前回投稿の最後にトリアージについて触れました。それについて、付け足しです。
東日本大震災の後、1年ほどしてから、仙台市に住む先輩を訪ねる機会がありました。「震災の時は大変でしたでしょう」と言葉をかけたのですが、幸い先輩のところは停電が少し長引いて、MRIのクェンチングが心配されただけで、大したことはなかったとのこと。しかし、その後の話に考えさせられました。
年を取ったとは言え、医師の端くれとして、何か災害現場の役に立ちたいとDMAT(JMAT?)にお手伝いを申し出たそうですが「開業医の先生方は、死体検案でもしてください」と言われたそうで、いたくプライドを傷つけられたと憤慨しておられました。検案も大事なことではありますし、ロートル医師は救急現場では役に立たないのかもしれませんが、もう少し年寄りの利用の仕方を考えてもらいたいと思いました。ただし、あの震災の際には、ほとんど津波による死者がほとんどで、DMATなどの活躍場面は少なかったと聞いておりますので、止むを得なかったと思われますが、一言何か付け加えていただいていたら、先輩も憤慨せずに済んだだろうと考えています。
さて、大災害などの場面でトリアージが行われるわけですが、バリバリの現役救急医師にはトリアージ後、助かる命に全力を注入していただきたいと思います。一方で、処置なしとされた方達にも、最後まで寄り添う医療関係者が必要だと思います。そのようなところに年寄りを利用していただきたいと思うのです。中田力先生は、その著書「穆如清風」の中で「医師は犬にならなければならない」とおっしゃっています。死に行く人の傍らで、犬のように黙って寄り添うということです。医療は万能ではなく、患者の死を見送ることは少なくありません。そういう場面では年寄りが役に立てると思うのですが、如何でしょうか?