

snsでフジテレビがどうのこうのという記事がたくさん出てきたけれど、けっこうどうでも良いことのように考えている。別にテレビ局が1つ無くなったところでね・・・
それよりトランプが大統領になったことによるインパクトの方が100倍強いと思う。既に予想されていたけれどもやはり実際にとなるとどうなるのか、とても気になる。日本にも相当な影響があるだろうし。
よくわからないが、トランプを支持した人たちがその政策が実行された後に「こんなはずじゃなかった!」というタイミングが来るのか?来るとしたらどの時期なのか?まあ、大変だろうな。アメリカで、世界の中でポジショニングが悪くなっている産業が救い出せるまでは高い関税を払って外国から買うとなると労働者は物価高に苦しむだろうというようなことをアナリストさんが書いていたが、そうなるのだろうか?するって〜と、割高な日本製品が今よりさらに売れなくなるのだろうし。
まあ、それはそれとして、そんな中で自分を守る方法は何だろう?って、考えながら見ていなくては。
昨日の続きで「夜と霧」の話(今日で完結ではない)
後半のところ、つまりフランクル氏が強制収容所から解放されたところより後なのだけれど、このあたりからちょっと???なところが増えてくる。
(読んでいないとわからないことを書くかも)
まずは、内的勝利をおさめるその中身に道徳というのがあるのだが、それは単なる一例に過ぎないのか、それとも普遍的にそうだという意味なのか、どちらだろう?もし囚人の型にハマらない自由を心の中に持てたとして、それが一般の人よりかなり邪悪な思いだった場合はどうなのか?ヨコシマな未来想定を未来に設定した場合でもその選択はその人を絶望から救うのではないだろうか?
次に考えるのは、心の中であったとしても、未来を見ることでそれを生きる糧にするのは、セラピーとしては有りのような気がする。けれども、その方法論が人間としての生きる意味と直接付けてしまうのは正しいことのようには思えない。昨日も書いたようにその結論を求めて、つまり救われる考え方を求めて読むならそこでOKにするのだろうが、もっと根本のところで「人の生きる意味」について考えるとしたら安易に過ぎる。
それで、結局、生きる意味を人の側から問うのでなくて、人が問われるとなるわけで、そうなると今ある苦しみさえ無意味でない、生に統合されるべきものとしている。なら、人生の経験が少なくて未来への光の源を探せない場合、もしそれ以外の選択ができずに生を諦めてしまった生物としての人間の生には意味が無かったのか?それとも有ったのか?
いろいろ考えながら読んでいるとどうしても著者フランクル氏も最後にはセラピストの視点に戻ってしまっているように感じられる。
まだ続くよ。