野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

命は誰のものか

2025年02月23日 | 日記

長く生きてきて、そして医療という、直接的に命に触れる仕事に長年従事してきて、「命」について考えることが、他の仕事をしている方々よりは多いのではないかと考えます。沢山考えているから、正しいなどとは言いませんが、多くの方に賛同していただける考えではないかと、思い込んでいます。

タイトルにした「命は誰のものか」という問いですが、たとえば、自殺する人は自分の命は自分のものだと思っているのではないかと思うのです。いや、死のうとする人は、そんなことには考えが及ばないだろうというかもしれません。実際、そうなのかもしれません。しかし、命が自分一人のものではないと考えたならば、自ら命を絶とうとはしないのではないかと思うのですが、どうでしょう?

キリスト教を始めとして、宗教的に人工中絶を禁止している国や地方、民族など、沢山あることと思います。(実情は知りませんが)昨年のアメリカ合衆国大統領選挙を見ていて、「中絶は、殺人行為だ」と強く非難する人たちのいうこともわかるのですが、では、親が望まないで生まれてくる子供をどうするのでしょうか?それについての情報がありません。一方、妊娠・出産はそれ自体、生命の危険を伴うものでもある上に、望まない妊娠を女性に押し付けるなという意見も尤もと思いますが、中絶を選択した女性のその後のトラウマも小さくないという記事、報道も見聞きしました。ですから、安易に中絶を擁護することもできません。

私の考えでは、中絶を一方的に禁止するのではなく、妊婦の肉体的精神的負担をできるだけ軽くした上で、安全な分娩を保証し、望まない子供は里親制度などで、その将来を保証してあげる体制ができることが理想的だと思うのですが、どうでしょう?生むことの負担、生まれた命の負担を、社会全体で受け止めることが大事だと思うのです。

「命は誰のものか」という問いに対する、私の答えは「みんなのもの」ということです。

「チコちゃん」の受け売りですが、「産後、子育て中の女性はなぜ不機嫌なのか」という質問に対する専門家の回答が「本来、子育てはみんなで行うものだったのに、現代は母親に負担が偏りすぎているから」というものでした。この回答を聞いて、色々なことの回答が見えた気がしたものでした。上に述べた中絶の問題も、個人の問題とすると妊婦の負担が大きすぎますし、単に宗教的な主張から中絶を禁止するのも妊婦に対する気遣いがなさすぎるように見えます。また、生まれた子供についての議論がきちんと説明されていません。生まれる命は社会全体のものであり、社会全体で育てる意識があれば、対立の先鋭化は避けられそうな気がするのです。

自殺にしても、自分の命が自分一人のものではないと思っていれば、簡単にはできない(自殺した人が簡単に決断し、行動に移したとは言いませんが)。

日常の診療で、患者に病気が見つかり、直ちに入院治療が必要になった場合、誰にも相談せずに検査や治療を拒否する人が、たまにいます。社会的に重要だと思われる人(自分でそう思っているだけかもしれませんが)に、そういうケースが多いように思います。その時、月並みですが「あなたの一人の命ではありませんよ」と言います。「貴方の考えは尊重しますが、ご家族にも相談しましょう」と説得します。

かつて、「プライベート ライアン」という映画について書いたことがあります。一人の陸軍二等兵をアメリカへ帰国させるために、一つの小隊(?分隊?)がほぼ全滅するのですが、生き残った二等兵が戦没者のお墓の前で「自分は貴方達が命を懸けて助けただけも価値のある生涯を送ってきたでしょうか?」と問うところから映画は始まったと記憶しています。私は、すべての人が「プラベートライアン」なのだと書きました。つまり、我々一人ひとりが生まれ、生きてくる過程で、どれだけ多くの人たちの助けでそれまで生きて来られたのか、そもそも先祖代々の努力がなければ、生まれてさえ来なかったのかもしれないのです。だから、人はお墓を大切にするのではないでしょうか。

改めて言います。「命はみんなのもの」でしょう。

 


病気との付き合い方 ー 病も身のうち ー

2025年02月09日 | 日記

病気との付き合い方シリーズの最後に「病も身のうち」ということを強調したいと思います。

たとえば、癌ですが、癌細胞は元を質せば自分の体の細胞です。ちょっとした(?)手違いから体に悪さをする細胞が出来てしまうわけですが、そもそも生物の細胞は変異するものであり、生存に都合よく変異すれば、その変異は子細胞、しいては子孫へと引き継がれていきます。この変化する性質があるからこそ、あらゆる生物は生存し続けてきたわけです。悪い性質に変化したとしても、すべてが変化しているわけではなく、もともとの細胞の性質も残っているので、癌細胞を叩こうとすると正常の細胞も攻撃対象になってしまうジレンマは避けがたいのです。最近の、分子標的薬、抗体製剤などは非常によく出来ていて、癌細胞にかなり特異的に働くようになっているようですが、おそらく100%癌細胞のみを攻撃する薬の開発はむつかしいと考えます。

最近の話題では、アルツハイマー病に対する新薬が異例の速さで認可され、使用が開始されています。開発の発想そのものは新しいものではないと思います。原因物質の一つとされるアミロイドβに対する抗体を治療に用いようということは、随分昔から試みられていました。これまでは特異性が低かったために、正常の神経構造まで攻撃され、実用には至らなかったのです。この度はかなり特異性が高くなっているとはいえ、Amyroid Related Imaging Abnormality (ARIA) と呼ばれる副反応がMRI検査で認められることがあり、要注意とされています。おそらく、正常構造が免疫反応の対象となってしまっているのではないかと想像します。

この2例でも分かるように、やはり「病も身の内」なのです。

医者が諦めてしまって、どうする!というご批判があろうかと思います。諦めろとは言いません。医師としてではなく、人間として病に苦しむ悩む人を前にすれば、何としてでも、どんな手を使ってでも、その病を治したいと思います。それは理屈ではなく、情のなせる業かもしれません。生きる意味など分かりませんが、生命体として、同種異種を問わず、「生きたい、生かしたい」という思いは本能として備え付けられたものだと思います。

ただ、年を取るにつれて、疑問が生じてきているのも確かです。丁度、昨晩のテレビ番組で自分の細胞を用いた再生医療技術が紹介されていました。神経鞘や血管、軟骨、肝臓などを自分の体から作り、それを移植してさまざまな病気や障害を治そうというものでした。既に幾つかは実用されているとのこと。コメンテーターは「この技術を使うと、ケガや病気になっても、体の部品を交換して治すことが可能になり、400年、500年と生きる時代が来るのではないでしょうか」と述べていました。これは脳が衰えないことが前提のような気がします。長生きしたいという思いの根底には、「自分」(その定義自体難しいですが、とりあえず、意識出来ている自分としましょう)がこの先もずっと変わらないことが前提でしょう。長生きすれば、ほぼ間違いなく認知症になるとなたら、不死を願うかどうか疑問です。究極的には脳さえも交換する時代が来るというのかもしれませんが、交換した脳は元々の「自分」を持ち続けているのでしょうか?個人的なかんがえですが、脳をコンピューターに例えるならば、故障した、古くなったといって、マザーボードを交換したり、記憶媒体(ハードディスク、SDD、なんでもいいですが)を交換するようにできるものなのでしょうか?昔であれば、コンピューターをrestore或いは  recoveryすると、購入時の真っ新な状態にできますが、その後の手順としては、ソフトウェアをインストールし、データも退避先からアップロードし直したりといった手間をかければ、元の状態(使用していた時の状態)に戻すことが出来ますが、脳にそれが可能でしょうか?もしかしたら可能になるのかもしれません。その先は想像できませんが、そこから脳は発達を続けることが出来るのでしょうか?できなければ、いずれ行き詰まることになるでしょう。

もしも、人間が数百年も生きるようになれば、生殖行為はしなくなるでしょう。生物は種の保存を目的に生殖行為をし、子孫を残すと考えます。その際に、雌雄がある場合には異なる遺伝子の組み合わせが出来ることで、将来の変化に適応する可能性を広げるのですが、個体がいつまでも生きる結果、生殖行為をしなくなれば、自分たちで遺伝子操作をして変異を起こすことで、様々な環境の変化に対応するしかありません。予測不可能な将来に備えて、自らの遺伝子操作をする、できるようになるのでしょうか?

上に述べた、年老いて悟ったわけではありませんが、やはり、生き物はいつか死ななければいけないと思うのです。個体は死にますが、DNAは生存しようと努力し続けるのです。子供のいない個体も社会に貢献することでDNAの生存に寄与するのだと思います。多くの生物では配偶者を得ることなく、働きアリ、働き蜂として生涯を終えます。それらも無意味ではないと思うのです。

本題から外れてしまいました。病気tの付き合い方ですが、病も身のうちですから、命を脅かす病気、激しい苦痛を伴う病気、色々ありますが、どれも永遠に続くものではありません。病気になったからと言って、何もできなくなるわけではありません。残された時間が少なくなっても、辛い症状があっても、できることはあります。「○○だけど、××が出来る」というところを目標にして病気と付き合うことを、患者さんには勧めています。

イチローや大谷翔平でなければ、野球をやる意味がないわけではありません。自分なりに人生を楽しむ道はあると考えます。

 


病気との付き合い方  ー 治る、治すということ ー

2024年12月15日 | 日記

今回は「治る」ということについて考ええます。

大抵の人は、「治る」ということは「元通りの体になること」と考えていると思います。しかし、病気にならなかったとしても、体は絶えず変化していますので、「元通り」の状態などありえないのだと思うようになりました。自らも幾つかの病気を経験し、また、医師として多くの患者を診てきて、元通りにはならないことを実感しています。医療者の立場から言えば、病気から生じている患者の苦しみを幾らかでも和らげることが出来れば治療としては成功としていいのではないかと考えるようになっています。患者として考えると、多少の自覚症状や不都合があっても、生活していければ、我慢できる範囲であれば、良しとしようと思っています。色々なご批判はあろうかと思いますが、病気との現実的な付き合い方として、妥当だと考えます。

医師として、自分の実力を顧みて、少しでも患者の悩み苦しみを軽くできればと思うことに批判はないかと思います。問題とされるのは、患者にも病気による症状を受け入れることを要求していることでしょう。しかし、激しい痛みに苦しんでいる場合は兎も角、通院しているレベルの疾患では、症状は様々あるとしても、どうにか生活はできているわけで、あらゆる症状を完全に除去して、「元通りになること」を目指すと、苦しみばかりが強調されると思うのです。次の表現は鎮痛剤メーカーのパンフレットの中で見たものですが、痛みを完全に無くすことを目標とするのではなく、「痛みは少しあるけれども、○○ができる(○○には自分のやりたいことなどを当てはめる)ことを目指すべきというのです。なるほどと思いませんか。少しでも症状が残っていることを不満に思い続けると、逆に希望を失ってしまいそうな気がするのです。病気の苦しみから解放されたいと願うことは尤もで、気持ちとして理解できますが、そこにこだわると先に進めない気がするのです。「治ること」を生きる目的のようにしてしまうのではなく、生きる目的、目標のために、「このくらいなら我慢して、やりたいことが出来る」というところを目標にしたほうが生き易いと思うのですがどうでしょうか。

医者として、「逃げている」と言われれば、その通りかもしれませんが、謙虚に病気と向き合っているつもりです。

ついでに患者さんたちに求めたいことを少しつけ加えさせてください。多くの方が新聞や雑誌、テレビの広告を見て、健康に良いとされているもの、自分の病気の症状を軽くすると言っているものを高いお金をかけて購入したりします。色々なことを試されるのは構いません。しかし「これさえやれば大丈夫」というようなものに飛びついて、何か一つのことやモノで病気が良くなるということはないのだということを強調しておきます。人間誰でも「これさえやれば大丈夫」というものにすがる経験はあると思います。中学生、高校生の頃、受験のために「受験英語、これさえできれば大丈夫」みたいな歌い文句の参考書や問題集を買い込んだ経験があるのではないでしょうか?ダイエットなども、「こんなに簡単な方法で大成功」みたいな言葉に振り回されたこともあるのではないでしょうか。××だけで大丈夫というものはなく、どの方法も有効かもしれませんが、色々な方法を複数行い、継続することで何事もできるようになるものでしょう。わかっていても、やってしまう失敗ですが、病気との付き合いでも、様々な方法を続けていくことで、症状はあっても、自分のやりたいことが出来るようになるのだと思います。


病気との付き合い方  ー 治る、治すということ ー

2024年12月08日 | 日記

「治す」ということについて

まだ脳外科医として駆け出しのころ、一般外科医の兄から「脳外科なんて、何も治せないじゃないか」と言われたことがあります。脳外科医がしている仕事を見渡してみると、なるほど、治すということからは程遠いということは自覚しました。たとえば、くも膜下出血の患者を診たとき、脳動脈瘤が見つかり、手術適応があれば(重症度が適当ならば)当時としては標準的手術であった、ネッククリッピングが行われました。しかし、この手術の目的は「再破裂の予防」であり、出血そのものや損傷した脳組織を修復することはできません。その意味では、確かに治してはいないと考えました。他の疾患もそうです、重症脳出血や外傷性頭蓋内出血に対する血種除去も、脳虚血に対する血行再建術も、悪性脳腫瘍の摘出も「治す」とは言えません。脳という特殊な臓器が対象なので仕方がないことかと思いましたが、一般外科医(兄の場合は消化器外科が主な領域でしたが)でも、例えば癌を摘出したとしても、それは治すと言えるだろうかと考えました。負け惜しみみたいですが、結局、「消化器外科だって、ただ切って繋げるだけではないか」と。それは「治す」」ことだろうかと。「治す」のであれば、病気になる前の体に戻すことこそが「治す」ということではないかと思うのですが、如何でしょうか?兄に言い返しはしませんでしたが、心の中ではこのように思っていました。

外科医(小生もその端くれでしたが)は、「俺が治す、治した」と思うくらいの傲慢さが無くては他人の体にメスを入れることなどできないでしょう。司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という作品で読んだものですが、古来、日本では「身体髪膚、此れを父母に享く、あえてキショウせざるは孝の始め也」という儒教的な考え方から、医師といえども他人の体に故意に傷をつけることには抵抗があったようです。また、そもそも人体の構造や生理についての基礎知識も心許ない時代でしたから、手術など出来よう筈もありませんが、このような基本的考えから、外科とは外道であり、内科こそが本道であるというのが和漢方の考え方だったといいます。しかし、今でもそうでしょうが、鮮やかに手術が成功したとき、患者やその家族はもちろん医師たちも感嘆の声を挙げるでしょう。でも、冷静に考えてみると、やはり病気になる前の体には戻っていないのです。

「治す」とは、どういうことでしょうか?そろそろ医師としてのキャリアを終えようという歳になり、病気を治すなど不可能であると考えるようになってきました。日常診療では、使い古された表現ですが、患者自身の体の治癒力の妨げとならないように、唯々、その手助けができるようにと努力しようと心がけようとしています。

将来の唯一の望みは、幹細胞を使って臓器組織を再生することだけが「治す」ことになるのだろうと思いますが、道はまだまだ程遠いようです。

少し話がそれますが、転移性脳腫瘍も脳外科にコンサルトされることの多い疾患ですが、脳に転移しているということは、元の癌のステージで言えば、「他臓器転移あり」ですから、ステージ4の末期にあたるでしょう。今ではこんなことはないと思いますが、若い頃、一般外科から乳がんの術後再発患者が、外来に何の連絡もなく、外科外来から運ばれてきたことがあります。脳転移からけいれんを起こしたためでしたが、診察時にはけいれん発作は収まっていましたので、まずは担当の外科医が診察の上で、脳外科へキチンと紹介状を添えて搬送されるべきものだと思うのですが、その時は全く唐突に患者がストレッチャーで運ばれてきました。どういうことかと連れてきた看護師に問いただしたところ、担当医は「もう外科でやることはないから、脳外科外来に連れていけ」と言われたとのこと。なんとも失礼千万な話でありませんか。それでも患者を前に担当医と手続きついて言い争うようなことはできませんから、そのまま受け入れ、看取ることになったのでした。

この話は、手続きの問題もありますが、日頃、気になっていたことを紹介するために此処に記しました。「気になっていたこと」とは、転移性脳腫瘍を扱っていると、患者やその家族に、元の担当医からの説明内容を確認するのですが、ほとんど常に「手術は成功した」と説明されているのですが、患者や家族からは「どうして手術が成功したのに、脳の転移が生じて、末期だということなのか」と質問されることでした。元の疾患の予後、見通しについての説明がされていないかのように話されることが多く、答えに窮しました。

「手術は成功しました」というのは、手術を終えた外科医の常用句だと思います。その表現に間違いはないと思いますが、そもそもは、手術の目的目標を患者や家族に十分理解させていないことが、上の述べたような質問が出る原因でしょう。患者や家族は、どうしても希望的な解釈をしがちでしょうから、医療関係者との間で疾患に対する理解のすれ違いが起きるのでしょう。すべての外科医は十分注意して、術前の説明を行ってほしいものです。そして、自分のところでは打つ手がなくなり、他科に依頼する場合には手続きはキチンとしていただきたいものです。


続 エネルギー保存の法則

2024年11月17日 | 日記

エネルギー保存の法則の項で、人類が増えれば、地球上の他の生物(生命)が減ることになるという趣旨の話をしましたが、医学生だった頃、生態学をかじりながら思ったのは「医師が人間の命を救い続けることは、人類全体として見れば、長ーい目で考えたとき、人類滅亡の手助けをすることにはならないだろうかといことです。地球の持っているポテンシャルは人間の想像力をはるかに超えたものだと思います。おそらく、小生の考えは杞憂だとも思うのですが。

最近、家庭菜園を始めました。加減が分からず、あまりに多くの種を蒔いたために、いずれの作物も貧弱な出来になりました。「間引き」はしたのですが、そもそも植えたものが多すぎたようです。さて、「間引き」という言葉、本来はこのように農業などの用語ですが、かつて、人間にも使われていたことはご存じでしょう。昔、小生の知っているお年寄りが、五つ子誕生のニュースを見て発した言葉に驚愕したものでした。それは「可哀そうに、一人ぐらい潰せばいいのに」というものでした。その人の若い頃、子沢山のために生活が苦しかったものと想像します。真実は分かりませんが、その方には7人の子供がいました。もしかしたら、もっといたのかもしれないと考えてしまいました。

これも少し古い話で恐縮ですが、体外受精や他人の精子や卵を使って子どもを作ることの是非が大きな問題となり始めた頃のこと。あるテレビ番組で不妊症をめぐるインタビューに答えた若い医師のセリフです。「使える技術があるのに、それを使わないのは罪だと思います」というのです。飽くまで、子供が欲しいのに、授からない人達を救済したい一心から出た言葉と思いますが、際限なく進歩する科学技術を、使えるからと言って、なんでも利用するのがいいとは、小生には思えません。

目の前の命を救いたいという思いが医療の原点であろうと考えます。しかし、その結果についての責任を誰がどうとるのかが問題だと思います。

不妊症治療に反対しているわけではないことを言って、今回の話を一旦終わります。