もんく [とある南端港街の住人になった人]

効能や効果

先日読み終わった1Q84 book3 の評価をネットで見たら起承転結のような何かの結果を想像して、つまり謎解きがあることを期待して読んでいる人がかなり多いのに気付いた。

小説を謎解きと考えるなら、なぜ1Q84に迷い込んだのか、なぜ年上の恋人はいなくなったのか、なぜリトルピープルは....と次から次へと表れる不思議なことを説明していかなけらばならない。そして最後に、なるほどそうだったのかとならなければならない。

そう思って読み終えると、ああこれは"つづく"だな、と思うだろう。けれども作者はそんなことお構いなしにどんどん不思議を積み重ねていってしまった。book4を書こうと思えば書けるに違いないがそんな謎解きのために書くだろうか? これは単に(単にと言うほど簡単ではないが)不条理なのだと理解すべきだろう。

ちゃんと見れば誰もがこんなわけのわからない不条理とも言える世界に生きていて、何かちょっとするととんでもない変なことに巻き込まれたりする。1Q84ならずとも実世界がそうなのだとは考えられないだろうか。

と、そっちの方は別にきっと誰か書いているだろうからお任せしてここで中断。文学批評に詳しい人がいるに違いない。



"何かをするときっとこうなる"と言う単純な法則は多くの人がとても好きな考え方だと思う。1Q84もそう思って読むと謎解き小説になる。日常の中で我々はいつもそう考えるクセがついている。

薬には必ず効能がある。(と思うからビタミン剤で病気が改善することがある。) ココアを朝に飲むと腸管が掃除されて健康に良い。(みのもんた)と言うようなものから、信じるものは救われる、この壷を持つと災いが避けられるなどいろいろある。

昔の親は子に"ためになる"とかならないとか言ったものだった。結局良い結論なり良い結果がもたらされるように将来を見据えて行動せよと言う思考だ。それは原因→結果思考だからで、実際に自分の身にそれでは説明のつかない事がたくさん起こっているのを無視して子にそう言っていたとしか思えない。


1+1=2、こんな簡単なことは実際そう多くあるものだろうか?

マッサージ。一通りのことは誰でも習えるしできるようになるけれども、誰が誰に施術しても同じ効果が表れるものだろうか? 同じ時間受けると同じ料金を取る。施術する方も同じ時給だ。 修行。どんな修行でも長くやればきっとある程度誰でもできるけれど、誰がやっても悟りに達するだろうか?


多くの人がその行動や行為の先に理想的な結果があると思っている。だからこそ学校に行って勉強するし、それと同じ方法論で修行までもする。ちょっと不思議な感じがするし違和感がある。それができたら誰でも何かの達人になっている。逆に言えばコインを入れたら缶ジュースが出てくる自動販売機のような考え方のように思う。



原因と結果のつながりからはフリーになって何かを感じたり、したり、されたり、何かが起こったり、起こらなかったりそう言ういろいろな事がある、だだそれだけの世界に生きていると言うことではダメなのだろうか。結果を求める"ため"に今何かをしているのでなく、今している事自体が結果ではいけないだろうか。結果の後にはまた別の結果がつながって、そこには何の法則も経験則も通用しない世界が広がっている。

そうしてそれを不条理と言うか、偶然と言うかそれはどちらでもかまわないが、宇宙の法則だとか原理だとかそうした遠回りした理屈に起因させないでおとなしくそう言うものだと素直に受け取っておくのはどうだろう。
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