以前より一度は行ってみておきたかった小田原城を見てきました。
現在の天守閣は1960年に復元された鉄筋コンクリートで、例えば国宝の姫路城に比べたら何の価値もないものですけど、その歴史的な風景は城マニアにとってはたまりません。
なんしろ実戦経験が豊富です。小田原北条氏の本拠地として天下に鳴り響いた名城中の名城ですよと。
最初に、小田原駅東口へ。
↑銅像
「北條早雲公」と書いてあります。
↑銅像の主の略伝。
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北條早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北条氏五代の祖である。「北條記」によれば、明応4年(1495)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を討ち破ったという。その後小田原は、96年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は、京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。小田原城には嫡男の氏綱公を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りをかためていたが、永正16年(1519)8月15日、88才の天寿をまっとうして韮山に没した。戦国武将としてはめずらしい長寿であった。また北條姓は2代氏綱公から用いられた。早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においてもつねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、
その後、氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。
北條早雲像建立期成会
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説明にもある「火牛」も一緒に銅像になっていますね。小田原のシンボル的な銅像でしょうか。NHKとかで早雲を取り上げたら100%出てきそう。
西口にまわって、まずは「氏政・氏照墓所」へ。
一番右の大きいのが「伝 氏政夫人の墓」。
真ん中の2つのうち右が「伝 氏政の墓」。
真ん中の2つのうち左が「伝 氏照の墓」。
真ん中の2つの前の平たい石が「生害石」といって、この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられているそうです。
氏政は4代目。氏照はその弟です。秀吉の小田原征伐で北条氏が降伏した後、秀吉に切腹を命じられました。首は京都に晒され、胴体だけが埋葬されたとか。八王子にも氏照の墓所がありますが、八王子のは百回忌のときに分祀されたものだそうです。
氏政夫人は、「黄梅院」といって、戦国の薄幸の女性として有名な人です。信玄と三条の方の間の娘で、甲相駿の三国同盟のときに氏政に嫁したが、のちに信玄が駿河へ侵攻して同盟が破綻、黄梅院は氏政と離縁させられて甲州に戻され、その半年後に27歳で亡くなったと伝えられると。
調べてみたんですが、どうもこのお墓はその「黄梅院」のものではないようでした。その後の夫人なのか側室の人なのでしょうかね?
これが商店街のど真ん中にあるんですよ。で、この墓所の前にはゴミ集積所が・・・もうちょっと扱いが何とかならんものかと;
この墓所は、関東大震災で埋没したそうですが、その翌年に地元有志により復元されたって。
その碑。えらい地元有志。
↓こんなのが併設されていました
願いごとをかけてここの鈴を持って帰り、かけた願いがかなったらまた結びに来てねって。ステキはステキですが、誰が考えたのでしょうかねぇ。
↑願いがかなったからなのか、たくさんの鈴が結ばれていました。
こういう場所、目立たないけどなんかいいですよね。歴史を感じられて。小田原城に行く機会があったら、こちらも是非きて、合掌ね。
その後、小田原城方面へ。「小田原城方面」といっても、昔はこの町全部が城だったんですよねー。今あるのはほんのほんの一部です。昔のでかい空堀の遺構なんかもあるみたいですが、足も時間もないのでそこまでは見にいけませんでした。
正面入口の「馬出門土橋→銅門」のルートは復元工事中とかで通行止め。その手前の二の丸広場へかかる小さな橋からお堀を渡りました。
↑ゆりかもめがいっぱい
↑でかい鯉もいます!
お婆さんと孫とおぼしき女の子の2人が鯉にエサをあげていました。が、水面にエサを投げると、ゆりかもめ軍団が「クェーッ!」といって群がってきて横取りしてしまうんですよ。
「あーっ、また取られちゃったよ!」
「鯉は遅いねぇ」
「ばかばか、鯉!」
恐るべしゆりかもめ。てか頑張れよ鯉。ロッテとカープが想起されてしまってなんか複雑な気分に <いや、考えすぎだから
↑小田原城と小田原合戦攻防図の案内板
真ん中の黄色いのが小田原城。左下隅が「石垣山城」。秀吉が小田原攻略にあたり築いた一夜城です。ここにご婦人方なども招いて、お茶会などやったりして(無論兵站を万全にして)、ゆるゆると城攻めしたわけですな。
相模湾の水軍が「長宗我部元親・加藤嘉明・九鬼嘉隆・毛利輝元」。左の方から、「細川忠興・織田信包・宇喜多秀家・羽柴秀次・羽柴秀勝・蒲生氏郷」。右上の方に「徳川家康・大久保忠世・酒井忠次・奥平信昌・榊原康政」。小田原城内は「北条氏直・北条氏房・北条氏政・北条氏照・松田憲秀・山角康定・成田氏長・皆川広照・上田憲定・和田信栄・小幡信定ほか」。
と書いてあります。
↑常盤木門。これをくぐると御本丸。
↑本丸にはなぜか動物園が(笑)
ちょー予想外な展開。まさかここに象がいるとは思いませんってw
子供向けのちびっ子汽車とか、ガラス細工だか何だかの美術館も併設。天守閣内の古写真を見ると、昔は観覧車もあったようです。小田原城に何か関係があるのかと。北条5代の殿様たちもあの世で嘆息してることでしょう;
↑鉄筋コンクリートの天守閣。
なんかガッチリしてますよね。鉄筋コンクリだからというのではなく、なんとなく形が。「太い」です!
中の展示は、まぁどこの城も似たようなもんですが、ここを居城にした大名の紹介や、具足や書状や瓦など。20年前くらいに造られたもののようで、なんだか昭和ちっく。広島城と似てるかも。
甲冑とかもいいのですが、ズラリと並べてあるだけで、誰のものと伝えられるかとかそういうことは一切なしです。まぁ判らないんでしょうね。全体的にはぶっちゃけそれほど大したものではない印象。
城内展示に混じって生け花の作品展みたいなのもやってました。なんかこう、何でもありな感じですねぇ。
が、説明板は読み応えがありました。印象に残ってるのを何点か書くとすると、1つは、小田原攻防戦の説明板。
大規模な来攻を受けたのは3度ありますと。1度目は謙信、2度目は信玄。いずれもこれを跳ね返しましたと。3度目は秀吉で、落城してしまったんだけれども、戦闘によって落城したわけではなく、「政略」によって落城したのだと。どうだ「難攻不落」だぞ!
みたいな。さすがは小田原城の説明!
要するに城が落ちたのは城の欠陥ではなくて、人から崩れたってことですよね。人は城、人は堀、人は石垣、情けは味方、仇は敵なりですよ!
もう1つ、秀吉が氏政・氏直父子に送った宣戦布告状の写真と内容の説明。「こうこうこういうわけでお前らはけしからん。もはや戦じゃ覚悟せよ!」って書状です。もし本物だったら、
「おおー、こ、これを見て氏政父子は『下賎の成り上がり者めが!』って激怒したのかも!!(感動)」
って感じですけど写真です。でも、「真田太平記」に出てきた話がそのまんま書状に載ってるんですよ。「おおー」って感じじゃない?
一通り見ながら屋上(?)へ。
相模湾が一望できます!
秀吉の一夜城方面。この時間帯は丁度逆光で景色は撮影できませんでした。
よくドラマで出ますよね。小田原方が突如出現した石垣山城を見て、度肝を抜かされて戦意を喪失しちゃうような感じのシーン。秀吉と家康が連れションしたのも石垣山城からだったのでしょうか。
降りて「小田原城歴史見聞館」へ。昔の学校の講堂を改造して造られたのだとか。内部はいかにもお金がかかってそうな演出でいっぱいでした。ミニシアターとか人形劇みたいなのとか、江戸期をイメージした通りとか。戦国ムードなプリクラもどき(画面をそのままプリンタから印刷できるらしい)も。小学生なんかが楽しく歴史を学べますみたいなところでしょうね。史料などはありませんでした。
というわけで、なかなか思い出深い旅行になりました。城いいよね城。まだ行ってみたい城が山ほどあるんですけど、あまり行けてないんですよ
現存十二天守なんかまだ1つも行ったことないし。次は1週間くらいかけて四国とかまわれたらいいなー
甲州から信州を巡るのもいいし、上田城とかも面白そうでない? 後は愛知あたりとか。
広島もいいけど、今年は広島以外に行くのも目標にしよう!
と思いました。
ではではまた。