8月も後半に差し掛かると、空気が少しずつ変わり始める。
日中はまだ夏の暑さが続いているが、夜になると、涼しい風が窓を通り抜ける。
「夏の終わりが近いのかな」と、私はぼんやりと思った。
私が今住んでいるマンションは6階建てで、窓からは川が見える。
川沿いに住むのは初めてで、引っ越しの内見の際に、どうしても気になったことがあった。
「ここ、虫とか大丈夫なんですかね?」
私は不動産会社の社員に尋ねた。
虫が苦手な私にとって、それは非常に重要な質問だった。
社員は軽く笑いながら、「ここは6階ですし、虫はここまで上がってきませんよ」
と答えた。
その言葉に安心した私は、すぐに契約を決めたのだったが、今思えば、それは甘い考えだった。
引っ越してから数週間が経ち、ようやく新しい生活にも慣れてきた頃、ある晩に異変が起きた。
いつものように仕事から帰宅し、シャワーを浴びてリラックスしていると、視界の隅に何かが動くのを感じた。
「ん?」
と、視線を移すと、そこには大きな虫がいた。
こおろぎだ。
しかし、普通のこおろぎよりも少し大きい。
「こおろぎにしてはでかいな」と、思わず口に出してしまった。
そのこおろぎは、私の存在をまるで気にすることなく、部屋の中をゆっくりと歩き回っていた。
私は驚きと困惑の中で、その虫をじっと見つめた。泣かない大きなこおろぎ。
これは本当にこおろぎなのだろうか?
どうしてここにいるのか、どこから来たのか、そしてなぜ鳴かないのか。
そんな疑問が頭を巡る。
「夏の終わり、って感じだな」と、私は一人つぶやいた。
こおろぎは秋を象徴する存在だが、こんな時期に、しかもこんな形で遭遇するとは思いもよらなかった。
しばらくそのこおろぎを眺めていると、私はふと、内見時に不動産会社の社員と交わした会話を思い出した。
「ここは6階ですし、虫はここまで上がってきませんよ」
と、あの軽い笑顔が脳裏に浮かぶ。
「全然そんな事はないじゃないか」
と、私は心の中でその言葉を繰り返した。
翌日、仕事場でこの出来事を話すと、同僚たちは皆それぞれの「虫との戦い」について語り始めた。
「私のアパート、川の近くじゃないのに、夏になると大量の虫が…」
と、同僚の一人がため息をついた。
「うちも!今年は蛾が多くて困ってるのよ」
と、別の同僚が加わった。
彼らの話を聞いているうちに、私は少しだけ安堵感を覚えた。
どうやら私だけがこの「虫問題」に悩んでいるわけではないらしい。
いや、むしろそれは普通のことだったのかもしれない。
その夜、再び部屋に戻ると、例のこおろぎがまだそこにいた。
泣かないこおろぎ。
私はそのこおろぎを見つめながら、静かにその存在を受け入れることにした。
「虫も、生き物だからね」
と、私は自分に言い聞かせた。
部屋の中にいるこおろぎは、私の生活に干渉するわけでもなく、ただそこにいるだけの存在だ。
「夏の終わりを告げに来たのかもしれないね」と、ふと微笑んだ。
数日後、こおろぎは姿を消した。
まるで私の部屋での役目を終えたかのように、何の痕跡も残さずに。
私はそれを見て少しだけ寂しさを感じた。
こおろぎがいなくなった部屋は、再び静寂に包まれ、窓の外からは秋の虫たちの音が聞こえるだけだった。
この出来事を通じて、私は季節の移ろいを改めて感じることができた。
夏の終わりと秋の訪れ。
その境目に、私たちはどんな感情を抱くのだろうか。
「もう秋か…」と、私はまた口にする。
今度こそ、本当に秋が来たのだ。
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