美男子俱楽部

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顔面で会話するな。幸福になれ

2024-03-13 | エッセイ

 じぶんなんかは、人からよく注視される。それは往来、駅や車に乗っている時でさえ執拗に、中をわざわざ覗き込む様な感じで見られるのであって、はて、自分の美貌、はたまた、背丈がすこしばかり高いからか中性的、高踏的、詩人的な雰囲気及びオーラが醸し出されているのか、或いは、背後に半透明なおばあはんがぶら下がって居るのかも知らんけれども、かならずしも羨望、恍惚的な視線でない処に、私は困っている。

 それは何かというと、はっきり云って、何か文句言いた気の視線なのである。

 例えば自分が往来を一人、歩いていて、やや右斜め前から猛烈な視線を感じる。視線の元を辿ると、ひとりの男がすげぇ文句言いた気の視線で熱心にこちらを見ている。困るのは、そう云った人間はすげぇ文句言いた気の視線を人様に送っておいて「文句あんのぉ?」といった顔面をしている、という点。無かったよ、文句。はっきり云って今はあるよ。文句あんのぉ?で文句できたよ、逆に。逆に文句あるよ。明らかに、俺は文句あるぜって顔面をされたので、こちらは当然「何だよ」って顔。すると先に見て来たのは其方なのに「何だよって何だよ」って顔面。顔面と顔面。Gメール。って思いつつ、はっきり「俺はお前に文句がある」と口頭で云ってくれれば「聞こうじゃねえか」とか「今は時間が無いから無理」とか言い様が様々あるのだけれども、そういう人間は必ずと言っていいほど口では決して何も言わぬ主義を持ち合わせているので、何も言えない。只、自分と相手の目と目がかち合ってからお互いを通り過ぎる迄、只管無言にて文句あんの?文句あんの?文句あんの?と顔面で必死に訴え連呼するだけである。顔面で連呼するな、あほ。

 そもそも、人の顔を何か云う程の理由も無く、じっと見る事は不躾である。くそみたいな顔面を俺の潔癖なまなこに張り付けるな。

 分からないのは、都市の往来、仰山な人が行き交うにも関わらず、何故あえて自分だけを注視するのかという点で、もし全員にその様な卑賤な視線を送り付けているのだとしたら、その人は高速あっちむいてほいを一人やっているかのような状態で歩いていなければおかしいし、新宿駅の地下鉄などでは顔が高速に動きすぎて残像でケルベロスみたいになっていないとおかしい。しかし、そうではなく、みな俺の顔だけを選び巡り会うたかの様に注視するので、面妖な、って考えている時点で、敗北。

 そんな不躾で下賤なやつのことをちまちま考えている時間が無駄、無駄な時間を過ごすとは不幸な。人の真意などいくら考えても分からぬのだから、いらいらねちねち考えるだけ損であり不幸である。只、今回この随筆を通して、せめて俺は笑っていようと思う。笑った顔面。何故ならこのままでは、不幸の連鎖だ。このままでは、世界中の人々がみな不幸の顔面になってしまう。俺は、これを幸福に変えたい。幸福を与えたい。哲学者アランは『幸福論』で、幸福だから笑うのではなく笑うから幸福なのだと云った。自身の幸福無くして人を幸福にはできない、また不機嫌は伝染する、と。俺は自分の幸福のために自分の、そして人の情念を捨て、微笑んで生きるのだ。

 と心機一転、ぴかぴかの俺は仕事に行き、部下がへまをしても微笑んでこれを許し、微笑みながら昼食を取り、微笑みながら花束を作ったりして、微笑みながら仕事を終えたので微笑みながらパーソナルコンピューターを閉じて帰ろうとしたら幸福を与えた筈の部下に「市川さん、今日変でしたよ」って怪訝な顔面で云われたので「文句あんのぉ?」って顔。



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