中学生が自ら校則を決めるプロセスに関与したいと市に請願し、不採択になったというニュース。
不採択の理由は書かれていないが市に対して請願すべき内容ではないということかもしれないし、想像の通りただの却下かもしれない。これに関しては不明だから何とも言えない。
しかし、中学生が自らに適用される校則の制定に関与してはいけないということの意味は何だろう?ちょっと思いつかない。何がいけないのだろうか?自分たちにルールが必要でそれを自分たちで決める、または関与することにどんな問題があると「大人たちは」考えるのだろうか?校則なんて要らないとは言ってはいないのに。こうした欲求はたぶんこれまでの時代の中でもあったと考える。自分たちの時代にもあった。
今はその我々が彼らのこうした要求を却下するに至っている。何故だろう?
細かく言えばいろいろあるとは思うのだが、大枠から言えば我々が子供からずっと育ってきた今、あの当時のオヤジの代役としてすり替わったと言えるだろう。あの頃、我々はオヤジたちを太刀打ちのできない巨人のように見ると同時に世の中の嫌悪すべき存在とも感じていた。そして年を経るとともに彼らは衰退し滅びて行くだろうとも考えた。
だが、結果はそうではなかった。
我々は彼らの代替要員に過ぎなかったのだった。あの時に起きていた醜悪な事態は今も起きている。政治家は代替わりしたはずが今現在も腐ったままであるし、直近のニュースでは醜聞が企業を揺らしている。そしてオヤジとなった我々はその代替要員を養成しようと苦慮している。つまりは子供を抑えつけて従わせようと躍起になっているということだ。
このやり方がもう限界に達していてこの国ごと衰退しているのを目の当たりにしているにも関わらず。
今日は「夜と霧」のまとめを書こうと思ったが、それは明日に延期。