戦時下 自己改革の時代 その3 「生命の樹」(いのちのき)
三島由紀夫の批評
じつは、「再会」は、雑誌に3回掲載された分量があった。
しかし、先述したように、単行本『哀愁』に収載されたとき、第2回目は削除された。以後の全集でも、「再会」は、この単行本版を踏襲している。
雑誌『文藝春秋』7月号に第2回目「過去」が発表されたとき、後述するように康成によって文壇に出たばかりの三島由紀夫は、『人間』編集長・木村徳三に宛てた手紙のなかで、いち早くこの作品を取り上げ、卓抜な批評を展開している。
――自由の杖といへば、川端さんの「過去」は2回目までの連載(文藝春秋)をよんで「戦後」という(ママ)1つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のものだと思ひました。
経験としての戦争と、外的事件としての戦争と、そのいづれかを扱つた相不変の新小説は無数にありますが、文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される「永遠の無為」とを嘔気のするほど克明に書いた文学、それが「戦後の文学」であるべきです。精神のどうしよ(ママ)うもない、いやらしいほどのふてぶてしさ。
揚棄し、あるひは飛翔したつもりでゐた本能的な衝動が、再びあらゆる精神と思想と情感と感覚をまとつてあらはれて、我々に自堕落な安心を齎(もた)らす主題、それが「再会」です。 (昭和21年7月24日)
何と鋭い批評であろうか。「『戦後』という1つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のもの」とは、何と的確に、この作品の意義を語っていることだろう。そして「文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される『永遠の無為』」とを「嘔気のするほど克明に書いた文学」であるとは、何と深く「再会」の本質を抉(えぐ)っていることか。
三島の康成への深い傾倒と明敏な批評眼を如実に示した一節である。
「生命の樹」と鹿屋基地の体験
同年の7月、康成は『婦人文庫』に「生命の樹」(いのちのき)を発表した。
これは、戦争末期に鹿屋(かのや)特攻基地に1ヶ月滞在したときの経験と見聞を直接の素材にした、康成の唯一の作品である。
啓子は、近江に生まれ育って京都の女学校を出た娘である。戦争末期、鹿屋海軍航空基地の水交社の経営を委されていた姉夫婦の誘いにしたがって、九州南端の鹿屋基地のほとりに行き、、姉夫婦の仕事を手伝った。
それは「特攻隊員のお傍に行つてみたい娘心」からだったが、果たして啓子は特攻隊員のひとり植木と相思相愛の仲になった。
植木は予定どおり5月に飛び立ち、そして帰ってこなかった。
啓子は5月の終わりに、近江に帰ってきた。まもなく沖縄戦が終了し、日本は降伏した。
1年後の春、植木の親友だった寺村が啓子の家を訪ねてきて、自分は今から東京の植木の遺族に会いにゆく、ついては啓子さんも同行しないかと誘った。
啓子の母親が寺村に好意を抱いたこともあって、啓子はあっさり同行を許される。
寺村に連れられて東京に来る東海道の車窓でも、啓子は木々の新芽のみどりに心を奪われる。そして自分が死ぬつもりでいることを思い出す。
出撃の前夜
出撃の前夜、植木は夜空を見上げて、
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」と、言った。
しかし、それが植木の星の見納めだった。
植木はその明くる朝、沖縄の海に出撃した。
(我、米艦ヲ見ズ)
そして間もなく、
(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)
2度の無電で、消息は絶えた。
――その前夜、植木は自身が合点ゆかぬ風で、
「どうもをかしいね。死ぬやうな気が、なにもせんぢやないか。星がたんと光つてやがら」と言った。啓子は、「そうよ、そうよ」と言いながら、いいことよ、ちつとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、と言いたかった。抱きすくめられるのを待っていたようだった。が、植木は、気がつかぬふりをしたのかもしれない。星の見納めだ、という言い方に、啓子への愛がこもつていたと思えてならない。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと啓子は思ったのだったが、植木は、明日死ぬ身だから、なにもしないと思ったのかもしれなかった。
小山の多い、あの基地の5月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になつてゐる、学校の庭の栴檀(せんだん)の花にも、私は目を見張つたものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。若い方々が死に飛び立つてゆく土地で……。
私は自然を見に、九州の南端まで来たかのやうだつた。
しかし、5月の基地は雨が多かった。そのために出撃が延び、寺村は生き残ったのだった。
1年後の今、東海道の新芽のあざやかさに目を奪われる啓子は、自分が死ぬつもりでいるからであり、一方、沿線の焼跡が気にかかる寺村は、生きる人なのかも知れなかった。
邪慳なあつかい
しかし4月25日、東京の植木の実家を訪ねた啓子に、植木の母は心をひらかなかった。むしろ、警戒したようだった。水交社といっても、宿屋か料理屋、水商売の娘と啓子を誤解したのかもしれなかった。
みじめな気持ちで植木の家を出ると、東京は一昨夜の嵐で、いっせいに若葉の世界になっていた。東京の焼跡にも、こんなに木が残っているのかと思うほど、みどりがあざやかだった。
鹿屋の基地で、植木と寺村が声を合わせて、ドイツ語の歌をうたったことを啓子は思い出した。ふたりは同じ高等学校か同じ大学の音楽部で、合唱隊の仲間だったのだろうか、みごとな二部合唱だった。
それは、寺村と梅田と植木の3人が娼家へ行くのに、啓子を誘ったときだった。
寺村と梅田は娼婦と同衾(どうきん)したが、啓子を連れている植木は、娼婦とは寝なかった。植木だけが童貞のまま死んでゆくことになるのだった。
植木はまた、啓子の学校が京都だったねと念を押して、「京都は今ごろ、祗園円山夜桜(ぎおん まるやま よざくら)だね。平和ならね……。」と言って、「いのちひさしき」という長い詩を朗唱した。それは、祇園の桜が枯れようとしている、という意味の詩だった。
その詩の終節は、反歌である。詩の全体を反復し要約するもので、日本一と讃えられた桜の名木が枯れるのを、どうすることもできず傍観する、おのが無力を歎いたものである。
ひのもとのいちとたたへし
はなのきをかるるにまかす
せんすべしらに
三好達治「いのちひさしき」
この詩は、三好達治の第12詩集にあたる『花筐(はながたみ)』に収められた「いのちひさしき」という詩の一節である。1944(昭和19)年6月16日、北海道青磁社から刊行された。石原八束によれば、烈しく思慕した萩原朔太郎の妹、アイに捧げられた愛の詩集であるという。
この詩の主題となった枝垂れ(しだれ)桜は、京都祗園の円山公園にあって、樹齢3百年と伝えられた名木であった。達治自身、「僕の京都」という文章の中で、この木に対する愛着を述べ、その枯死したことを嘆いている。
――わたくしはこのたび、詩の言葉のしらべと、京都というヒントから、作者は三好達治ではないかと見当をつけ、みごとにこの詩の出典を発見した――と思ったが、武田勝彦『川端文学と聖書』(教育出版センター、1971・7・2)の第12章「生命の樹」にこの出典が明示され、かつ「終戦前後の青年の愛唱してやまなかったもの」「終節の『ひのもとのいちとたたへし/はなのきをかるるにまかす/せんすべしらに』に詠いこまれた亡びの哀調が、空襲に荒廃する祖国をせんすべしらに眺めていた青年には深い感銘を与えていた」と述べられているのを読んで、兜(かぶと)をぬいだ。
須藤宏明も、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の「生命の樹」の項で、三好達治と明言している。長谷川泉「生命の樹」論(後述)も、同様の事実を指摘している。
啓子は、今から考えると、植木はこのような日本の運命を知りながら、飛んでいったのではなかろうかと思われた。また、植木は、自分の死後、啓子を、せんすべしらにかるるにまかす宿命の女と、いとおしく思ったのであろうと、武田は推測している。
生命の樹(いのちのき)
山手線の電車で、そのように植木の思い出にふけっている啓子に、寺村が声をかける。
焼けた木に、芽が噴いているのだった。
街路樹だつた。枝はことごとく焼け折れて、炭の槍のやうに尖つた。その幹から、若葉が噴き出してゐるのだつた。若葉はぎつしり、重なり合ひ、押し合ひ、伸びを争ひ、盛り上つて、力あふれてゐた。
焼けただれた街に、自然の生命の噴火だった。
突然、ヨハネ黙示録の一節が啓子の心に浮かぶ。
御使(みつかひ)また水晶のごとく透徹(すきとほ)れる生命(いのち)の水の河を我に見せたり。……都の大路(おほぢ)の真中(まなか)を流る。河の左右に生命(いのち)の樹ありて……、その樹の葉は諸国の民を醫(いや)すなり。……
さらに、別の一節も啓子の心に浮かぶ。
我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
武田は、この部分を、次のように解説している。すなわちこの一節は、天上の最後の審判が終わり、悪魔の活動は停止させられ、死人もすべて復活し、人々は過去の行為によってさばかれたのちに、第21章の新天新地は到来するのである、と。
この一節のあと、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた」で、作品は結ばれている。
作品の主題
とすれば、作品「生命の樹」の主題は、明らかであろう。
焼け跡の木が芽を噴き、若葉を噴きだしたように、再生、復活がこの作品の主題である。ひとたび滅びたものが、新たな生命を得てよみがえる。
植木のために死ぬつもりであった啓子が、寺村と結婚することによって、新しい人生を生きはじめる、と暗示しているのである。
康成は、作品の初めの方でも、鹿屋特攻基地の自然が美しかったことを強調している。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。
作品「生命の樹」は、このように自然の再生の力を強調し、あるいは発見することによって、啓子の人生の新たな出発を描いた作品であるといえる。
武田は前掲の論において、この作品について、およそ次のように述べている。
血みどろの長い戦争のために学徒出陣、学徒動員などのために暗い青春を送ることを余儀なくされた若者は無数にいた。そして百八十度の逆転の中で、信念を奪われ、希望を失った青年たちは、肉体的にも精神的にも生と死の間を彷徨していた。「生命の樹」は、その人たちの再出発に捧げられた讃歌ではなかろうか、と。
さらに武田は、これを「神の啓示」である、として、これが作品の主題であるとする。すなわち、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」と説いている。
三島由紀夫の批評
じつは、「再会」は、雑誌に3回掲載された分量があった。
しかし、先述したように、単行本『哀愁』に収載されたとき、第2回目は削除された。以後の全集でも、「再会」は、この単行本版を踏襲している。
雑誌『文藝春秋』7月号に第2回目「過去」が発表されたとき、後述するように康成によって文壇に出たばかりの三島由紀夫は、『人間』編集長・木村徳三に宛てた手紙のなかで、いち早くこの作品を取り上げ、卓抜な批評を展開している。
――自由の杖といへば、川端さんの「過去」は2回目までの連載(文藝春秋)をよんで「戦後」という(ママ)1つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のものだと思ひました。
経験としての戦争と、外的事件としての戦争と、そのいづれかを扱つた相不変の新小説は無数にありますが、文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される「永遠の無為」とを嘔気のするほど克明に書いた文学、それが「戦後の文学」であるべきです。精神のどうしよ(ママ)うもない、いやらしいほどのふてぶてしさ。
揚棄し、あるひは飛翔したつもりでゐた本能的な衝動が、再びあらゆる精神と思想と情感と感覚をまとつてあらはれて、我々に自堕落な安心を齎(もた)らす主題、それが「再会」です。 (昭和21年7月24日)
何と鋭い批評であろうか。「『戦後』という1つの決定的な運命的な雰囲気を描出した最初のもの」とは、何と的確に、この作品の意義を語っていることだろう。そして「文学、芸術そのものの当然の運命たる傷痍といたましい恢復とそこに象徴される『永遠の無為』」とを「嘔気のするほど克明に書いた文学」であるとは、何と深く「再会」の本質を抉(えぐ)っていることか。
三島の康成への深い傾倒と明敏な批評眼を如実に示した一節である。
「生命の樹」と鹿屋基地の体験
同年の7月、康成は『婦人文庫』に「生命の樹」(いのちのき)を発表した。
これは、戦争末期に鹿屋(かのや)特攻基地に1ヶ月滞在したときの経験と見聞を直接の素材にした、康成の唯一の作品である。
啓子は、近江に生まれ育って京都の女学校を出た娘である。戦争末期、鹿屋海軍航空基地の水交社の経営を委されていた姉夫婦の誘いにしたがって、九州南端の鹿屋基地のほとりに行き、、姉夫婦の仕事を手伝った。
それは「特攻隊員のお傍に行つてみたい娘心」からだったが、果たして啓子は特攻隊員のひとり植木と相思相愛の仲になった。
植木は予定どおり5月に飛び立ち、そして帰ってこなかった。
啓子は5月の終わりに、近江に帰ってきた。まもなく沖縄戦が終了し、日本は降伏した。
1年後の春、植木の親友だった寺村が啓子の家を訪ねてきて、自分は今から東京の植木の遺族に会いにゆく、ついては啓子さんも同行しないかと誘った。
啓子の母親が寺村に好意を抱いたこともあって、啓子はあっさり同行を許される。
寺村に連れられて東京に来る東海道の車窓でも、啓子は木々の新芽のみどりに心を奪われる。そして自分が死ぬつもりでいることを思い出す。
出撃の前夜
出撃の前夜、植木は夜空を見上げて、
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」と、言った。
しかし、それが植木の星の見納めだった。
植木はその明くる朝、沖縄の海に出撃した。
(我、米艦ヲ見ズ)
そして間もなく、
(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)
2度の無電で、消息は絶えた。
――その前夜、植木は自身が合点ゆかぬ風で、
「どうもをかしいね。死ぬやうな気が、なにもせんぢやないか。星がたんと光つてやがら」と言った。啓子は、「そうよ、そうよ」と言いながら、いいことよ、ちつとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、と言いたかった。抱きすくめられるのを待っていたようだった。が、植木は、気がつかぬふりをしたのかもしれない。星の見納めだ、という言い方に、啓子への愛がこもつていたと思えてならない。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと啓子は思ったのだったが、植木は、明日死ぬ身だから、なにもしないと思ったのかもしれなかった。
小山の多い、あの基地の5月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になつてゐる、学校の庭の栴檀(せんだん)の花にも、私は目を見張つたものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。若い方々が死に飛び立つてゆく土地で……。
私は自然を見に、九州の南端まで来たかのやうだつた。
しかし、5月の基地は雨が多かった。そのために出撃が延び、寺村は生き残ったのだった。
1年後の今、東海道の新芽のあざやかさに目を奪われる啓子は、自分が死ぬつもりでいるからであり、一方、沿線の焼跡が気にかかる寺村は、生きる人なのかも知れなかった。
邪慳なあつかい
しかし4月25日、東京の植木の実家を訪ねた啓子に、植木の母は心をひらかなかった。むしろ、警戒したようだった。水交社といっても、宿屋か料理屋、水商売の娘と啓子を誤解したのかもしれなかった。
みじめな気持ちで植木の家を出ると、東京は一昨夜の嵐で、いっせいに若葉の世界になっていた。東京の焼跡にも、こんなに木が残っているのかと思うほど、みどりがあざやかだった。
鹿屋の基地で、植木と寺村が声を合わせて、ドイツ語の歌をうたったことを啓子は思い出した。ふたりは同じ高等学校か同じ大学の音楽部で、合唱隊の仲間だったのだろうか、みごとな二部合唱だった。
それは、寺村と梅田と植木の3人が娼家へ行くのに、啓子を誘ったときだった。
寺村と梅田は娼婦と同衾(どうきん)したが、啓子を連れている植木は、娼婦とは寝なかった。植木だけが童貞のまま死んでゆくことになるのだった。
植木はまた、啓子の学校が京都だったねと念を押して、「京都は今ごろ、祗園円山夜桜(ぎおん まるやま よざくら)だね。平和ならね……。」と言って、「いのちひさしき」という長い詩を朗唱した。それは、祇園の桜が枯れようとしている、という意味の詩だった。
その詩の終節は、反歌である。詩の全体を反復し要約するもので、日本一と讃えられた桜の名木が枯れるのを、どうすることもできず傍観する、おのが無力を歎いたものである。
ひのもとのいちとたたへし
はなのきをかるるにまかす
せんすべしらに
三好達治「いのちひさしき」
この詩は、三好達治の第12詩集にあたる『花筐(はながたみ)』に収められた「いのちひさしき」という詩の一節である。1944(昭和19)年6月16日、北海道青磁社から刊行された。石原八束によれば、烈しく思慕した萩原朔太郎の妹、アイに捧げられた愛の詩集であるという。
この詩の主題となった枝垂れ(しだれ)桜は、京都祗園の円山公園にあって、樹齢3百年と伝えられた名木であった。達治自身、「僕の京都」という文章の中で、この木に対する愛着を述べ、その枯死したことを嘆いている。
――わたくしはこのたび、詩の言葉のしらべと、京都というヒントから、作者は三好達治ではないかと見当をつけ、みごとにこの詩の出典を発見した――と思ったが、武田勝彦『川端文学と聖書』(教育出版センター、1971・7・2)の第12章「生命の樹」にこの出典が明示され、かつ「終戦前後の青年の愛唱してやまなかったもの」「終節の『ひのもとのいちとたたへし/はなのきをかるるにまかす/せんすべしらに』に詠いこまれた亡びの哀調が、空襲に荒廃する祖国をせんすべしらに眺めていた青年には深い感銘を与えていた」と述べられているのを読んで、兜(かぶと)をぬいだ。
須藤宏明も、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の「生命の樹」の項で、三好達治と明言している。長谷川泉「生命の樹」論(後述)も、同様の事実を指摘している。
啓子は、今から考えると、植木はこのような日本の運命を知りながら、飛んでいったのではなかろうかと思われた。また、植木は、自分の死後、啓子を、せんすべしらにかるるにまかす宿命の女と、いとおしく思ったのであろうと、武田は推測している。
生命の樹(いのちのき)
山手線の電車で、そのように植木の思い出にふけっている啓子に、寺村が声をかける。
焼けた木に、芽が噴いているのだった。
街路樹だつた。枝はことごとく焼け折れて、炭の槍のやうに尖つた。その幹から、若葉が噴き出してゐるのだつた。若葉はぎつしり、重なり合ひ、押し合ひ、伸びを争ひ、盛り上つて、力あふれてゐた。
焼けただれた街に、自然の生命の噴火だった。
突然、ヨハネ黙示録の一節が啓子の心に浮かぶ。
御使(みつかひ)また水晶のごとく透徹(すきとほ)れる生命(いのち)の水の河を我に見せたり。……都の大路(おほぢ)の真中(まなか)を流る。河の左右に生命(いのち)の樹ありて……、その樹の葉は諸国の民を醫(いや)すなり。……
さらに、別の一節も啓子の心に浮かぶ。
我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前(さき)の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
武田は、この部分を、次のように解説している。すなわちこの一節は、天上の最後の審判が終わり、悪魔の活動は停止させられ、死人もすべて復活し、人々は過去の行為によってさばかれたのちに、第21章の新天新地は到来するのである、と。
この一節のあと、「本郷にある、寺村さんのお友達のおうちへ、私たちは帰るのだつた」で、作品は結ばれている。
作品の主題
とすれば、作品「生命の樹」の主題は、明らかであろう。
焼け跡の木が芽を噴き、若葉を噴きだしたように、再生、復活がこの作品の主題である。ひとたび滅びたものが、新たな生命を得てよみがえる。
植木のために死ぬつもりであった啓子が、寺村と結婚することによって、新しい人生を生きはじめる、と暗示しているのである。
康成は、作品の初めの方でも、鹿屋特攻基地の自然が美しかったことを強調している。
どうして、自然がこんなに美しいのだらう。
作品「生命の樹」は、このように自然の再生の力を強調し、あるいは発見することによって、啓子の人生の新たな出発を描いた作品であるといえる。
武田は前掲の論において、この作品について、およそ次のように述べている。
血みどろの長い戦争のために学徒出陣、学徒動員などのために暗い青春を送ることを余儀なくされた若者は無数にいた。そして百八十度の逆転の中で、信念を奪われ、希望を失った青年たちは、肉体的にも精神的にも生と死の間を彷徨していた。「生命の樹」は、その人たちの再出発に捧げられた讃歌ではなかろうか、と。
さらに武田は、これを「神の啓示」である、として、これが作品の主題であるとする。すなわち、「恋人を戦争に奪われた啓子が生命の樹を発見することによって、人間としての自我を恢復したことである」と説いている。
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