もんく [とある港街の住人]

1Q84 book3 おわり

1Q84 book3を読み終わった。
今年中に読み終わろうとはまったく思っていなかったが、それでもどうにかこの3冊を終了できて良かった。"終了できて良かった"と言うのが第一の感想。なぜならけっこう長くて遠回りな道のりだったから。


人間と言うのは不思議な性質を持つ生き物で、常に自らのこと、自らに起こること、そして自らの置かれた環境について"解釈"し続けなければ生きてはいけない。こう言うのはもちろん自分を含めてそう評するのであって、他人のことを外から眺めて言うのではない。

日常のことで何か問題がある。その意味と答えを人はいろいろな何かに求める。まずは"あの時あれを選択してしまったのが原因でこうこうこうなった"と言うように因果関係を考える。実際にはそれとて自分で制御できたかどうかは置いておいて、ともかくそう考える。簡単だからだ、と言ったら本人は怒るだろう。

さらに社会環境、世の中の流れ、行き着くところまで行くなら宇宙の原理まで持ち出すことだって可能だ。現代社会においてそうした資料は豊富で一生かかっても追いつけないほどだからいくらでもその考えを拡張することはできるのだ。


そう問いかけ始めるとそれはキリの無い作業の連続となる。一度その流れに身を浸してしまうと抜け出せる希望はそう多くはないかと思われる。無限ループに近い。

何しろ自分に関わるネタだって年齢に比例するだけたくさんある。数年前はそんなつもりは無かったのに今こうしているのは何故かと言う事でさへもがネタになる。ある人と偶然に知り合ったこともそれを単なる偶然でないと解釈する、そんな"趣味の領域"に引っ張り込むことは至って簡単な作業だ。偶然や思いも寄らぬ出来事であればあるほどその対象には打ってつけであることに間違いはない。

そこに簡単な答えは無いからだ。逆にそれに大して荒唐無稽であっても簡単な答えを提供するある種の"思想じみたもの"に人は組しやすい、と言うことである。ただ、永遠に、いや死ぬまでそれを続けるのはかなりの労力を必要とするだろう、間違いなく。


その努力、労力の果てに疲れ果て、行き着くところも実は決まっている。(残念ながらこうした事には神秘も何もなく、先人の経験と言うのは必ずあるものだ。) それは"現実を認める"と言う最も簡単なものに過ぎない。そこには宇宙の原理も何も神秘的な想像を超えた力などはなく、あったにしてもそんな事が簡単にわかるほど人は優れた存在ではないし、もし何かあったにせよ人にわかるほど、そして人が求めるほどにシンプルではないだろう。


結局、自らの身に何が起ころうと、自らの身体の形状がどうであろうと、自らの置かれたその世界がどれだけわけのわからないものであったとしても、我々はそれを一つ一つ丹念に"それはそう言うものだ"と認めつつ死への時間を辿らなければならない。死への時間を辿る、それ自体がつまりは生きると言うことだ。



この1Q84と言う作品はあまり新しいテーマに挑んでいる物だとは思えない。ただ、人の生きる中にあってそして歴史の中にあって再度、先人から引き継いだテーマを新たな方法でまとめなおしたもののように感じられる。推理小説のように読み終わって全てが解決してすっきりした読後感を得られるものではない。未解決の部分は未解決のままに放置しこの作品を歴史の中に放り込んでおく事自体がこの作品に与えられた役割なのかと思う。成功するかどうかは時間が過ぎた後でなければわからないことであるが。

ただ、今現実的に人が(自分が)しなければならない事があるよ、と言う部分では神秘主義的なその手の本とは違って好ましい部分ではある。ただし、その点においても先人の言葉をフォローするだけのものである事は間違いなく、この作品の独自性に関した評とは言い難い。



読書感想文としては"何言ってんの?"ってことになるはずなのでこのあたりで終わり。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「いろいろ雑記帖」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事