ビートたけしか誰かは忘れたのだけれど、誰かお笑い芸人のネタで、100歳を超えた祖父が、老衰によって臨終の間際に何か言いたそうだから口元に耳を近づけて「おじいちゃん、なに?何が言いたいの?」と娘が聴くと、お爺ちゃんは人生最後に「まだ、死にたくない」と言ったというネタを思い出した。
安楽死をする権利があるなら行使すれば良いと思う。
でも、その権利はその権利を行使できる国の人だけで持つべきだと思う。
なぜなら安楽死をする為に、その国へと向かう人が出ると、死の平等が崩れかねない。
まさに生きるも死ぬも金次第。
持つ者だけが受ける事が出来る世界になってしまう。
とは言っても、実質的にその権利があろうと無かろうと、行使する人はしてしまうのはどこの国であろうと変わりない事であり、ただ他人迷惑をかける事になるか、そうならないかの違いでしかない。
だから結局は個人の判断の問題という事になり、他人がどうこう言う事ではなくなってしまうのである。
では自分はどうだろう?
重い病にかかってしまって余命半年などと医者に告知され、強い痛みが体を蝕む。
緩和ケアという、痛みを取り除く事を主とした方法があるのは知っているけれど、それがどの程度痛みを取り除いてくれるかまでは解らない。
その痛みと、迫り来る死と向かい合って、その日を迎える事が出来るのかと考える。
その時に安楽死という手段があったら自分は選択するだろうかと。
たぶんの話しだけれど、安楽死は選ばない気がする。
どうせこの先それほど長くはないのだから、いつかその日を迎えたとしても違わないと思うのではないだろうか。
痛みはあるかもしれないが、どうする事も出来ない。
この国に安楽死という手段はないし、それ以外の方法は人に迷惑をかけてしまう。
結局、日本人は現実的な答えとして同じ様な結論になるんじゃないだろうか?
二年前に同じ歳の従姉妹が胃癌で亡くなった。
看護士をしていた。
亡くなる二週間ほど前にお見舞いに行った時、闘病生活をすでに一年近くしていた彼女は、以前あった時よりもはるかに痩せ細っていて、モルヒネを躰に入れる管に繋がれていた。
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」
彼女はそう言ったのだけれど、こちらとしては死を前にした人と会話をするというのも経験した事がないので、調子はどう?とか聞けるわけもなく、愛想笑いしかできなあったのだけれども、看護士を10年以上していた彼女の方が自分の死期を理解していたのだろうけど、そう言う素振りは見せることなく、来てくれた事にひたすら感謝していたのである。
少しして、彼女は亡くなり葬儀の時に彼女の同僚である看護士さん達が最期のお別れをするときに、棺の中にいる変わり果てた従姉妹の姿を見てヴァっと号泣する人達がいた。
本職の人たちが見ても驚くくらい痩せてしまったようだった。
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