小谷野敦「川端康成伝」荒唐無稽な妄説と基本的ミスのオンパレード
小谷野敦氏「川端康成伝―双面の人」は、あり得ない荒唐無稽な妄説を記し、また基本的誤りの多い書である。この書は、素朴な読者に、とんでもない虚偽を信じこませかねないので、ここに、はっきり、これがいかに、でたらめな妄説であるかを、以下に記したい。
「契約証」の示す事実
明治35年1月、川端康成満3歳にもならないとき、姉芳子と弟康成の母が病死した。父栄吉は、前年に死んでいる。両親を亡くした二人を養育するため、親族協議の上、男子で跡取りの康成を、(父方の)祖父母・川端三八郎とカネは、川端家の原籍地・大阪府三島郡豊川村宿久庄(現・茨木市)に帰って育てることにした。
老夫婦が2人の子を育てることは難しい。そこで姉の芳子は、実母ゲンの妹タニが引き取って育てることにした。タニは、衆議院議員をしている名望家・秋岡義一に嫁いでいたので、芳子は秋岡家に引き取られる。叔母が育てることになったのだ。妥当な措置だ。
このとき、二人の遺児の将来のため、保護者である3名が「契約証」を作成した。
祖父三八郎、母ゲンの兄・黒田秀太郎、秋岡義一である。
黒田家の女(むすめ)ゲンが川端栄吉に嫁し、康成芳子の子女を産んだという記述
母ゲンが遺産として現金3,100円を残していたので、これを基金として、二人を将来にわたって養育し、大人になったら独立させ、婚姻させるという覚え書きである。
契 約 証
一金参千壱百円也(一金 3,100円)
右黒田家ト川端家ハ旧来親族ニシテ黒田家ノ女ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕条件ヲ以テ秋岡義一ニ於テ黒田秀太郎ヨリ預リ申処実正也前記場合ノ到来シタルトキ秋岡義一ニ於テ夫々仕渡可申候尤モ其割合ハ秋岡義一ニ一任スル事
一右贈与スヘキ場合ニ至ル迄康成芳子の祖父母タル川端三八郎同カ子ニ対シ秋岡義一ハ黒田秀太郎ニ代リ別ニ毎月金弐拾参円弐拾五銭ヲ仕送リ可申事尤モ康成又ハ芳子ニ対スル贈与ノ何レカノ場合生シタルトキハ其後ハ此特別仕送金モ其割合ヲ以テ減額スヘキ事
此書面ハ三通ヲ作リ黒田秀太郎川端三八郎秋岡義一ニ於テ各一通宛所持スルモノナリ
明治参拾五年拾一月拾八日(明治35年11月18日)
川端三八郎
黒田秀太郎
秋岡 義一
芳子の将来の結婚までを配慮
両親を失った康成と芳子にたいする、親族たちの手厚い保護と気配りを見せた、胸に迫る文面である。なかでも康成の将来を考え、「康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ」とした部分と、「芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ」と述べて芳子の将来の「婚姻」まで考え、「其資本費用トシテ分配贈与」すると記した部分に、親族たちの深い愛情と深慮がこめられている。
小谷野敦『川端康成伝――双面の人』の妄説
ところが、このように重要な契約書が110年以上のちも現存しているというのに(たとえば『新潮日本文学アルバム 川端康成』(新潮社、1984・3・20)の7頁)、この文言を無視して、荒唐無稽な妄説を提起した書がある。小谷野敦『川端康成伝―双面の人』(中央公論新社、2013・5・25)である。
驚くべき嘘
小谷野は康成の出生前後を詳細に研究した羽鳥徹哉、川嶋至、笹川隆平の名を挙げて、以下のような驚くべきことを書いている。
恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが、称随は三八郎の愛人であり、芳子の母であろう。そう考えて、「故園」と、「父母への手紙」の、姉に触れたところを熟読すれば、まったくそうとしか思えなくなる。それなればこそ、父母が死んだあとで川端家養女とし、芳子が死んだあとで称随だけが行き、さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである。 (第1章49頁)
小谷野は序文において、「(伝記で)重要なのは、なるべく事実に迫る努力をすることである」と書いているが、自分の言葉にも背いて、これほど事実を遠く離れた妄想を繰り広げて、先学の努力を侮辱した書は、これまで見たことがない。
小谷野敦は、驚くべし、康成の姉芳子が父栄吉と母ゲンの子ではなく、康成の祖父三八郎が、のちに川端家の私寺如意寺の尼となった称随との間にもうけた子である、と述べているのである。
見た瞬間にわかるデタラメ
専門の川端文学の研究者なら、見た瞬間、これがデタラメであることはわかる。
すぐ頭に浮かぶのは、芳子が生まれた明治28年前後、三八郎夫妻が故地宿久庄を離れて、妻カネとともに親戚の家々に逼塞していた、という事実である。
羽鳥の詳細な研究に誌されているように、明治18年、三八郎は「3つの蔵と築地塀の一部分だけを残して」先祖代々の山林、田地、屋敷の大半を抵当に入れ、翌19年ごろには、宿久庄を離れた。夜逃げ同然に故地を逃れ去ったのである。それ以後は妻カネの実家である西成区豊里村大字三番の黒田家(現、東淀川区豊里)、ついで豊中岡町の良本家(川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』〈私家版、1999・6・吉日〉第8章による)、さらに豊能郡熊野田村(現、豊中市)の小寺秀松家など親戚の離れと「親戚まわり」をしていたのである。
愛人をつくり、子をもうける余裕があるはずもない
愛人をつくり、子をもうけるなどの余裕があろうとは思えない。
三八郎が妻カネとともに宿久庄に戻るのは、栄吉とゲンの相次ぐ死亡によって、孫を養育する必要があって小さな家を建て、ふたたび住むようになった、明治35年だ。
すなわちおよそ15年間、三八郎は妻カネとともに親戚間を彷徨していた(居候していたのである)。その三八郎のどこに、称随を愛人として芳子を産ませる余裕があったというのか。
芳子が父・栄吉と母・ゲンの間に生まれた歴然たる証拠3点
芳子が父栄吉とゲンの間に生まれたという事実には、動かしがたい証拠が、少なくとも、3点もある。
戸籍に明記
まず第1に、川端三八郎の戸籍(明治45年3月23日付、大阪府三島郡豊川村戸籍吏細川庄兵衛作成、前掲『新潮日本文学アルバム 川端康成』9頁)に、芳子は川端三八郎の孫として、「二男栄吉長女」と明記されていることである。
母ゲンの実家で誕生
第2に、川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』第4章「川端家年譜」にも「明治28年8月17日、三番村黒田家で芳子誕生」と、芳子がゲンの実家・黒田家で誕生したと誌されている。
黒田ゲンが川端家に嫁して芳子と康成を産んだから、遺産で養育する
さらに第3に、前掲の契約証がある。そこには、「黒田家ノ女(むすめ)ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ(中略)芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕……」と記されているのである。
すなわち黒田ゲンが川端栄吉に嫁し、康成と芳子を産み、死亡した事実にもとづいて、芳子の将来の「婚姻ノ為ノ費用」までをおもんばかって基金を設けているのである。
いったい、栄吉とゲンの子ではない、ゲンにとって舅(しゅうと)にあたる三八郎がよその女に産ませた子に、将来の婚儀にまで及ぶ配慮をするものだろうか。
芳子が栄吉とゲンの間に生まれたという厳然たる事実は、これら3つの文書が明白に証している。
称随が葬儀に出たことは、証拠にならない
およそ通説に遠く離れた説を述べるためには、通説を打ち破るに足る十分な事実の提示が必要であろう。この3点の明白な証拠に対して、小谷野が挙げているのは、芳子の葬儀に称随だけが行ったという事実と、栄吉らの死後、三八郎が称随を養女としたこと離縁したことの2点だけである。
ところが、称随のいた如意寺は、古く鎌倉時代から川端家が保護する寺であり、称随が栄吉の死亡のときも、ゲンが死亡したときも、導師として焼香順の冒頭に挙げられている(笹川隆平『川端康成――大阪茨木時代と青春書簡集』和泉書院、1991・9・20の第1章)。
芳子の葬儀に参列したのは、尼僧称随の導師としての当然の義務だったのである。葬儀参列の事実を以て芳子の実母であるとするのは、まったく論拠になっていない。
称随が自殺したとは、まったくの憶測。根拠はない。
次に養女にしたことと、のちに離縁したことであるが、これは如意寺が川端家の尼寺になっていたことから、その尼さんを川端家の戸籍に入れることは、江戸時代からの慣行だったので、別に不思議はない。
称随を離縁にしたことは、羽鳥が述べているように「何かうまくいかないことがあって、郷里へ帰った」のだろうと推測するしかない。
小谷野が挙げた条項は、芳子が栄吉とゲンの子であるとする厳然たる事実の前に、論拠としてあまりに薄弱である。
強力な証言・栄吉が名前について書いていた
さらに芳子の出生については、別に、強力な証言が残されている。
康成が引き取られて育った宿久庄の、旧三八郎宅を買い取ってその家に長く住んだ川端種次郎の妻である川端富枝の書いた文章である。
富枝は、三八郎旧宅の土蔵から出てきた資料を次々と発掘して『川端康成のふるさと 宿久庄』(私家版、1989・4・18)を刊行しているが、その第10章「父栄吉氏と康成氏の誕生」の一節に、以下のような文面がある。
その翌年明治28年(8月)17日康成氏の姉芳子さんが三番黒田邸で誕生されました。
この時にこんなエピソードがありました。父の占(うらない)を至上のものと信頼しておられた栄吉氏は出産の為里帰りしている妻の産室の方位をたずねられ、第1子の命名に附いては「本年清国征伐の時天皇の詔に「国威を宣揚す」の語あり。故に男子に候はば「宣揚」即ち「ノブタケ」と読み是を名とせば如何と存じ序ながら御尋ね申上候。」と。
又女の子ならば下に何子又は何々子とつけるのが流行致し候ゆへ 子をつけ候て如何と存じ たとへば綾子とか何とか字の下に子をつけ度と存じ候」と色々内意を述べられ、(一方)父上は「守」は如何なものかといっておられました。
このような、まことに具体的でリアルな証言もある。
小谷野敦氏の屁理屈
小谷野敦はこの証言に難癖をつけ、日清戦争は前年の明治27年なので1年違うとか、妻への手紙に「御尋ね申上候」と敬語を使っているのはおかしい、さらにこの手紙の出所が明かされていないから信用できない、と書いている。
しかし、開戦の詔勅が国民の間でつよく意識されていた時期だから、その1年後は、少しも不自然ではない。
また、妻への手紙であっても書簡体において敬語を使うことは定型であって、何らおかしいことはない。
出所を明かしてないというが、手紙の出所が「旧三八郎邸」の蔵であったことは明白である。
このような明証の数々があったので、羽鳥も笹川も川嶋も、芳子の出生について何ら問題を感ずることがなく、書かなかった。書く必要がなかったのである。
全くのデタラメ
それを「恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが」と、さも曰(いわ)くありげに書くのは、文飾に過ぎない。「なぜその川嶋が、称随について書かなかったのか不思議である」と小谷野は書いているが、これは事情に通じない読者を欺く、質の悪い、卑怯な文飾である。
泉下の羽鳥、笹川、川嶋は、さぞ憤慨していることだろう。
根拠のない憶測と虚
「さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである」とも書いているが、これまた、まったくの憶測である。何の根拠もない。資料は何もないのである。
さらに前引の文章につづいて、小谷野は驚くべき虚言を吐いている。
「16歳の日記」の本文を書いた時、子供の川端はそれに気づいていないが、「父母への手紙」と「故園」を書いた時には気づいている。
のちの康成は、芳子が祖父三八郎と称随の子であることに気づいていた、と小谷野敦は言うのだ。
「父母への手紙」には、よく知られているように、第5信(初出「あるかなきかに」『文藝』1934・9・1)に次のような一節がある。
父栄吉が残した、二人への遺訓
父のあなたは死の床に起き上つて、まだ頑是ない姉と私への遺訓のつもりで、姉のためには「貞節」と、私のためには「保身」と、字を書いてくれました。
ここには、姉芳子と弟の自分にたいする父栄吉の深い愛情を素直に喜び、感謝する康成がいる。どこに、姉は祖父が称随に産ませた子だと気づいた痕跡があるというのか。(これらの遺訓は、語句はほんの少し異なるが(康成の記憶違いだろう)、今日も残されていて、各地の川端康成展で展示されている。)
「故園」でも、明らか
また「故園」の第6章には、こんな一節がある。
西国巡礼が始終通るやうな畿内の片田舎で、巡礼に出る習はしも村に残つてゐたし、いろんな仏事のしきたりが、まだ昔の心でなつかしまれてゐる時分だつた。私は神仏の信仰の厚い老人に育てられた子供だつた。
「信仰の厚い老人」は、もちろん主として三八郎を、従として祖母をも指すだろう。だが、称随がすでに尼だったとしたら、尼僧に手を出して子を産ませるような人を、「信仰の厚い老人」と書けるだろうか。また、当時は俗人だったとしても、自分が子を産ませた愛人を自家の寺に入れて尼僧にするような人を「信仰の厚い老人」と呼ぶだろうか。
康成は素直に、祖父も祖母も、「神仏の信仰の厚い老人」と述べているのである。
第10章でも、祖父は死に際に痰が切れなくて胸板をかきむしって苦しんだのだったが、ずっと祖父と康成だけの家を手助けしてくれたおみよ(モデルは田中ミト)が、次のように言う場面が描かれている。
祖父・三八郎は「慈悲を施し功徳を積んだ」人
祖父が死んだ夜、おみよは、
「仏さんみたいなお方やのに、往生際になんでこないお苦しみやすのや。」
と訴へるやうに言つた。この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人は、
「極楽の仏さんがお迎へに来やはらへんのかいな。」
と、怨じて涙をこぼした。
村の隣の百姓女で、数十年間にわたって祖父の家政を手伝いしてきたおみよのこの言葉は、三八郎が周囲にどのような人物として映っていたかを如実に物語っている。
その言葉を思い出して作者康成は「この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人」と、おみよの言葉を肯定し、追慕しているのだ。
祖父の品行を疑うような要素がまったくないことは明らかである。
明白な虚言
このような「父母への手紙」や「故園」の一体どこに、芳子は祖父三八郎が尼の称随に産ませた子であるというような、荒唐無稽な事実が顔を出しているというのだろうか。小谷野敦の記述は、明白な虚言である。
栄吉を庶子とする嘘も
小谷野はまた、父栄吉をも、三八郎の「二男」ではなく「庶子」であろうと、これまた戸籍謄本の語る事実を離れた荒唐無稽な説を開陳している。「庶子」であるのなら、その実母を指摘してみよ。指摘できないだろう。そんな女性は存在しないからである。
反論は容易であるが、紙幅の都合で次に進みたい。
この書の持つ、基本的ミスの数々は、つづきに書こう。
小谷野敦氏「川端康成伝―双面の人」は、あり得ない荒唐無稽な妄説を記し、また基本的誤りの多い書である。この書は、素朴な読者に、とんでもない虚偽を信じこませかねないので、ここに、はっきり、これがいかに、でたらめな妄説であるかを、以下に記したい。
「契約証」の示す事実
明治35年1月、川端康成満3歳にもならないとき、姉芳子と弟康成の母が病死した。父栄吉は、前年に死んでいる。両親を亡くした二人を養育するため、親族協議の上、男子で跡取りの康成を、(父方の)祖父母・川端三八郎とカネは、川端家の原籍地・大阪府三島郡豊川村宿久庄(現・茨木市)に帰って育てることにした。
老夫婦が2人の子を育てることは難しい。そこで姉の芳子は、実母ゲンの妹タニが引き取って育てることにした。タニは、衆議院議員をしている名望家・秋岡義一に嫁いでいたので、芳子は秋岡家に引き取られる。叔母が育てることになったのだ。妥当な措置だ。
このとき、二人の遺児の将来のため、保護者である3名が「契約証」を作成した。
祖父三八郎、母ゲンの兄・黒田秀太郎、秋岡義一である。
黒田家の女(むすめ)ゲンが川端栄吉に嫁し、康成芳子の子女を産んだという記述
母ゲンが遺産として現金3,100円を残していたので、これを基金として、二人を将来にわたって養育し、大人になったら独立させ、婚姻させるという覚え書きである。
契 約 証
一金参千壱百円也(一金 3,100円)
右黒田家ト川端家ハ旧来親族ニシテ黒田家ノ女ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕条件ヲ以テ秋岡義一ニ於テ黒田秀太郎ヨリ預リ申処実正也前記場合ノ到来シタルトキ秋岡義一ニ於テ夫々仕渡可申候尤モ其割合ハ秋岡義一ニ一任スル事
一右贈与スヘキ場合ニ至ル迄康成芳子の祖父母タル川端三八郎同カ子ニ対シ秋岡義一ハ黒田秀太郎ニ代リ別ニ毎月金弐拾参円弐拾五銭ヲ仕送リ可申事尤モ康成又ハ芳子ニ対スル贈与ノ何レカノ場合生シタルトキハ其後ハ此特別仕送金モ其割合ヲ以テ減額スヘキ事
此書面ハ三通ヲ作リ黒田秀太郎川端三八郎秋岡義一ニ於テ各一通宛所持スルモノナリ
明治参拾五年拾一月拾八日(明治35年11月18日)
川端三八郎
黒田秀太郎
秋岡 義一
芳子の将来の結婚までを配慮
両親を失った康成と芳子にたいする、親族たちの手厚い保護と気配りを見せた、胸に迫る文面である。なかでも康成の将来を考え、「康成成年ニ及ヒ生計ノ基礎ヲ立ツル為メ資本ヲ要シ」とした部分と、「芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ」と述べて芳子の将来の「婚姻」まで考え、「其資本費用トシテ分配贈与」すると記した部分に、親族たちの深い愛情と深慮がこめられている。
小谷野敦『川端康成伝――双面の人』の妄説
ところが、このように重要な契約書が110年以上のちも現存しているというのに(たとえば『新潮日本文学アルバム 川端康成』(新潮社、1984・3・20)の7頁)、この文言を無視して、荒唐無稽な妄説を提起した書がある。小谷野敦『川端康成伝―双面の人』(中央公論新社、2013・5・25)である。
驚くべき嘘
小谷野は康成の出生前後を詳細に研究した羽鳥徹哉、川嶋至、笹川隆平の名を挙げて、以下のような驚くべきことを書いている。
恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが、称随は三八郎の愛人であり、芳子の母であろう。そう考えて、「故園」と、「父母への手紙」の、姉に触れたところを熟読すれば、まったくそうとしか思えなくなる。それなればこそ、父母が死んだあとで川端家養女とし、芳子が死んだあとで称随だけが行き、さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである。 (第1章49頁)
小谷野は序文において、「(伝記で)重要なのは、なるべく事実に迫る努力をすることである」と書いているが、自分の言葉にも背いて、これほど事実を遠く離れた妄想を繰り広げて、先学の努力を侮辱した書は、これまで見たことがない。
小谷野敦は、驚くべし、康成の姉芳子が父栄吉と母ゲンの子ではなく、康成の祖父三八郎が、のちに川端家の私寺如意寺の尼となった称随との間にもうけた子である、と述べているのである。
見た瞬間にわかるデタラメ
専門の川端文学の研究者なら、見た瞬間、これがデタラメであることはわかる。
すぐ頭に浮かぶのは、芳子が生まれた明治28年前後、三八郎夫妻が故地宿久庄を離れて、妻カネとともに親戚の家々に逼塞していた、という事実である。
羽鳥の詳細な研究に誌されているように、明治18年、三八郎は「3つの蔵と築地塀の一部分だけを残して」先祖代々の山林、田地、屋敷の大半を抵当に入れ、翌19年ごろには、宿久庄を離れた。夜逃げ同然に故地を逃れ去ったのである。それ以後は妻カネの実家である西成区豊里村大字三番の黒田家(現、東淀川区豊里)、ついで豊中岡町の良本家(川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』〈私家版、1999・6・吉日〉第8章による)、さらに豊能郡熊野田村(現、豊中市)の小寺秀松家など親戚の離れと「親戚まわり」をしていたのである。
愛人をつくり、子をもうける余裕があるはずもない
愛人をつくり、子をもうけるなどの余裕があろうとは思えない。
三八郎が妻カネとともに宿久庄に戻るのは、栄吉とゲンの相次ぐ死亡によって、孫を養育する必要があって小さな家を建て、ふたたび住むようになった、明治35年だ。
すなわちおよそ15年間、三八郎は妻カネとともに親戚間を彷徨していた(居候していたのである)。その三八郎のどこに、称随を愛人として芳子を産ませる余裕があったというのか。
芳子が父・栄吉と母・ゲンの間に生まれた歴然たる証拠3点
芳子が父栄吉とゲンの間に生まれたという事実には、動かしがたい証拠が、少なくとも、3点もある。
戸籍に明記
まず第1に、川端三八郎の戸籍(明治45年3月23日付、大阪府三島郡豊川村戸籍吏細川庄兵衛作成、前掲『新潮日本文学アルバム 川端康成』9頁)に、芳子は川端三八郎の孫として、「二男栄吉長女」と明記されていることである。
母ゲンの実家で誕生
第2に、川端富枝『文豪川端康成 生誕百年を迎えて』第4章「川端家年譜」にも「明治28年8月17日、三番村黒田家で芳子誕生」と、芳子がゲンの実家・黒田家で誕生したと誌されている。
黒田ゲンが川端家に嫁して芳子と康成を産んだから、遺産で養育する
さらに第3に、前掲の契約証がある。そこには、「黒田家ノ女(むすめ)ゲンハ川端家ニ嫁シ康成芳子ノ子女ヲ挙ケ死亡シタル縁故ヲ以テ(中略)芳子婚姻ノ為メ費用ヲ要スルニ至レハ其資本費用トシテ分配贈与可仕……」と記されているのである。
すなわち黒田ゲンが川端栄吉に嫁し、康成と芳子を産み、死亡した事実にもとづいて、芳子の将来の「婚姻ノ為ノ費用」までをおもんばかって基金を設けているのである。
いったい、栄吉とゲンの子ではない、ゲンにとって舅(しゅうと)にあたる三八郎がよその女に産ませた子に、将来の婚儀にまで及ぶ配慮をするものだろうか。
芳子が栄吉とゲンの間に生まれたという厳然たる事実は、これら3つの文書が明白に証している。
称随が葬儀に出たことは、証拠にならない
およそ通説に遠く離れた説を述べるためには、通説を打ち破るに足る十分な事実の提示が必要であろう。この3点の明白な証拠に対して、小谷野が挙げているのは、芳子の葬儀に称随だけが行ったという事実と、栄吉らの死後、三八郎が称随を養女としたこと離縁したことの2点だけである。
ところが、称随のいた如意寺は、古く鎌倉時代から川端家が保護する寺であり、称随が栄吉の死亡のときも、ゲンが死亡したときも、導師として焼香順の冒頭に挙げられている(笹川隆平『川端康成――大阪茨木時代と青春書簡集』和泉書院、1991・9・20の第1章)。
芳子の葬儀に参列したのは、尼僧称随の導師としての当然の義務だったのである。葬儀参列の事実を以て芳子の実母であるとするのは、まったく論拠になっていない。
称随が自殺したとは、まったくの憶測。根拠はない。
次に養女にしたことと、のちに離縁したことであるが、これは如意寺が川端家の尼寺になっていたことから、その尼さんを川端家の戸籍に入れることは、江戸時代からの慣行だったので、別に不思議はない。
称随を離縁にしたことは、羽鳥が述べているように「何かうまくいかないことがあって、郷里へ帰った」のだろうと推測するしかない。
小谷野が挙げた条項は、芳子が栄吉とゲンの子であるとする厳然たる事実の前に、論拠としてあまりに薄弱である。
強力な証言・栄吉が名前について書いていた
さらに芳子の出生については、別に、強力な証言が残されている。
康成が引き取られて育った宿久庄の、旧三八郎宅を買い取ってその家に長く住んだ川端種次郎の妻である川端富枝の書いた文章である。
富枝は、三八郎旧宅の土蔵から出てきた資料を次々と発掘して『川端康成のふるさと 宿久庄』(私家版、1989・4・18)を刊行しているが、その第10章「父栄吉氏と康成氏の誕生」の一節に、以下のような文面がある。
その翌年明治28年(8月)17日康成氏の姉芳子さんが三番黒田邸で誕生されました。
この時にこんなエピソードがありました。父の占(うらない)を至上のものと信頼しておられた栄吉氏は出産の為里帰りしている妻の産室の方位をたずねられ、第1子の命名に附いては「本年清国征伐の時天皇の詔に「国威を宣揚す」の語あり。故に男子に候はば「宣揚」即ち「ノブタケ」と読み是を名とせば如何と存じ序ながら御尋ね申上候。」と。
又女の子ならば下に何子又は何々子とつけるのが流行致し候ゆへ 子をつけ候て如何と存じ たとへば綾子とか何とか字の下に子をつけ度と存じ候」と色々内意を述べられ、(一方)父上は「守」は如何なものかといっておられました。
このような、まことに具体的でリアルな証言もある。
小谷野敦氏の屁理屈
小谷野敦はこの証言に難癖をつけ、日清戦争は前年の明治27年なので1年違うとか、妻への手紙に「御尋ね申上候」と敬語を使っているのはおかしい、さらにこの手紙の出所が明かされていないから信用できない、と書いている。
しかし、開戦の詔勅が国民の間でつよく意識されていた時期だから、その1年後は、少しも不自然ではない。
また、妻への手紙であっても書簡体において敬語を使うことは定型であって、何らおかしいことはない。
出所を明かしてないというが、手紙の出所が「旧三八郎邸」の蔵であったことは明白である。
このような明証の数々があったので、羽鳥も笹川も川嶋も、芳子の出生について何ら問題を感ずることがなく、書かなかった。書く必要がなかったのである。
全くのデタラメ
それを「恐らく羽鳥は気づいていて、筆をよそへ向けており、笹川は気づいて一切書かなかったのだが」と、さも曰(いわ)くありげに書くのは、文飾に過ぎない。「なぜその川嶋が、称随について書かなかったのか不思議である」と小谷野は書いているが、これは事情に通じない読者を欺く、質の悪い、卑怯な文飾である。
泉下の羽鳥、笹川、川嶋は、さぞ憤慨していることだろう。
根拠のない憶測と虚
「さらに称随は離縁され、郷里へ帰って恐らく自殺したのである」とも書いているが、これまた、まったくの憶測である。何の根拠もない。資料は何もないのである。
さらに前引の文章につづいて、小谷野は驚くべき虚言を吐いている。
「16歳の日記」の本文を書いた時、子供の川端はそれに気づいていないが、「父母への手紙」と「故園」を書いた時には気づいている。
のちの康成は、芳子が祖父三八郎と称随の子であることに気づいていた、と小谷野敦は言うのだ。
「父母への手紙」には、よく知られているように、第5信(初出「あるかなきかに」『文藝』1934・9・1)に次のような一節がある。
父栄吉が残した、二人への遺訓
父のあなたは死の床に起き上つて、まだ頑是ない姉と私への遺訓のつもりで、姉のためには「貞節」と、私のためには「保身」と、字を書いてくれました。
ここには、姉芳子と弟の自分にたいする父栄吉の深い愛情を素直に喜び、感謝する康成がいる。どこに、姉は祖父が称随に産ませた子だと気づいた痕跡があるというのか。(これらの遺訓は、語句はほんの少し異なるが(康成の記憶違いだろう)、今日も残されていて、各地の川端康成展で展示されている。)
「故園」でも、明らか
また「故園」の第6章には、こんな一節がある。
西国巡礼が始終通るやうな畿内の片田舎で、巡礼に出る習はしも村に残つてゐたし、いろんな仏事のしきたりが、まだ昔の心でなつかしまれてゐる時分だつた。私は神仏の信仰の厚い老人に育てられた子供だつた。
「信仰の厚い老人」は、もちろん主として三八郎を、従として祖母をも指すだろう。だが、称随がすでに尼だったとしたら、尼僧に手を出して子を産ませるような人を、「信仰の厚い老人」と書けるだろうか。また、当時は俗人だったとしても、自分が子を産ませた愛人を自家の寺に入れて尼僧にするような人を「信仰の厚い老人」と呼ぶだろうか。
康成は素直に、祖父も祖母も、「神仏の信仰の厚い老人」と述べているのである。
第10章でも、祖父は死に際に痰が切れなくて胸板をかきむしって苦しんだのだったが、ずっと祖父と康成だけの家を手助けしてくれたおみよ(モデルは田中ミト)が、次のように言う場面が描かれている。
祖父・三八郎は「慈悲を施し功徳を積んだ」人
祖父が死んだ夜、おみよは、
「仏さんみたいなお方やのに、往生際になんでこないお苦しみやすのや。」
と訴へるやうに言つた。この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人は、
「極楽の仏さんがお迎へに来やはらへんのかいな。」
と、怨じて涙をこぼした。
村の隣の百姓女で、数十年間にわたって祖父の家政を手伝いしてきたおみよのこの言葉は、三八郎が周囲にどのような人物として映っていたかを如実に物語っている。
その言葉を思い出して作者康成は「この世で慈悲を施し功徳を積んだ祖父のやうな人」と、おみよの言葉を肯定し、追慕しているのだ。
祖父の品行を疑うような要素がまったくないことは明らかである。
明白な虚言
このような「父母への手紙」や「故園」の一体どこに、芳子は祖父三八郎が尼の称随に産ませた子であるというような、荒唐無稽な事実が顔を出しているというのだろうか。小谷野敦の記述は、明白な虚言である。
栄吉を庶子とする嘘も
小谷野はまた、父栄吉をも、三八郎の「二男」ではなく「庶子」であろうと、これまた戸籍謄本の語る事実を離れた荒唐無稽な説を開陳している。「庶子」であるのなら、その実母を指摘してみよ。指摘できないだろう。そんな女性は存在しないからである。
反論は容易であるが、紙幅の都合で次に進みたい。
この書の持つ、基本的ミスの数々は、つづきに書こう。
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