長く生きてきて、そして医療という、直接的に命に触れる仕事に長年従事してきて、「命」について考えることが、他の仕事をしている方々よりは多いのではないかと考えます。沢山考えているから、正しいなどとは言いませんが、多くの方に賛同していただける考えではないかと、思い込んでいます。
タイトルにした「命は誰のものか」という問いですが、たとえば、自殺する人は自分の命は自分のものだと思っているのではないかと思うのです。いや、死のうとする人は、そんなことには考えが及ばないだろうというかもしれません。実際、そうなのかもしれません。しかし、命が自分一人のものではないと考えたならば、自ら命を絶とうとはしないのではないかと思うのですが、どうでしょう?
キリスト教を始めとして、宗教的に人工中絶を禁止している国や地方、民族など、沢山あることと思います。(実情は知りませんが)昨年のアメリカ合衆国大統領選挙を見ていて、「中絶は、殺人行為だ」と強く非難する人たちのいうこともわかるのですが、では、親が望まないで生まれてくる子供をどうするのでしょうか?それについての情報がありません。一方、妊娠・出産はそれ自体、生命の危険を伴うものでもある上に、望まない妊娠を女性に押し付けるなという意見も尤もと思いますが、中絶を選択した女性のその後のトラウマも小さくないという記事、報道も見聞きしました。ですから、安易に中絶を擁護することもできません。
私の考えでは、中絶を一方的に禁止するのではなく、妊婦の肉体的精神的負担をできるだけ軽くした上で、安全な分娩を保証し、望まない子供は里親制度などで、その将来を保証してあげる体制ができることが理想的だと思うのですが、どうでしょう?生むことの負担、生まれた命の負担を、社会全体で受け止めることが大事だと思うのです。
「命は誰のものか」という問いに対する、私の答えは「みんなのもの」ということです。
「チコちゃん」の受け売りですが、「産後、子育て中の女性はなぜ不機嫌なのか」という質問に対する専門家の回答が「本来、子育てはみんなで行うものだったのに、現代は母親に負担が偏りすぎているから」というものでした。この回答を聞いて、色々なことの回答が見えた気がしたものでした。上に述べた中絶の問題も、個人の問題とすると妊婦の負担が大きすぎますし、単に宗教的な主張から中絶を禁止するのも妊婦に対する気遣いがなさすぎるように見えます。また、生まれた子供についての議論がきちんと説明されていません。生まれる命は社会全体のものであり、社会全体で育てる意識があれば、対立の先鋭化は避けられそうな気がするのです。
自殺にしても、自分の命が自分一人のものではないと思っていれば、簡単にはできない(自殺した人が簡単に決断し、行動に移したとは言いませんが)。
日常の診療で、患者に病気が見つかり、直ちに入院治療が必要になった場合、誰にも相談せずに検査や治療を拒否する人が、たまにいます。社会的に重要だと思われる人(自分でそう思っているだけかもしれませんが)に、そういうケースが多いように思います。その時、月並みですが「あなたの一人の命ではありませんよ」と言います。「貴方の考えは尊重しますが、ご家族にも相談しましょう」と説得します。
かつて、「プライベート ライアン」という映画について書いたことがあります。一人の陸軍二等兵をアメリカへ帰国させるために、一つの小隊(?分隊?)がほぼ全滅するのですが、生き残った二等兵が戦没者のお墓の前で「自分は貴方達が命を懸けて助けただけも価値のある生涯を送ってきたでしょうか?」と問うところから映画は始まったと記憶しています。私は、すべての人が「プラベートライアン」なのだと書きました。つまり、我々一人ひとりが生まれ、生きてくる過程で、どれだけ多くの人たちの助けでそれまで生きて来られたのか、そもそも先祖代々の努力がなければ、生まれてさえ来なかったのかもしれないのです。だから、人はお墓を大切にするのではないでしょうか。
改めて言います。「命はみんなのもの」でしょう。