野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

病気との付き合い方  ー 治る、治すということ ー

2024年12月15日 | 日記

今回は「治る」ということについて考ええます。

大抵の人は、「治る」ということは「元通りの体になること」と考えていると思います。しかし、病気にならなかったとしても、体は絶えず変化していますので、「元通り」の状態などありえないのだと思うようになりました。自らも幾つかの病気を経験し、また、医師として多くの患者を診てきて、元通りにはならないことを実感しています。医療者の立場から言えば、病気から生じている患者の苦しみを幾らかでも和らげることが出来れば治療としては成功としていいのではないかと考えるようになっています。患者として考えると、多少の自覚症状や不都合があっても、生活していければ、我慢できる範囲であれば、良しとしようと思っています。色々なご批判はあろうかと思いますが、病気との現実的な付き合い方として、妥当だと考えます。

医師として、自分の実力を顧みて、少しでも患者の悩み苦しみを軽くできればと思うことに批判はないかと思います。問題とされるのは、患者にも病気による症状を受け入れることを要求していることでしょう。しかし、激しい痛みに苦しんでいる場合は兎も角、通院しているレベルの疾患では、症状は様々あるとしても、どうにか生活はできているわけで、あらゆる症状を完全に除去して、「元通りになること」を目指すと、苦しみばかりが強調されると思うのです。次の表現は鎮痛剤メーカーのパンフレットの中で見たものですが、痛みを完全に無くすことを目標とするのではなく、「痛みは少しあるけれども、○○ができる(○○には自分のやりたいことなどを当てはめる)ことを目指すべきというのです。なるほどと思いませんか。少しでも症状が残っていることを不満に思い続けると、逆に希望を失ってしまいそうな気がするのです。病気の苦しみから解放されたいと願うことは尤もで、気持ちとして理解できますが、そこにこだわると先に進めない気がするのです。「治ること」を生きる目的のようにしてしまうのではなく、生きる目的、目標のために、「このくらいなら我慢して、やりたいことが出来る」というところを目標にしたほうが生き易いと思うのですがどうでしょうか。

医者として、「逃げている」と言われれば、その通りかもしれませんが、謙虚に病気と向き合っているつもりです。

ついでに患者さんたちに求めたいことを少しつけ加えさせてください。多くの方が新聞や雑誌、テレビの広告を見て、健康に良いとされているもの、自分の病気の症状を軽くすると言っているものを高いお金をかけて購入したりします。色々なことを試されるのは構いません。しかし「これさえやれば大丈夫」というようなものに飛びついて、何か一つのことやモノで病気が良くなるということはないのだということを強調しておきます。人間誰でも「これさえやれば大丈夫」というものにすがる経験はあると思います。中学生、高校生の頃、受験のために「受験英語、これさえできれば大丈夫」みたいな歌い文句の参考書や問題集を買い込んだ経験があるのではないでしょうか?ダイエットなども、「こんなに簡単な方法で大成功」みたいな言葉に振り回されたこともあるのではないでしょうか。××だけで大丈夫というものはなく、どの方法も有効かもしれませんが、色々な方法を複数行い、継続することで何事もできるようになるものでしょう。わかっていても、やってしまう失敗ですが、病気との付き合いでも、様々な方法を続けていくことで、症状はあっても、自分のやりたいことが出来るようになるのだと思います。


病気との付き合い方  ー 治る、治すということ ー

2024年12月08日 | 日記

「治す」ということについて

まだ脳外科医として駆け出しのころ、一般外科医の兄から「脳外科なんて、何も治せないじゃないか」と言われたことがあります。脳外科医がしている仕事を見渡してみると、なるほど、治すということからは程遠いということは自覚しました。たとえば、くも膜下出血の患者を診たとき、脳動脈瘤が見つかり、手術適応があれば(重症度が適当ならば)当時としては標準的手術であった、ネッククリッピングが行われました。しかし、この手術の目的は「再破裂の予防」であり、出血そのものや損傷した脳組織を修復することはできません。その意味では、確かに治してはいないと考えました。他の疾患もそうです、重症脳出血や外傷性頭蓋内出血に対する血種除去も、脳虚血に対する血行再建術も、悪性脳腫瘍の摘出も「治す」とは言えません。脳という特殊な臓器が対象なので仕方がないことかと思いましたが、一般外科医(兄の場合は消化器外科が主な領域でしたが)でも、例えば癌を摘出したとしても、それは治すと言えるだろうかと考えました。負け惜しみみたいですが、結局、「消化器外科だって、ただ切って繋げるだけではないか」と。それは「治す」」ことだろうかと。「治す」のであれば、病気になる前の体に戻すことこそが「治す」ということではないかと思うのですが、如何でしょうか?兄に言い返しはしませんでしたが、心の中ではこのように思っていました。

外科医(小生もその端くれでしたが)は、「俺が治す、治した」と思うくらいの傲慢さが無くては他人の体にメスを入れることなどできないでしょう。司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という作品で読んだものですが、古来、日本では「身体髪膚、此れを父母に享く、あえてキショウせざるは孝の始め也」という儒教的な考え方から、医師といえども他人の体に故意に傷をつけることには抵抗があったようです。また、そもそも人体の構造や生理についての基礎知識も心許ない時代でしたから、手術など出来よう筈もありませんが、このような基本的考えから、外科とは外道であり、内科こそが本道であるというのが和漢方の考え方だったといいます。しかし、今でもそうでしょうが、鮮やかに手術が成功したとき、患者やその家族はもちろん医師たちも感嘆の声を挙げるでしょう。でも、冷静に考えてみると、やはり病気になる前の体には戻っていないのです。

「治す」とは、どういうことでしょうか?そろそろ医師としてのキャリアを終えようという歳になり、病気を治すなど不可能であると考えるようになってきました。日常診療では、使い古された表現ですが、患者自身の体の治癒力の妨げとならないように、唯々、その手助けができるようにと努力しようと心がけようとしています。

将来の唯一の望みは、幹細胞を使って臓器組織を再生することだけが「治す」ことになるのだろうと思いますが、道はまだまだ程遠いようです。

少し話がそれますが、転移性脳腫瘍も脳外科にコンサルトされることの多い疾患ですが、脳に転移しているということは、元の癌のステージで言えば、「他臓器転移あり」ですから、ステージ4の末期にあたるでしょう。今ではこんなことはないと思いますが、若い頃、一般外科から乳がんの術後再発患者が、外来に何の連絡もなく、外科外来から運ばれてきたことがあります。脳転移からけいれんを起こしたためでしたが、診察時にはけいれん発作は収まっていましたので、まずは担当の外科医が診察の上で、脳外科へキチンと紹介状を添えて搬送されるべきものだと思うのですが、その時は全く唐突に患者がストレッチャーで運ばれてきました。どういうことかと連れてきた看護師に問いただしたところ、担当医は「もう外科でやることはないから、脳外科外来に連れていけ」と言われたとのこと。なんとも失礼千万な話でありませんか。それでも患者を前に担当医と手続きついて言い争うようなことはできませんから、そのまま受け入れ、看取ることになったのでした。

この話は、手続きの問題もありますが、日頃、気になっていたことを紹介するために此処に記しました。「気になっていたこと」とは、転移性脳腫瘍を扱っていると、患者やその家族に、元の担当医からの説明内容を確認するのですが、ほとんど常に「手術は成功した」と説明されているのですが、患者や家族からは「どうして手術が成功したのに、脳の転移が生じて、末期だということなのか」と質問されることでした。元の疾患の予後、見通しについての説明がされていないかのように話されることが多く、答えに窮しました。

「手術は成功しました」というのは、手術を終えた外科医の常用句だと思います。その表現に間違いはないと思いますが、そもそもは、手術の目的目標を患者や家族に十分理解させていないことが、上の述べたような質問が出る原因でしょう。患者や家族は、どうしても希望的な解釈をしがちでしょうから、医療関係者との間で疾患に対する理解のすれ違いが起きるのでしょう。すべての外科医は十分注意して、術前の説明を行ってほしいものです。そして、自分のところでは打つ手がなくなり、他科に依頼する場合には手続きはキチンとしていただきたいものです。