予定されましたが氏は当時「東宮御教育常時参与」として
皇太子明仁親王(昭和天皇)関連の要職にあり、着任は不可能と判明、小泉博士の推薦で慶應義塾の法学部長の
槙智雄氏が着任されたと聴きました
昭和29年春入港間もない時、小泉信三氏が久里浜の学生食堂にご来場され学生一堂に訓示された時に聞いた話です
そして、その時に頂いた訓示で
『 男は40を過ぎると自分の顔に責任を 持たなければならない。』
と話されたのです
当時、壇上で訓示される氏は顔一面が火傷で酷いケロイド状になっておられたことが強い印章として残っています
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