最近ちょっとスピリチュアルを研究しているのだけれど、日本のスピリチュアルがかなり酷い事になっている。そして、たまたま昨日手に入れたマレーシアのあるミニコミ紙の表紙がこれだったので大笑いしてしまった。わかる?
スピリチュアルと神様が混ざっている。神社の鳥居に「京都のスピリチュアル・スポット」等と書いてある。
これが何かまずいかというと、スピリチュアルと神は概念として対立しているから。神は一般に死を恐れさせる。そして人の性も清浄名の元に隠してしまう。その点をスピリチュアル批判する。スピリチュアルの死や性は恐れたり隠したりするものではなく、人の奥底を見ればいつでもそこにあるものとなっている。逆なのだ。だからスピリチュアルの死と性の解釈はどちらかと言えば哲学のそれの方に近い。そうした意味で神とスピリチュアルは親和性が低い。
スピリチュアルは多くの仲間を呼び込むためにどんな宗教の人でも構わないと言う。構わないと言うよりは気にしない。スピリチュアルをよく知れば神はどうでもよくなってしまうから。ただ、現実には人が宗教から脱してしまうという事も少なそうだ。なぜなら、スピリチュアルの方法論は別のものに取り込まれて利用されてしまっている。
ヨガや瞑想は代表的なもので、要はマインドフルネスに取り込まれて利用されている。つまり餌にされている。他にも一部のヨガはセックスマニアの餌になっている。利用している者たちはいかにも神聖なもののような言い訳をしてそのやり方だけを取って行って使っている。逆にそれがスピリチュアル普及のチャンスにもなっているからスピリチュアルにとっては良し悪しだろうか?
まあ、いろいろな思惑でそうなってしまうのは仕方ないが、もしスピリチュアルが好きとか信望しているなら、悪い事は言わない、あなたのグルか、そのさらに前のグルの言葉を機械翻訳してでも一度は読んでおくべきだ。思っていたスピリチュアルとは全く違うかも知れないから。
と、スピリチュアルとは無関係な人間がこんな事言ってもダメかも知れないが。