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もんく [とある南端港街の住人になった人]

人は神様でもないのに他人の生命を勝手に重く見たり軽く見たりしてしまう

午前中に近くのお寺で墓参り。


1月7日の記事の最後のところに書いたこの人だ。


聞くところによれば相続権(財産があるということではない)のある親族、つまり近い血縁者がいないそうで、従兄弟の方が火葬してお墓に納めたそうだ。立派な墓石の横にある石板には母親が納められた日付が刻印されているだけだった。これからずっとそのままになるのだろうか?

好きだった鈴カステラを墓前に上げて線香に火をつけた。

この人、もう少し長く生きられただろうか?と考える。もしかすると生きられたかも知れず、そうでなかったかもしれない。もしもう1日前に発見できていたらどうだったろう?同じだったもしれないし違っていた可能性もある。

なぜこんなことを今考えているのか?

人は変なもので、ある人についてはこんなふうに考えたりするが、別の人の生命に関しては全く考えないか考えたとしてももっとずっと軽く考える。場合によっては死んでしまっても構わないとか、仕方ないのじゃないか程度で済ませてしまう。心の中で勝手にトリアージしてしまう。

亡くなった人は自分にとってどれだけの重さだったのだろう?

そもそも他人の重さに差をつけてしまって良いものだろうか?小さな出来事や理由でその人の重さを軽く設定してしまったりするのは人としてどうなのか?よくやってしまうことだけれども。そして亡くなってから考えても遅いのだけれども。



あるギャラリーで展示を見てきた。




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