人に、「おめぇ、猿みてえだな」などと謂われて不快にならない人間というのは多分居らず、居たとすれば自分が猿などという下等生物に形容され汚辱を受けている事にすら気が付かないまぬけ、という事になり、「やっぱ猿じゃねえか」って事になる訳なのだけれども、まったくもって非道い事だと思う。卑しいと思う。俺は。
「俺様を猿ごときと一緒にするんじゃねえ、ダァホ。」などと云うのは人間の慢心、つまり自分のような人間という種が猿などという生物の上に立場を置いているのは実に当たり前である、俺ぁ、獣と違ってこのように優雅に、おディナーを食べられるんだという認識、此れが在るからで、そういうのはいい加減、撤廃したろ、と思うのである。俺はね。
とか云って、考えてみると人間の愚劣極まりない認識によって迫害されているのは猿だけではなく、其の他色々な生物が在って、驚愕すべき注視すべきは、逆に、然程迫害されていない生物も居る、という点である。詰まる所、人間はまったく、愚かしき事に迫害だけでは飽き足らず、あらゆる生物に対しその一方的・断片的な印象によって優劣をつける、印象差別を働いているのであるよ。わっ。
たとえば近頃の若い女が、自身の彼氏を語る際によく、「犬」という例えを用いるが此れは脳天からつま先に至るまで毛がびっしり生えており、デートの際などに「ちょっくら御免」とか言って電柱に駆け寄るなり片脚を高く掲げ傍若無人に小便を放散する癖があるという訳ではたぶんなく、犬のようにふわふわしておりペットの様で可愛らしい、という事を言いたいのだと思うのだよ。俺はね。
これはプラスの印象というか、つまり、このように犬という生物は然程印象によって迫害されていないのである。されていぬのである。されて、いぬ、のである。へっ。
しかし同じ場合で、「うちの彼氏ゴリラみたいでさぁ」などと言おうものなら、筋肉むきむきの運送屋かスポーツ・ジムに勤務、年がら年中情欲にかられており何かにつけて彼女の軀を欲しがり汗だくに為りながらうほうほと云い腰をふりつづける、たぶん毛深くてたぶん不器量である野性的で粗野な男を想像してしまうのであるよ。俺はね。悲運な事ながらに。
結果マイナスな印象。迫害。因果。体力が仰山在りそうで、頼りになるってのは良いんだけどね。それでも陰な印象が優ってしまうのは、人間がゴリラに対して何故か勝手に好ましくない印象を定着させ差別している事の証拠である。
其の他、印象の乱れ、沢山在って。
「貴方、ライオンみたいに強いのね。」
「午睡している姿が愛おしいね、猫みたいで。」
「踊る君はまるで、蝶だね。」
プラスの印象。
「君の腕は長くて便利そうだね、テナガザルだね。」
「仕事であっちこっち飛び回ってるんだって?すごいね、蛾みたいだね。」
「君は何時も僕の傍に居て呉れるね、亀虫だね。」
惨烈たる有様。地獄の気分。
双方、印象の良い事を申し上げているにも関わらず形容に用いる生物によって恰も馬鹿にしたような言い草になったりならなかったり、というのはやはり間違っている、差別である、という俺の訴えは倫理・正義感に基づくものではなくて、実際、全動物印象平等協議組合関東支部長の剛力羅純吉さん通称ごりじゅんより依頼を受けこの随筆原稿を執筆しているのでありごりじゅんとはよくバラタナティヤムを踊る仲っていうかこの俺を全動物印象平等協議組合に勧誘して呉れた一人とかいう虚辞を述べる俺は山羊の様な鼯鼠の様な鼹鼠の様な馴鹿の様な狸の様な狼の様な猫の様なそんな感じがする今日此の頃。もはや、何を言っているのか分か蘭。
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