野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

自然について追加の独り言

2024年10月19日 | 日記

以前述べた自然について少し追加します。

もう何年も前になりますが、NHKがメガデータを利用して、東日本大震災時の人間の動きを解析したことがありました。

石巻市でのこと。津波警報が出ている中、人々がどのような動きをしたか、携帯電話会社の協力を得て、個人情報は伏せた上でGPSデータを解析していました。

ほとんどの人が海岸から離れる動きをしている中に、少数ですが逆の動きをする人がいることが示されていました。それぞれの人たちの理由までは解析できないので、この動きの理由は不明ではありますが、一部には海岸近くにいる家族を助けたいと思って向かった人がいるだろうとのコメントでした。恐らく、その中の何人かは津波の犠牲になったのではないかと想像します。危険を承知で何とかしようという行動は止めようがない自然なものでしょう。もちろん、愛する人に危険が迫っているとしても、怖くて助けに行けないとしても非難することもできないと考えます。それも自然なことでしょう。

自然な気持ち、自然な行動。どんな選択をしても自然なのでしょうね。


エネルギー保存の法則 その2

2024年09月15日 | 日記

若い頃から考えていたことですが、生命も一つのエネルギーの形と考えられると。実際、その通りなのでしょうが。エネルギーであれば、エネルギー保存の法則が適用されるであろうと思いました。であれば、地球は太陽から得られるエネルギーと宇宙へと放出されるエネルギーとは収支が合っているはずですので、一つの閉じられた系とみなせるでしょう。すると、地球の持っているエネルギーは一定だと想定できます。ことはそんなに単純ではないと思いますが、このような前提に立つと、地球上に存在できる生命には限りがあり、たとえば人間が増え続ければ、ほかの生物は減らざるを得ないのではないかと考えるに至りました。20代の頃からの考えですが、還暦を過ぎても変わるどころか、より確信を強くしています。例として、河川でサケマスが盛んに養殖放流されていますが、これらサケマスの人為的な増加に伴って、河川内の他の魚種が減ってきていることが分かっています。一つの河川系で養える命には限界があるということの証左ではないだろうかと思うのです。

さて、人間は昔から、「不老長寿」を願い、研究してきました。今でも続けられています。果たして、それは正しいことなのでしょうか?人が死ななくなれば、老人が増え若者が減り、社会の活性が失われていく気がするのです。年を取ってわかることですが、定年には意味があると。つまり、いくら年を取っても頭脳明晰で、気力体力ともに衰えを知らない人も極稀にいますが、それも永遠に続けられるとは考えられません。ほとんどの人は能力が衰え、仕事の効率は落ち、間違いを犯すことも増えて、体の無理は利かなくなります。そういう人間が増えることはいいことなのでしょうか。人は死ななければいけないのだと考えるようになっています。でも、死にたくはないと、本能は訴えてきますが。

科学、医学はさまざまな方法を発見、利用し、あらゆる病気による死を遠ざけてきました。今後も、その努力は続けられ、成果も得られていくでしょう。でも、人は死ななければいけなのだと、すべての人が考えなければいけないと思うのです。これから研究してほしいと思うのは、人生の最後の迎え方だと強く思うこの頃です。


エネルギー保存の法則 その1

2024年08月14日 | 日記

今日は8月14日、お盆です。本来なら、帰省して両親の墓参りをする予定でしたが、台風のためにキャンセルしました。結果は、キャンセルして正解でした。故郷は岩手ですので、無理していたら、大変な目にあっていたことでしょう。

さて、今回のテーマは省エネです。帰省のため、新幹線チケットとレンタカーの予約をネットを通じて行いました。新幹線は比較的スムーズに予約できたのですが、問題はレンタカーです。駅レンタカーは予約が一杯だったため、某レンタカー会社に初めてネット予約しました。それが、大変だったのです。折角だからと、アカウントを作ることから始め、希望の車種を設定し、借りる時間、保険の設定を行い、各種入力情報の間違いないことを確認し、ようやく「予約確定」のボタンをクリックしたところ、しばらく(2分程度でしょうか)待ったのですが、応答がなく、同氏のだろうと思いながら画面に見入っていると「接続の問題が生じたため予約できませんでした」のメッセージ。初めからやり直してくださいとのこと。なれないせいもあり、それまでに小一時間はかかったでしょう。仕方がないと、もう一度同じ操作を行たのですが、またも「接続の問題・・・」のメッセージ。2度目のやり直しで、ようやく予約できたのですが、結局、2時間以上かかりました。都会に暮らしている方には、それでも直接駅に行ったり、レンタカー会社n電話したりするより遥かにじかんやエネルギーの節約になるのでしょうが、小生の住んでいる町は大変便利なところで、JR駅、空港、フェリー埠頭のどこでも車で15分ほどで行けてしまうのです。2時間あったら、とっくにすべて用事が済んでいただろうと思うと、この2時間がとても惜しくて、悔しく思えてくるのです。小生のような老人には、金銭的なことよりも時間が貴重なのです。生い先短い身なのですから。

パソコンの前に座って、いろんなことができるのはエネルギー効率がいいように見えるかもしれませんが、本当なのでしょうか。このチケットやレンタカーの予約だけで消費される電力はどのくらいのものか分かりませんが、小生が一人で消費しているのではなく、様々な回線だとか、各会社のサーバーが消費する電力だとかは、それでも自分で車を運転していくよりはエネルギー消費は少ないのでしょうか。きっと少ないのだとはのだとは思いますが・・・。

何かをあるところから、別のところへ運ぶことを想像した場合、その手段として、人力だろうが馬車だろうが、あるいは自動車であろうが、使われるエネルギーは理想的には同じなはずではないかと考えるのです。ただ、途中でロスがあるので比較しがたいと思いますが、どうでしょうか?

昔、テレビのドキュメンタリーで山奥に夫婦二人と子供二人で、基本、自給自足で暮らす家族の番組を見ました。ある日の午後、風呂を子供が沸かします。所謂、五右衛門風呂です。カマドに薪をくべてお湯を沸かすのですが、その薪を運んでいる子供の姿を見て、「ああ、そうだ。人間そのものがエネルギーだったんだ」と思いました。ある量の水を沸かすのに必要なエネルギーは決まっています。どんな方法を用いても、使われるエネルギーは同じなのだと思ったのですが、違うでしょうか?

人間が楽することが「省エネ」だと思っている人が多いのではないいかと思っているのですが、そうではなくて、できるだけロスを少なく目的の仕事量をこなすのが省エネルギーではないかと思っています。

究極の省エネはできるだけ何もしないこと、ナマケモノのように生きることかもしれません。


自然な死とは?

2024年07月16日 | 日記

これまで「自然」ということや「寿命」といったことについて述べてきましたが、実はずいぶん昔から「死」については考えていました。若い頃は、「軽々しく死を口にするな」という批判も受け、他人に対して、「死」について話すことは憚っておりました。しかし、年を経て、「死」が身近になりつつある現在ならば「死」を口にしてもお叱りを受けることはないだろうと思い、此処で少し語らせていただきます。

30年くらい前からでしょうか。「自然な死」ということを考えるようになりました。一番のキッカケは大野病院事件です。御存じない方もいるかもしれませんが、福島県の大野病院婦人科で、患者さんが亡くなられた際に「異状死」(”異常”ではありません)として、警察に届け出なかったとして、医師が”逮捕”された事件です。事件をキッカケに全国の婦人科をはじめとする多くの医師から猛反発が出たのです。事件の詳細はこの場の話の中心ではありませんので、ご興味がありましたら、ネットで検索してみてください。

この事件から「異状ではない死」とはどんなものかと興味を持った小生は、法医学会のホームページを調べました。すると、法医学の立場からは、他人は本来病気で死ぬものであり、それ以外の死は、何かしらの事件や事故、あるいは災害によるものであり、病死以外はすべて「異状死」として届け出るべきであるというのです。現在でも、法医学会の見解に変化はないようです。臨床医からは反論が尽きないのですが、小生は「なるほど」と思いました。「異状死」かどうかは別にして、「人は必ず病気で死ぬのだ」ということは、非常に納得のいく話です。最近は、超高齢者を対象に診療しているため、やたらと病気を心配するお年寄り(自分も年寄り仲間なのですが)には、「心配するな。人は必ず病気で死ぬ」と伝えています。びっくりされますし、何と薄情な医者かと謗られるでしょうが、構わず話しています。「でも、現代はいろいろな緩和療法が進歩しているから、苦しむことはないから安心しなさい」と付け加えています。酷い医者だと思いますか?

話はそれますが、「異状死」の届け出について、医師国家試験問題出題されたことがあり、「異状死を見た場合には、警察に届け出なければならない」というのが正解とされていたらしいです。しかし、臨床家からは、医師法に記載されているのは「異状死体を見た場合には届け出なければならない」とされているのであり、「異状死」ではないので、不適切問題だし、治療中の患者が亡くなったとして、原因が治療中の疾患でなかったとしても、警察に届ける必要はない(云々)という記事が「m3」にのっていました。こちらも興味のある方はご覧ください。

結局、役に立たない(?)老人のするべき最後の仕事は、若い人たちに「死んでみせる」ということだろうと考えているこの頃です。別に「良い死に方を」というのではありません。様々な死に方があり、どれが良いとか悪いとかということはないと考えています。死んで見せることで、若い人たちにも「死」を感じて、考えてもらえればと思うのです。そこから逆に「生きること」についての考えも深まるのではないでしょうか?


トリアージ

2024年05月13日 | 日記

前回投稿の最後にトリアージについて触れました。それについて、付け足しです。

東日本大震災の後、1年ほどしてから、仙台市に住む先輩を訪ねる機会がありました。「震災の時は大変でしたでしょう」と言葉をかけたのですが、幸い先輩のところは停電が少し長引いて、MRIのクェンチングが心配されただけで、大したことはなかったとのこと。しかし、その後の話に考えさせられました。

年を取ったとは言え、医師の端くれとして、何か災害現場の役に立ちたいとDMAT(JMAT?)にお手伝いを申し出たそうですが「開業医の先生方は、死体検案でもしてください」と言われたそうで、いたくプライドを傷つけられたと憤慨しておられました。検案も大事なことではありますし、ロートル医師は救急現場では役に立たないのかもしれませんが、もう少し年寄りの利用の仕方を考えてもらいたいと思いました。ただし、あの震災の際には、ほとんど津波による死者がほとんどで、DMATなどの活躍場面は少なかったと聞いておりますので、止むを得なかったと思われますが、一言何か付け加えていただいていたら、先輩も憤慨せずに済んだだろうと考えています。

さて、大災害などの場面でトリアージが行われるわけですが、バリバリの現役救急医師にはトリアージ後、助かる命に全力を注入していただきたいと思います。一方で、処置なしとされた方達にも、最後まで寄り添う医療関係者が必要だと思います。そのようなところに年寄りを利用していただきたいと思うのです。中田力先生は、その著書「穆如清風」の中で「医師は犬にならなければならない」とおっしゃっています。死に行く人の傍らで、犬のように黙って寄り添うということです。医療は万能ではなく、患者の死を見送ることは少なくありません。そういう場面では年寄りが役に立てると思うのですが、如何でしょうか?