戦時下の川端康成 その10 片岡鉄兵の死
片岡鉄兵の死
康成みずからの手による「年譜」(12巻本全集第12巻、昭和36年8月30日)の昭和19年の項には、
12月、片岡鉄兵死ぬ。
と書きこまれている。康成にとって、鉄兵は、横光とともに、若年のころからの長い期間にわたる親しい友人であった。
岡山県津山市のほとりで生まれた鉄兵は、一九二四(大正十三)年、『文藝時代』の創刊に加わったが、文壇に出たのは、横光や康成たちより早かった。一九二一(大正一〇)年、里見らの雑誌『人間』に「舌」を発表して文壇で地位を確立している。
新感覚派時代には、横光、康成とともに、新感覚派擁護の論陣を張り、活躍したが、まもなく左傾し、プロレタリア文学の作品を多く書いた。さらに少女小説や大衆小説の分野に移り、その文学的生涯は定まりがなかった。
しかし妻光枝が、康成と茨木中学の同期生片岡重治の妹であったこともあり、親しみが深かった。
茨木中学入学のときには康成が首席であったが、文学に熱中して成績が下降したのに対して、片岡重治は絶えず首席を争った秀才であった。1915(大正4)年3月、康成が寄宿舎に入ったとき、同級の片岡がその室長であったことから、親交はいっそう深まった。
さらに、37巻本『川端康成全集』補巻1所収の「大正4年 手帖」には「片岡重治君に」という長文の手紙が掲載されている。「私の敬愛するKさん」と始まる文章だが、どう読んでも、これは恋文である。中に、こんな一節がある。
私は3歳と4歳とで父母に別れ八歳で祖母に15(ママ)歳で姉に、今又祖父に別れた孤児で御座います 私の少年時代も無邪気でなく淋しい悲しい風が訪れ今まで青春の春らしくなかつたのは悲しい事です(中略)
それにつけても私の尊敬するKさんにお願したいことは何時(いつ)までも純潔に生活し私のアイドルであつてほしいので厶(ござ)います
康成が清野少年と親しむのはもっと後のことだが、この時点で康成は明らかに片岡少年を、少なくとも恋の対象のひとりとして意識していた。
康成がこの手紙を実際に投函したのか手交したのかどうかはわからない。おそらく手帖に記しただけのことであったろう。
さらに「大正5年 當用日記」の1月24日の項には、「舎生活も深みゆくと共に総ての者に対する幻影はほろび唯片岡に対する幻影のみ残る」という一節がある。片岡少年に対する恋情が、かなり真剣なもので、少なくとも1年以上持続したことをうかがわせる。
このような心の経緯から、康成は、鉄兵と結婚した光枝に好意を抱き、それが鉄兵一家との親しい交わりの根底にあったと思われる。
戦前には、康成と鉄兵の2家族は、ともに夏冬を山間海辺で過ごすのが習わしだった。また横光と3人で花袋の「田舎教師」の遺跡を歩いたり、東海道を旅したりした。
『川端康成とともに』によれば、1926(大正15)年ごろ、菅忠雄の家に秀子がいたとき、菅の誘いで康成がこの家に住むことになると、途端に横光、「新婚早々の片岡鉄兵」、池谷信三郎、石濱金作などが毎日のようにやってきて、梁山泊の観を呈したという。
それほどの長い間、家族ぐるみの親しみであったのだが、鉄兵は1938(昭和13)年に従軍ペン部隊に加わって中国に渡り、そこで感染したマラリヤによって肝硬変になった。そしてなぜか、死の1年ほど前から、異常なほど旅行熱に憑(つ)かれ、信州の角間温泉、北海道、河内、紀伊と漂遊した。
その挙げ句、紀伊田辺市の文学愛好家、猪野多毛師(たけし)の家に逗留中、病臥して、1944(昭和19)年の12月25日に息をひきとったのである。
康成の心配
猪野多毛師(いの たけし)から康成に宛てた書簡1(37巻本『川端康成全集』補巻2、昭和19年12月1日付 田辺市中屋敷町97より、鎌倉市大塔宮二階堂あて)には、
去る25日、片岡先生やうやうお越し〈に〉なり、迚(とて)も元気なりしに長のお疲れにや昨日より少々不快、目下拙宅にて臥床中に候
とある。これを見て心配した康成は、12月3日付けの葉書を杉並荻窪清水町240の留守宅に送り、「旅より帰られしや。御無事を念ずる事切なり。万一の場合ハすべて御遠慮に及ばず。」と書いている。また12月7日には、光枝にあてて、「猪野さんから12月1日づけの葉書で、片岡さんが御病臥の便り、これにも憂慮しました。もうお戻りになりましたか。(以下略)」と心配している。
しかし、その甲斐もなく、鉄兵は25日に息をひきとったのである。
敗色濃い戦時下、しかも年末ということもあって、汽車は旅客制限をしていて、夫人は病の急変を知って田辺に行くのに北陸線を経由しなければならず、30何時間立ちつづけで、到着できたのは臨終の5時間前であったが、鉄兵はすでに口をきけなかった。
12月29日の朝、夫人は遺骨を入れた鞄をさげて東京駅に着いた。その日に通夜をし、密葬は30日だった。
「その通夜の最中に空襲が3度もあつた」と、横光利一は戦後、鎌倉文庫から出版された片岡の『尼寺の記』(1947・8・15)の解説「典型人の死」に書いている。
年の瀬であったため、本葬は年が明けた1月14日、都心を離れた荻窪の片岡宅で営まれた。
空襲に遭わぬようにするため、葬儀は午前8時から営まれた。康成は前夜から泊まりこんだが、丹羽文雄は疎開先から汽車中の弁当を朝飯にして来たし、伊東の佐佐木茂索は3時に起きて飯を炊き、1番列車に乗って駆けつける、という有様だった。
葬儀の間に敵機が来なくて無事にすんだと皆よろこんだが、そのとき敵機は伊勢神宮を侵犯していたのであった。硫黄島に米兵が上陸する直前であった。
書けなかった弔辞
康成は、次のように弔辞を書きはじめた。
この戦争の成行を生きて見届けようと、君は僕にも屡(しばしば)言つた。生きてといふ言葉に、僕は僕等が交友20年を経てこの秋(とき)に遇ふお互の愛情を感じ、国の危急を憂へる君が衷心を聞いた。それは畢竟(ひっきょう)激湍(げきたん)に鳴る僕等の生の聲として尚僕の耳にありながら君は已(すで)にゐない。
また、次のようにも書いた。
このやうな日旅に病んで君の末期の目に冴映つたであらう世界戦争の貌を想ふと、君の死もまた今日の波濤に一点燃えるかと更に胸打たれる。
しかし結局、弔辞は書き上げることができず、康成は当日、菊池寛の弔辞を代読した。
片岡は戦争の帰趨(きすう)について、当初から厳しい見方をしていて、康成はその激越な発言を、戦時下にはよう書けなかったと、のちに述懐している。
ただならぬ戦況のなか、そのような友人の死はひとしお哀切であった。
戦争の最後の年、昭和20年は、このように親友の葬儀から始まった。
昭和18年に、その作風を深く尊敬していた徳田秋聲の死を悼んだ康成は、この片岡鉄兵の死を初めとして、以後、親しい友人知己(ちき)の度重なる死を身近に経験することになるのである。
片岡鉄兵の死
康成みずからの手による「年譜」(12巻本全集第12巻、昭和36年8月30日)の昭和19年の項には、
12月、片岡鉄兵死ぬ。
と書きこまれている。康成にとって、鉄兵は、横光とともに、若年のころからの長い期間にわたる親しい友人であった。
岡山県津山市のほとりで生まれた鉄兵は、一九二四(大正十三)年、『文藝時代』の創刊に加わったが、文壇に出たのは、横光や康成たちより早かった。一九二一(大正一〇)年、里見らの雑誌『人間』に「舌」を発表して文壇で地位を確立している。
新感覚派時代には、横光、康成とともに、新感覚派擁護の論陣を張り、活躍したが、まもなく左傾し、プロレタリア文学の作品を多く書いた。さらに少女小説や大衆小説の分野に移り、その文学的生涯は定まりがなかった。
しかし妻光枝が、康成と茨木中学の同期生片岡重治の妹であったこともあり、親しみが深かった。
茨木中学入学のときには康成が首席であったが、文学に熱中して成績が下降したのに対して、片岡重治は絶えず首席を争った秀才であった。1915(大正4)年3月、康成が寄宿舎に入ったとき、同級の片岡がその室長であったことから、親交はいっそう深まった。
さらに、37巻本『川端康成全集』補巻1所収の「大正4年 手帖」には「片岡重治君に」という長文の手紙が掲載されている。「私の敬愛するKさん」と始まる文章だが、どう読んでも、これは恋文である。中に、こんな一節がある。
私は3歳と4歳とで父母に別れ八歳で祖母に15(ママ)歳で姉に、今又祖父に別れた孤児で御座います 私の少年時代も無邪気でなく淋しい悲しい風が訪れ今まで青春の春らしくなかつたのは悲しい事です(中略)
それにつけても私の尊敬するKさんにお願したいことは何時(いつ)までも純潔に生活し私のアイドルであつてほしいので厶(ござ)います
康成が清野少年と親しむのはもっと後のことだが、この時点で康成は明らかに片岡少年を、少なくとも恋の対象のひとりとして意識していた。
康成がこの手紙を実際に投函したのか手交したのかどうかはわからない。おそらく手帖に記しただけのことであったろう。
さらに「大正5年 當用日記」の1月24日の項には、「舎生活も深みゆくと共に総ての者に対する幻影はほろび唯片岡に対する幻影のみ残る」という一節がある。片岡少年に対する恋情が、かなり真剣なもので、少なくとも1年以上持続したことをうかがわせる。
このような心の経緯から、康成は、鉄兵と結婚した光枝に好意を抱き、それが鉄兵一家との親しい交わりの根底にあったと思われる。
戦前には、康成と鉄兵の2家族は、ともに夏冬を山間海辺で過ごすのが習わしだった。また横光と3人で花袋の「田舎教師」の遺跡を歩いたり、東海道を旅したりした。
『川端康成とともに』によれば、1926(大正15)年ごろ、菅忠雄の家に秀子がいたとき、菅の誘いで康成がこの家に住むことになると、途端に横光、「新婚早々の片岡鉄兵」、池谷信三郎、石濱金作などが毎日のようにやってきて、梁山泊の観を呈したという。
それほどの長い間、家族ぐるみの親しみであったのだが、鉄兵は1938(昭和13)年に従軍ペン部隊に加わって中国に渡り、そこで感染したマラリヤによって肝硬変になった。そしてなぜか、死の1年ほど前から、異常なほど旅行熱に憑(つ)かれ、信州の角間温泉、北海道、河内、紀伊と漂遊した。
その挙げ句、紀伊田辺市の文学愛好家、猪野多毛師(たけし)の家に逗留中、病臥して、1944(昭和19)年の12月25日に息をひきとったのである。
康成の心配
猪野多毛師(いの たけし)から康成に宛てた書簡1(37巻本『川端康成全集』補巻2、昭和19年12月1日付 田辺市中屋敷町97より、鎌倉市大塔宮二階堂あて)には、
去る25日、片岡先生やうやうお越し〈に〉なり、迚(とて)も元気なりしに長のお疲れにや昨日より少々不快、目下拙宅にて臥床中に候
とある。これを見て心配した康成は、12月3日付けの葉書を杉並荻窪清水町240の留守宅に送り、「旅より帰られしや。御無事を念ずる事切なり。万一の場合ハすべて御遠慮に及ばず。」と書いている。また12月7日には、光枝にあてて、「猪野さんから12月1日づけの葉書で、片岡さんが御病臥の便り、これにも憂慮しました。もうお戻りになりましたか。(以下略)」と心配している。
しかし、その甲斐もなく、鉄兵は25日に息をひきとったのである。
敗色濃い戦時下、しかも年末ということもあって、汽車は旅客制限をしていて、夫人は病の急変を知って田辺に行くのに北陸線を経由しなければならず、30何時間立ちつづけで、到着できたのは臨終の5時間前であったが、鉄兵はすでに口をきけなかった。
12月29日の朝、夫人は遺骨を入れた鞄をさげて東京駅に着いた。その日に通夜をし、密葬は30日だった。
「その通夜の最中に空襲が3度もあつた」と、横光利一は戦後、鎌倉文庫から出版された片岡の『尼寺の記』(1947・8・15)の解説「典型人の死」に書いている。
年の瀬であったため、本葬は年が明けた1月14日、都心を離れた荻窪の片岡宅で営まれた。
空襲に遭わぬようにするため、葬儀は午前8時から営まれた。康成は前夜から泊まりこんだが、丹羽文雄は疎開先から汽車中の弁当を朝飯にして来たし、伊東の佐佐木茂索は3時に起きて飯を炊き、1番列車に乗って駆けつける、という有様だった。
葬儀の間に敵機が来なくて無事にすんだと皆よろこんだが、そのとき敵機は伊勢神宮を侵犯していたのであった。硫黄島に米兵が上陸する直前であった。
書けなかった弔辞
康成は、次のように弔辞を書きはじめた。
この戦争の成行を生きて見届けようと、君は僕にも屡(しばしば)言つた。生きてといふ言葉に、僕は僕等が交友20年を経てこの秋(とき)に遇ふお互の愛情を感じ、国の危急を憂へる君が衷心を聞いた。それは畢竟(ひっきょう)激湍(げきたん)に鳴る僕等の生の聲として尚僕の耳にありながら君は已(すで)にゐない。
また、次のようにも書いた。
このやうな日旅に病んで君の末期の目に冴映つたであらう世界戦争の貌を想ふと、君の死もまた今日の波濤に一点燃えるかと更に胸打たれる。
しかし結局、弔辞は書き上げることができず、康成は当日、菊池寛の弔辞を代読した。
片岡は戦争の帰趨(きすう)について、当初から厳しい見方をしていて、康成はその激越な発言を、戦時下にはよう書けなかったと、のちに述懐している。
ただならぬ戦況のなか、そのような友人の死はひとしお哀切であった。
戦争の最後の年、昭和20年は、このように親友の葬儀から始まった。
昭和18年に、その作風を深く尊敬していた徳田秋聲の死を悼んだ康成は、この片岡鉄兵の死を初めとして、以後、親しい友人知己(ちき)の度重なる死を身近に経験することになるのである。
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